1 天は神の栄光を語る

「天は神の栄光を語り」とは、夏の夜空に輝くあまがわを見て、驚異に身体が震えるような体験を指しているように思われます。宇宙が無言のことばで「神の栄光」を語っているというのです。街灯がない時代にはそのような感動の機会は今より多くあったことでしょう。
 天の川は私たちが銀河系の中心を見ているものですが、この地球がある太陽系は、銀河の端の方にあり、この銀河の広さは一秒間に地球を七回半回る光の速度で八万五千年もかかるほどの直径があります。このような銀河が数多く集まって銀河団が作られますが、それも数億光年の広がりを持つ超銀河の一部に過ぎません。最近、この地球から何と五十億光年も離れた二百六十万光年の直径を持つ銀河団の暗黒物質を写した写真がテレビで公開されていました。それは五十億年前の宇宙の姿を映していることになります。
 そして、この宇宙は広がり続けていると言われます。それでは、その原初の巨大なエネルギーはどのように生まれたのでしょう?その始まりを推測はできても、真の意味で解明できる科学者はいません。私たちは「自然」ということばを用いますが、宇宙が何もないところに自然に生まれるでしょうか。聖書は、大空に広がる広大な世界を、神の「御手のわざ」と呼びます。

「昼は昼へと話を取り次ぎ」とは、夜になって今までの世界が暗やみに消えたように見えても、翌日には同じ状態が再び継続して見られるということに、驚異の念を覚えている表現です。それは、夜空の星に関しても同じことが言えます。
 私たちの世界では、車が急に動かなくなったり、愛する人が突然いなくなったり、リストラにあったり、会社が倒産したりなどと、明日への不安を抱かざるを得ないことが多くあります。ところが、神の御手のわざは、変わることなく存在し続けています。この継続性こそが、何よりの驚異ではないでしょうか。
 たとえば、私はエルサレムでイエスの十字架の道を歩んだとき、そこにある石畳や町並みに二千年前の姿を思い浮かべることはまったくできませんでした。しかし、イエスが歩んだかもしれない海辺で、地中海に沈む夕日を見ながら、主もまったく同じ風景を見ていたのだろうかと思い、何とも不思議な感動に包まれました。多くの人は、この継続性を単なる自然現象と見るでしょうが、私たちの日常生活で、何の力も加えずに動き続けるものなどがどこにあるでしょう。

ところが、聖書によると、昼と夜の繰り返しは、自然ではなく、神の命令が今日から明日へと語り継がれているしるしです。
 このことを預言者エレミヤは、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られる」(エレミヤ三三・二〇、二一)と書き記しました。
 つまり、昼と夜の繰り返しや季節の規則的な移り変わりは、神が、ご自身の契約を真実に守り通しておられることのしるしだというのです。

そのことを人が、「それは地球の自転によって起こっているだけでしょう……」と説明したとしても、その規則性自体が驚異ではないでしょうか。つまり、それは「自ら回転して」というより、創造主によってちょうどよいスピードで「回転させられている」ということなのです。かつて、いわゆる天動説を主張した人も、地動説を主張した人も、互いに矛盾しているようであっても、すべてが神の御手にあって起こっているという点では一致していました。現代の人々は、その原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。

なお、当時の人々は、太陽が天の果てから昇ってきて、天の果てに沈み、夜の間、太陽はどこかに休んでいるように考えました。そればかりか、エジプトではこの太陽を、神としてあがめていました。ところが、その同じ時代に、この詩篇作者は、「太陽のため……幕屋を」世界の果てに用意された方がいると表現したのです。しかも、この詩篇作者は、「神が」ということばをあえて隠し、また「太陽」ということばも一度しか用いずに、その走る姿に私たちの目を向けさせ、それを、花嫁を迎えに行く花婿にたとえて、そこに喜びの歌を思い浮かべさせます。
 また、「その熱をこうむらないものはない」と、太陽の熱が、何にもさえぎられることなく、全世界に及んでいるという圧倒的な力に目が向けられています。
 夜空も太陽も無言のままですが、それらすべてが私たちに何らかの驚異の念を起こさせます。そして、この詩篇作者も、あえて「神が……」という主語を省いて、ことばを超えたこの被造世界の神秘を味わうようにと招いているのではないでしょうか。

世界は、ことばや理屈が多すぎるのかもしれません。何の説明もつけずに、この世界の驚異を味わうときが必要ではないでしょうか。自分が世界を把握しようとするのではなく、これらの被造物を通して、神が発しておられることばにならないことばを味わってみるべきでしょう。

最近、何を見、また何を聞いて来られたでしょうか?人間の知恵と力が作った巨大な建物、また、他の人の成功や失敗、またあなたへの賞賛や中傷ばかりに心を向けていると、そこではあなたの存在価値が、「どんぐりのせいくらべ」のようなむなしい比較の中で計られていることに気づくことでしょう。私たちは、人の働き以前に、神の御手のわざを、ただ静かに味わうときが必要なのではないでしょうか。
 私は、自分の歩みを振り返りながら、「なんであんな些細ささいなことに心をいらだたせていたのだろう」と思うことがあります。しかし、問題の渦中にいたとき、それが命を賭けるに値する大問題かのように思え、まわりの人を振り回し、愛の交わりを壊してしまったような気がします。それは、この「心」の視野があまりにも狭くなっていたからです。そんなときは、人里離れたところに行って、神のみわざを見ながら、この詩篇を朗読するのがよいのではないでしょうか。


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