3 すべての罪の始めは高慢である

「だれが数々のあやまちに気づくことができるでしょう」(一二節)とは、「無意識のうち」に犯してしまう神と人とに対する罪を指していると思われます。人は基本的に、他人の過ちには敏感なのに、自分の「あやまち」に関しては驚くほど鈍感になり、「私は結構良い人間だ……」と思い込みながら、人を振り回し、傷つけたりしています。作者は、そのような「数々のあやまち」を思いながら、「その隠されているものから私をきよめてください」と祈ります。
 そして、続けて、「このしもべの高慢を抑え、支配させないでください」と祈ります。サタンは、「いと高き方のようになろう」(イザヤ一四・一四)と願って天から落ちた神の御使いのなれの果てです。また最初の人アダムは、「あなたがたが神のようになる」(創世三・五)という誘惑に負けて、食べてはならないと言われた木の実を取って食べました。ですから、「すべての罪の始めは高慢である」と言われることはまさに真実でしょう。

それにしても、「より強く、より美しく、より賢く、より豊かに……」と願うこと自体は決して悪いことではありません。「糸の切れたたこ」のようにならないように、しっかりと創造主につかまえていていただけば、そのような向上心こそ、神と人とのために豊かに用いていただくための成長の鍵となります。ただ、そこにある落とし穴は、「何のために」という人生の目的を忘れることにあります。向上心が、人を見下し、神を忘れるような方向に向かわないように、「高慢を抑え、支配させないでください」と祈る必要があるのではないでしょうか。
 そして、私たちがこの根源的な「高慢」の罪から守られるなら、「それで私は完全にされ」るというのです。つまり、自分が、生まれながら、神が創造された世界に包まれ、生かされている存在であることを意識し、また、神のみことばなしには、生きる意味も目的も理解できず、与えられた「いのち」を真の意味で輝かせることができないことがほんとうに分かるなら、そのときこそ、神が願われる「完全」に達したことになるのではないでしょうか。
 また、それと同時に、「私は」、先の無意識の「あやまち」ばかりか、「大きなそむき」という意図的な罪からも「きよめられ」ると述べられます。「そむき」とは、主(ヤハウェ)の「しもべ」としての生き方を捨てることを意味するからです。私たちは、何としばしば意図的に神に逆らい、また人を傷つけてしまうことでしょう。実は、心の奥底には、神のみこころにかなったものを望みたくはない自分がいるのです。
 それゆえ、作者は、私たちの心が変えられる根本は、何よりも「高慢」の問題であると断言します。つまり、これさえ神によって取り扱われるなら、人生は変えられるというのです。

そして最後に、「この口のことばと心の思いとが、御前に喜ばれますように」と祈ります。作者ダビデは、別の詩篇で、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれ、打ちひしがれた心」(詩篇五一・七 私訳)と述べています。何か大きな働きを成し遂げることよりも、高慢を砕かれた「心」こそが、 神の御前で喜ばれるものなのです。
 私たちには、思い通りにならなかった人間関係や様々な苦しみの中で、「どうして……」と思うことも多くあることでしょう。しかし、それらがなければ、この私は自分の罪も神の恵みを知ることができなかったように思います。
 最後に作者は、「主(ヤハウェ)」という御名を七度目に呼びながら、その方こそが、「私」がより頼むべき「岩」、人生の基盤であること、また、「私」をこの罪と不条理に満ちた世界から救い出してくださる「贈い主」であると告白します。

ところで、私は自分の頭上に広がる広大な宇宙を見上げながら、「この銀河系は六十億年後にはもっとも近いアンドロメダ銀河と衝突することになる……」などと、天体の法則を分かったようなつもりになって、なお高慢になることがあります。また、モーセ五書を読んで感動する代わりに、「私はこの難解な書に関しての良い本を書けた……」などと高慢になることがあります。それは天に目を向ける代わりに、それを見ている自分を意識し、また聖書に没頭する代わりに、それを読む自分に目が向かっているからです。
 今も、多くの人々から慕われ、尊敬されている約八百年前のアシジのフランシスコは、父親から受け継ぐことができる財産をすべて放棄して、粗末な毛皮一枚の裸に近い状態になったときに、かえって、神が創造された世界の美しさに心から感動し、喜びに踊りだしました。そればかりか、この世界全体が神への賛美を奏でているその声を聞くことができたといわれます。
 私たちも、自分が持っているものではなく、神が一方的に日々与えてくださっている恵みにこそ目を向けたいものです。そのために、私たちは、これらの意味を頭で考えるよりは、この詩を口ずさみ、歌うべきではないでしょうか。

ヨーゼフ・ハイドンによるオラトリオ「天地創造」の第一部の終わりの合唱ではこの詩篇の一、二節が高らかに歌われていますが(『讃美歌』七四番、『聖歌』一一六番参照)、古来、多くの人々がこの詩に慰めれ、この詩を歌にしてきました。自意識過剰になる自分を分析するまえに、ただこの詩を、空を見上げつつ、歩きながら、また野に臥せりながら唱えてみてはいかがでしょう。
 また、同時に、自分の心にかつて響いてきたみことばを、ひとつでも、二つでも、ただ心の中で繰り返し、味わってみてはいかがでしょう。神は御手のわざと御口のことばによって、あなたに今も語り続けておられます。


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