〈第一部のまとめ〉
この第一部をまとめるにあたって、シモーヌ・ヴェイユという二十世紀初頭に生きたユダヤ系フランス人の哲学者のことばが心に響きました。彼女はキリストとの深い出会いを体験した後、「樹木は、地中に根を張っているのではありません。空(天)にです」と言ったそうです(ジェームズ・フーストン著『喜びの旅路』長島勝訳、いのちのことば社刊、二〇〇七年、二八九頁)。
彼女はギリシャ語で「主の祈り」の初めのことばを暗唱している中で不思議な感動に包まれたとのことです(ヴェロニカ・ズンデル編『黙想の伴侶』中村妙子訳、新教出版社刊、一九八八年、一〇八、一〇九頁)。その祈りは、原文では、「お父様!」という呼びかけから始まり、その方が、「私たちのお父様」であり、また、「天(複数)におられる」と続きます。
彼女はそれを繰り返しながら、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動、またその支配者である方が自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでおられるという感動を味わいました。
私は大地に根ざした生き方を大切に思ってきましたが、それ以上に大切なのは、この自分の世界が諸々の天の主であられる神のご支配によって守られ、支えられているということをいつも覚えることであると示されました。この私は天に根を張って、この地に一時的に置かれ、荒野に咲く花のように、短いいのちを、この地で輝かせるように召されています。そして、樹木が天から引っ張られるようにして地中から水を吸いながら、そのためにかえって大地に根ざしていく、天を出発点とした考え方は大地に根ざす生き方と矛盾するものではありません。
つまり、神の創造のみわざを喜ぶことと、この地に置かれた自分の存在を喜ぶことは切り離せない関係にあるのです。私たちは、このままの姿で、この地において、神を愛し、人を愛し、神を喜ぶことができます。
この第一部のまとめとして、主の祈りの第一、「あなたの御名があがめられ(聖とされ)ますように」という祈りを覚えさせられます。心の中で、主の御名が聖なるものとされ、御名があがめられるとき初めて、私たちも、いのちの喜びに満たされます。私たちの心が、これらの主の創造のみわざをたたえる賛美に導かれるとき、そこに真の自由が生まれます。
私たちはしばしば、「主の御名をあがめる」ということの意味を、いろいろ抽象的に考えてしまいがちかもしれません。しかし、そうする前に、ただ、これらの詩篇を、心から味わい、それを口に出して、主を賛美すべきではないでしょうか。
しかも、それをひとりでするとともに、信仰者の交わりの中で、この詩篇にある並行法の形式を生かしながら賛美すべきではないでしょうか。聖霊が詩篇作者を通して与えてくださった形にしたがって主を賛美することの中に、思ってもみなかった祝福が体験できるかもしれません。