3「主(ヤハウェ)は王である」

ダビデは、人々が貢物を携え、王である自分の権威の前にひざまずくことを求める代わりに、ささげものを携え、主の大庭に入れ。主(ヤハウェ)にひれ伏せ……」(八、九節)と勧めました。それは、心ばかりか自分の身体と財産のすべてを用いて、主への感謝を表す姿勢です。
 また多くの人は、この地の権力者の前で「おののき」ますが、「地のすべてのもの」は、この地の真の支配者であるヤハウェにひれ伏し、「御前でおののく」べきなのです。
 そしてダビデは、「主(ヤハウェ)」こそがイスラエルばかりか全世界の「王」であると、聖歌隊がそろって宣言するようにと命じます(一〇節)。この告白こそ、この詩の核心です。同時に、この「主(ヤハウェ)は王である」という告白こそが、ダビデ王国が祝福された鍵です。

あなたの人生では、誰が「王」となっているでしょうか。自分の無力さ、愚かさを忘れた「裸の王様」も悲劇ですが、目に見える人間を「王」とあがめて、その人の期待に添うようなことばかりを求めることも、自分をただ息苦しくするだけではないでしょうか。
 今も、主は、この世界の「王」として、全地を支配しておられます。決まった時間に日が昇り、四季の繰り返しがあるのは、主が「世界を堅く立て」ておられることの結果です。地震や洪水があっても、局地的な被害にとどまり続け、この地が「揺るぐことがない」のは、当たり前ではなく、主がノアに対する契約を守っておられるしるしなのです(創世八・二一、二二)。
 エレミヤはイスラエルの国が滅亡する中で、昼と夜との繰り返しを見ながら、このノアとの契約が守られていることを覚え、主のダビデに対する契約も守り通されると預言しました(エレミヤ三三・二〇〜二二)。そして、今、主ご自身が私たちひとりひとりに対し、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル一三・五)と約束しておられます。この契約も破られることはありません。主は、「王」として、あなたを守り通してくださいます。

「やがて主は、公正をもって人々をさばかれる」(一〇節)とは、弱い者が強い者にしいたげられ、自分たちの労苦の実もかすめ奪われてしまうような世の不条理が正されることを意味します。それは、救い主の到来によってすでに始まっていることです。
 ですから、イザヤ書一一章では「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」という書き出しとともに、ダビデの子として生まれる救い主は、この世の弱肉強食を終わらせ、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し……獅子も牛のようにわらを食う」(六、七節)という平和を実現させると預言されています。
 ここにおける主の「さばき」は、そのような救いの完成のときを指し示します。それを前提にパウロは「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる」(ローマ八・二一)と記しています。そして、その被造物すべての救いの完成の望みのことが、一一、一二節では、「喜べ」「喜び踊れ」「とどろけ」「歓喜せよ」「喜び歌う」というほとんど同じ意味を持つ五つもの異なった喜びのことばで表されているのです。
 なお、「そのとき森のすべての木も、主(ヤハウェ)の御前で喜び歌う」(一二節)と、「森の木」に特に目が向けられます。エゼキエル書三一章では北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ帝国が「レバノンの杉」にたとえられ、自分の高さを誇って神のさばきを受ける様子が描かれています。しかし、世界の完成のときは、森の木は天にそびえながら、主を賛美するのです。
 「主は確かに来られる。地をさばくために来られる。正しく世界を、真実に人々をさばかれる」(一三節)という告白は、私たちにとってキリストの再臨の希望を意味します。二千年前にキリストが肉の身体を持って来られ、十字架にかかってよみがえられたことは、やがてキリストが世をさばくために再び来られることとセットになっています。
 主は罪人をあわれまれたからこそ、さばきのときを遅らせておられます。そして、私たちが自分の罪深さを認めてイエスにすがっている限り、この再臨のときを恐れる必要はありません。それはキリスト者にとっては、「祝福された望み」(テトス二・一三)だからです。

この詩篇には、聖書の最初から最後までの要約が記されています。この世界には、様々な不条理、悲しみが満ちています。それらを直視しながら、どうして喜んでいることができるでしょう。しかし、「主(ヤハウェ)は王である」と告白する者にとっては、どのような悲しみも、歓喜の歌を迎えるための間奏曲に過ぎません。私たちは永遠の喜びの世界に入れられることを保証された者です。その永遠の観点から見ると、どんな悲しみも、束の間の出来事に過ぎません。
 この神秘を、英国の作家、G・K・チェスタトンは、今から百年ほど前に次のように記しています。「歓喜は……キリスト教徒にとっても巨大な秘密である……この人はみずからの涙を一度も隠しはしなかった……だが彼には何か隠していることがあった……神がこの地上を歩み給うた時、 神がわれわれに見せるにはあまり大きすぎるものが、たしか何かしらひとつあったのである。そして私は時々一人考えるのだ——それは神の笑いではなかったのかと」(「G・K・チェスタトン著作集」1『正当とは何か』安西徹雄訳、春秋社刊、一九七三年、二九五、二九六頁)。
 今、神が沈黙しておられるように感じるのは、私たちの霊の耳が聞き分けることのできる音があまりにも限られていることの結果かもしれません。天にはすでに神への賛美の歌が響いているのではないでしょうか。私たちは、その喜びの声が、あまりにも大きすぎて聞こえないのかもしれません。そのような限界の中で、私たちが「主に歌う」ということは、天上の賛美に私たちの心を共鳴させてゆくプロセスであると言えましょう。


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