2「栄光と力を主(ヤハウェ)に帰せよ」

「主(ヤハウェ)は偉大であり、大いに賛美されるべき方、すべての神々にまさって、恐れられるべき方。まことに、諸国の民のすべての神々はむなしい」(四、五節)とありますが、「むなしい」とは、見せかけだけの「からっぽ」であることを意味します。ただし、私たちは他の神々を礼拝してはいなくても、この世の富や権力を恐れて生きてはいないでしょうか。
 通貨を用いていなかった南太平洋のサモア諸島の人々がヨーロッパの宣教師によって真の神を紹介されました。しかし、後に彼らは、白人たちは創造主を礼拝しているように見せかけて、実はお金を神としてあがめていると非難したとのことです。
 「しかし、主(ヤハウェ)は、天を造られた」(五節)という現実を、私たちもまず覚えるべきでてしょう。人間の技術が太陽の光を真似たものを作ったと言っても、それは本物に遠く及ばないものに過ぎません。神が創造された天(複数)とは、私たちの想像をはるかに超えた全宇宙の広がりと、この世の現実の背後にある目に見えない永遠の世界のすべてを含むものです。
 私たちの視野が狭すぎるため、知らないうちに、真の「尊厳と威光」「力と光栄」(六節)がどこにあるかを忘れてしまってはいないでしょうか。ここで、作者は、「主の栄光」とも表現できる概念を、あえて異なったことばで多様に言い表しています。

七、八節では「主(ヤハウェ)に帰せよ」ということばが三回繰り返されます。それは「栄光と力を主に帰せよ」という意味ですが、そのように文章をあえて完結させず、「主(ヤハウェ)に帰せよ」ということばだけが繰り返されるのは、何とも不思議です。それは人が、いつもすべての幸せの原因を、人間の手に「帰して」しまうからではないでしょうか。それでここでは、「栄光と力」、「御名の栄光」ということばが重なって、「主に栄光を帰す」ことが強調されています。
 なお、「栄光」の本来の意味は「重さ」ですが、それは「まことに人間の子らは息のようなもの……彼らを合わせても、息よりも軽い」(詩篇六二・九)とあるような人の「軽さ」と対照的な概念です。人の愚かさは、その軽い人間の栄光を、神の栄光よりも優先してしまうことにあります。

モーセは約束の地を前にしたイスラエルの民に向かって、「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。あなたが万一、あなたの神、主(ヤハウェ)を忘れ……るようなことがあれば……あなたがたは必ず滅びる」と警告しました(申命八・一七〜一九)。しかし、イスラエルは豊かさの中で主を忘れ、滅びてしまいました。
 これは現代の社会に対する警告とも言えましょう。現代人は、コンクリートの建物の中とその間を忙しく動きまわるばかりで、太陽の光も、小川のせせらぎも、大地の恵みも忘れて生きています。彼らは人間の技術力がすべての富のみなもとであるかのように誤解しています。
 パウロは自分の知恵を誇るコリントの人々に向かって、「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント四・七)と戒めました。
 もちろん、私たちは、能力を最大限に生かし、世界を少しでも住みよくするために協力し合うべきですが、いのちのみなもとである方を忘れ、人間の能力ばかりを見るなら悲劇が生まれます。そのとき私たちの心は、卑しく貧しく余裕がない状態へと駆り立てられるからです。


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