1 創造主のみわざを覚えて歌う

この詩篇とほとんど同じものが歴代誌第一、一六章に記されています。ダビデがエルサレムに都を定めてすぐに行ったことは、「十のことば」が収められた契約の箱を運び入れることでした。その際、全イスラエルが歓声をあげ、様々な楽器を響かせる中で、ダビデは飛び跳ねて喜び踊りました。そのときに聖歌隊によって歌われたのが、この詩篇だったというのです。
 当時の常識では、このようなときに王が取るべき態度とは、自分を神の代理としての威厳に満ちた衣装で包み、自分は玉座に乗せられたままで運ばれ、上からしもべたちの踊りを見下ろし、神と自分とを並べて拝ませることでした。ところがダビデは、人々の眼差しを忘れたかのように、自分を真の王を迎える「しもべ」の立場に置いて、喜び踊ったのでした。
 彼は、王権が創造主からの一方的な恵みであり、王として立てるのも退けるのも神のみこころしだいであることを、前任者サウルの失敗を通して分かっていました。サウルは人々の信頼を得ようと必死でしたが、ダビデは人々の目を創造主である神に向けようと必死になりました。

ダビデは最初に、「主(ヤハウェ)に歌え」と三度繰り返します(一、二節)。その際、恐れ多い御名、「ヤハウェ」を大胆に口にします。そこには、いかなる人でもなく、すべてのみなもとであられる主(ヤハウェ)ご自身こそが誉めたたえられ、注目されるべきだとの訴えがあります。
 「新しい歌」とは、「新鮮さ」を意味します。後に、預言者エレミヤは、エルサレムが廃墟となった中で、「私たちが滅びうせなかったのは、主(ヤハウェ)の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌三・二二、二三)と歌いました。同じように私たちも、どのような状況下でも、主(ヤハウェ)の恵みとあわれみを思い起こし、日々新鮮な感動とともに「主に歌う」ことができます。
 そしてダビデは、「全地のもの」が、「主の御名をたたえる」(二節)という歌を奏でる世界を夢見ながら、「主(ヤハウェ)に歌う」ことを訴えています。

そして、「御救いを、日から日へと告げ知らせよ」(二節)とは、当時としては、主がイスラエルをエジプトから不思議な御手をもって救い出してくださったことから、ダビデによるエルサレムの占領に至るすべてのことを、主の救いのみわざとして後の世代に、「歌」をもって伝えることでした。それは、現代の私たちにとっては、二千年前のキリストのみわざが現代の私たちに救いをもたらしているという霊的な現実を、歌い継ぐことを意味します。
 その上で、そのような救いをもたらす「主の栄光」を、自分の身近な人にとどめないで、「国々に語り告げよ」(三節)と勧められます。なお「語り告げる」とは「記録する」とも訳されることばで、主の「くすしいみわざ」を、ひとつひとつ数え上げ、それを「すべての民に」、つまり、まわりの人々すべてに、「語り告げる」ことが勧められているのです。
 教会で歌われている様々な賛美の歌は、「主(ヤハウェ)に」歌われているものであるとともに、主の救いのみわざを人の心にメロディーをもって伝えているものです。宣教と賛美は切り離せません。私たちは主のことばを理性だけで理解しようとしがちですが、主のみわざを、歌をもって伝えるとき、それは人の心の奥底にまで届きます。ルターやウエスレーは、福音のメッセージを歌にすることで、世界を変えるような働きをしました。そして、そのような「新鮮な歌」は今も、 生まれ続けています。「主(ヤハウェ)に歌う」ことは、「主の……くすしいみわざを、すべての民に」宣べ伝えることでもあるという原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。


次へ目次前へ