第二部 深い孤独感の中での祈り

人はひとりで生きることはできません。そのため、多くの人にとっての日常的な悩みの中心は、人間関係に関わることではないでしょうか。そして、私たちにとって、もっとも耐え難い苦しみとは孤独感ではないでしょうか。
 その痛みを、私たちは霊感された神のみことばを用いて、神に訴えることができます。私は、これらの詩篇に、自分の気持ちが映し出されているのを見て、深い感動に満たされました。それは、自分の混乱した気持ちがそのまま神に受け入れられていると感じられたからです。

福音書には主イエスの痛みや苦しみが描かれています。そして不思議なことに、あの残酷な十字架刑の場面でも、肉体的な痛みはほとんど描かれず、イエスの孤独感にこそ焦点が当てられているように思われます。実際、マタイ、マルコ両福音書では、イエスの十字架のことばは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」だけしか残されていません。そして、それは詩篇二二篇の初めの祈りそのものです。それは、イエスがまさに私たちすべての代表者として、人間にとって最も苦しい「孤独感」を神に訴えた祈りです。

詩篇二二篇は「見捨てられ、救われる」ことが歌われています。ここには第五福音書と言われるほどに、イエスの十字架のことが描かれ、見捨てられることの痛みから、救いの喜びへと祈りが展開されてゆきます。この詩は、私たちが孤独感を神に訴える上での大きな導きとなります。私はこれを通して、自分の人生を神の視点から見直すということを学ぶことができました。

詩篇六九篇は、「孤独感を祈る」ものです。ここには被害者としての意識、人からあざけられ、ののしられることの苦しみが赤裸々に歌われています。そしてこれもキリストの十字架の苦しみを預言的に記している代表的な詩篇です。私は、自分の中にある見捨てられ不安や、人の同情を求めたくなる意識を恥じて、それを克服することばかり考えていましたが、これらふたつの詩篇によって、自分の感情にやさしく寄り添うということを学ぶことができました。

詩篇五五篇は、「逃げ場がない中での祈り」です。この詩は、最後の部分の「あなたの重荷を主にゆだねよ」ばかりが引用されますが、全体としては圧倒的な孤独感を歌った暗い調子に満ちています。しかし、それを通して、逃げ出したいほどの気持ちが優しく受け止められます。

詩篇一八篇は、「敵に囲まれた中での救い」が歌われています。そこでは、神の救いが、「主は、天を曲げ、降りて来られた。暗やみを足台として」という不思議な表現で描かれます。神が近づいてくださることが、「暗やみ」が近づくこととして表現されるという神秘は、カトリック、プロテスタントを問わず多くの信仰者の心をとらえ、その祈りを深めるために用いられてきました。そこでの救いは、極めて現実的であるとともに、極めて霊的なものです。


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