2「あなたの指のわざである天を仰ぎ見……」

「あなたの指のわざである天を仰ぎ見、あなたが配置された月や星を見ますのに……」(三節)とは、街灯のない暗い所で夜空を見上げるとき直感的に感じられる驚きです。夏の夜空に輝く美しいあまがわは、銀河系の中心を見ているものですが、その銀河さえも全宇宙の中では豆粒のように小さいものです。それらすべてが、神の「指のわざ」に過ぎないというのです。
 そのような大宇宙に思いを巡らすとき、「人とは、何者なのでしょう。人の子とは、何者なのでしょう」(四節)と問いたくなります。その広さから人を見ると、ありよりもはるかに小さく、吹けば飛ぶようなひ弱な存在に過ぎないからです。
 しかし、神はその小さなひとりひとりを「みこころに留め」、ご自身の心の中にいつも覚えていてくださいます。そればかりか、高い地位にある人が無名の人に特別に目をかけるのと同じように、神はひとりひとりを「顧みてくださる」というのです。ダビデは自分がイスラエルの王として選ばれた理由が、自分の能力や信仰が評価されたとは思っていませんでした。ただ、神が一方的に自分に目を留め、覚え、守り、引き上げてくださったと感謝していました。

パスカルはそのことを、「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だがそれは考える葦である」(「世界の名著」29『パンセ』前田陽一訳、中央公論社刊、一九七九年、二〇四頁」347)と言いました。それは、人は、宇宙の巨大さと自分の頼りなさを「知ることができる」からこそ「尊い」という意味です。多くの人々は、自分に助けが必要だと思えば思うほど、「私は愛されるに値する存在です……」とアピールしたくなります。しかし、そこから人と人との比較や競争が始まり、心の中で、「私は弱く愚かだとしても、あの人よりはましだ……」と思うことで慰めを得ようとします。ところがパスカルは、自分の絶対的な頼りなさと真正面から向き合うことこそ、人間の尊厳である「考えること」の本質だと言ったのです。私は自分の弱さを恥じて生きてきました。しかし、この教えは、私に自分の弱さと正面から向き合う勇気を与えてくれました。

ところで、私は学生運動が行き詰まりになった時代に育ち、一つの思想信条に捕らわれることの危険を感じ、また「真理」を訴える人の中に隠された偽善に失望を味わってきました。ですから、この私が聖書を真理と受け止め、牧師となっていること自体が奇跡とさえ思えます。
 私は長らく、自分の信仰の弱さに後ろめたさを感じてきました。しかし、私にとっての信仰とは、自分の側から始まったものではなく、自分に失望しているようなときに、ふと、私の創造主が私を「みこころに留め」、また「顧みて」おられるということに気づかされたということに始まっていました。しかも、それは、振り返ってみると、数え切れないほど多く起こっていることでした。
 たとえば、私が、牧会に行き詰まりを感じ、一九九七年にカナダのリージェント・カレッジという神学校のサマー・スクールを受講したときのことです。数回にわたって、その創立者のジェームズ・フーストン師の個人的なカウンセリングを受けることができました。先生は、いつくしみのまなざしで私の悩みを聞いた上で、「あなたが率直に自分の不信仰を認め、その解決のためにこのような遠くまで来ているということ自体が神に喜ばれているのです。あなたの信仰も祈りも、聖霊の働きでしょう……」という趣旨のことを語ってくださり、帰りには、先生自ら、空港まで車を運転してお送りくださり、固く抱擁して見送ってくださいました。このとき、私はそれまで知識としては知っていたことを、心から味わうことができたような気がします。そして、そのパーソナルな出会いは、私が掴み取ったのではなく、まさに、恵みとして与えられたものでした。
 神への信仰は、上から与えられるものです。信仰の足りなさを嘆く前に、「たとえ不十分であっても、こんな私が信じられている!」という現実をこそ感謝すべきでしょう。なぜなら、それこそ、あなたが神から一方的に愛され、「神の子」とされているしるしだからです。
 実は、私が自分の不信仰に悩んでいるとき、そこには、心の目を神に向ける代わりに、自分の感覚を疑うという神経症的な空回りが起こっていたように思えます。しかし、この詩篇が評価し、またイエスご自身も喜ばれた「幼子や乳飲み子の信仰」とは、その「信仰深さ」の程度を測ることができるようなものではありませんでした。単に、自分で自分の問題を解決することができないからと、ただ助けを求めて叫ぶことにほかなりませんでした。


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