3「あなたは彼を、神よりわずかに低いものとされ……」
「あなたは彼を、神よりわずかに低いものとされ」(五節)とは、人がすべて、「神のかたち」に創造され、神と対話することができるという意味です。しかし、最初の人間アダムは、神のかたちに創造されたことに満足する代わりに、「神のようになり、善悪を知るようになる」(創世三・五)ことを求めました。つまり、神の代わりに自分を善悪の基準に置き、神の競争者になろうとしたのです。その結果、人と人との争いや環境破壊という世界の悲劇が始まりました。
「栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいます」とは、私たちに保証された将来的な約束です。その前に、「人(アダム)の子とは、何者なのでしょう」と告白されていましたが、私たちはキリストにあってアダムが失った祝福を再び受けるものとされたのです。
「御手のわざの数々を彼に治めさせようと」(六節)とは、神が人を創造された本来の目的です。しかし、人が神に逆らい、自分を神のようにして以来、人は反対に環境破壊の元凶になってしまいました。ただし、神は創造の秩序として、既にすべてのものを「彼の足の下に置いておられるというのです。それは、「羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うもの」(七節)すべてに及ぶことです。そこに「神のかたち」に創造された者としての責任が生まれます。
人は自然の一部であるという
どちらにしても、私たちは傍観者になることは許されませんし、インスタントな解決もありません。ひとりひとりが、この世界の環境保全と平和に対して責任を自覚する必要があります。そして、そこには私たちひとりひとりの誇りに満ちた固有の使命が生まれます。
それにしても、動物の世界にも広がる弱肉強食の争いは、アダムの罪によって起こったことで、本来の神の意図ではありませんでした。しかし、私たちが「栄光と誉れの冠を受ける」とき、この世界には、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し……雌牛と熊とは共に草をはみ……乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ……」(イザヤ一一・六〜八)という神の平和が実現します。そして、預言者たちはこのような世界をもたらすために救い主が来られると預言していました。それがクリスマスに実現し始めたのです。
私たちは、この世界がそのような神の平和に満たされることを待ち望みながら、今、置かれている場で、ひとりひとりが、神のかたちに創造された者としての責任を一歩一歩果たしてゆくように召されているのです。
ところで、この五節の「あなたは彼を、神よりわずかに低いものとされて……」の、「彼」の部分に、ヘブル人への手紙二章では、人となられた神、イエスを当てはめて解釈しています。
最初のアダムは、「神よりわずかに低いものとされた」ことに満足せず、自分を神のように高くしようとして世界の悲惨の原因となりました。しかし、第二のアダムであるキリストは、父なる神とともに世界を創造された神でありながら、あえてご自分を低くされました。しかも、すべての人の罪を負うための十字架の死の苦しみをも味わうところまでご自分を低くされたのです。
そして、父なる神は、このキリストを死人の中からよみがえらせ、私たちの初穂として「栄光と誉れの冠をかぶらせて」くださいました。そして今、神の右の座に置かれ、すべてのものをご自身の「足の下に置かれ」、「王の王、主の主」として「御手のわざを……治めて」おられます。
そして、私たちもキリストの姿に倣って自分を低くすることで、キリストとともに世界を治めるという使命を一歩一歩、この地にいるときから果たし始めることができるのです。
私は、劣等感や人との比較意識から自由になりたいと願い続けてきましたが、実は、心の奥底では、劣等感を超越するほどに高くされることを求めていたように思います。そのため、私はなかなか休むことができず、自分を駆り立てるようにしながら生きてきました。しかし、人を超えることで劣等感から解放されるというのは幻想に過ぎません。どこまで行っても上には上がいるばかりか、上がったら上がったで、その地位を失うことを恐れるようになるからです。
しかし、イエス・キリストの生き方に思いを巡らせば巡らすほど、こんな私でも、努力すべき方向が変えられ、愚かなプライドから自由にされてきているような気がします。そこには比較意識を超えた自由、このままの自分が神に愛され、生かされているという喜びが生まれます。
創造主であるキリストが人となられたのは、私たちをご自身の「栄光と誉れ」にあずからせるためでした。また、この方が人々の侮辱に耐えられたのは、私たちが不滅のいのちを受け継ぐことができるためでした。そして、イエスは、今、私たちひとりひとりに対しても、「その足跡に従うようにと」招いておられるのです(Ⅰペテロ二・二一)。
神は、取るに足りない者を高く引き上げてくださるということこそ、ダビデの感動でした。そして、ダビデは神の忠実なしもべとして国を治めました。私たちも同じように神によって選ばれ、神が委ねてくださる働きにつくように召されています。私たちひとりひとりに、神の代理としてこの地を治める崇高な使命がゆだねられています。それは創造の秩序として既に始まっている使命であり、来るべき世界で、喜びに満ちた働きとして完成される使命でもあります。
イエスはその点で、私たちの初穂、模範であられます。そればかりか、イエスは今、私たちのうちに住まわれて、この地を治めるという働きを全うさせてくださるのです。
人は劣等感に動かされて生きているとき、人に勝つこと自体が目的となり、使命がなおざりにされます。しかし、創造主の視点から自分を見るとき、人との比較を超えた、真の生き甲斐が生まれます。しかも、そこには真のいのちの喜び、神のかたちに創造された者としての誇りが生まれます。そして、そのとき、あなたのまわりの世界に神の平和が広がってきます。
最後にダビデは、「主(ヤハウェ)よ。私たちの主(主人)よ。御名は全地で、なんと威厳に満ちていることでしょう」(九節)と繰り返します。自分の存在を喜ぶことが、創造主への賛美へとつながっています。そして、この賛美の中に、私たちの自由と喜びがあります。私たちの人生は、幼子としての賛美から始まり、キリストに似た者としての賛美に終わるのです。
多くの人は、人との競争に勝つことで心の安定を得ようとしますが、そこには無限の比較地獄が生まれるだけです。真のアイデンティティーは、「生かされている目的」、つまり「使命感」と切り離せない関係にあります。神が私たちを神のかたちに創造されたのは、ご自身の御手のわざを私たちに治めさせるためだったからです。
その点で、この世の心理学やカウンセリングと聖書の教えは異なった方向を指し示します。前者は基本的に、人から生き難さを取り除くことを目指しますが、聖書は、ある意味で「死ぬこと」を教えるからです。それは、キリストの生き方に倣うこと、つまり、自分の十字架を負って神に従うということです。つまり、自分の命を投げ出すに価することを見いだすことによって、自分自身から自由になり、真の意味で生きるという方向を指し示すのです。
ユダヤ人虐殺収容所アウシュビッツから奇跡の生還を果たした精神科医のヴィクトール・フランクルは、「宗教の目的は心の治療にあるのではなく、心の浄福にある……宗教は人間に向かって、精神療法の与える以上のものを与えるのであり、また精神療法の要求する以上のものを要求する。この両分野はその効果において互いに重なり合いはしようが、それぞれの志向するところは互いに無関係なのであって、これを混同することは原理的にはっきりといましめねばならない」と語っています(V・E・フランクル著『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房刊、二〇〇二年、一〇三頁)。 事実、彼は、かつて亡命の機会がありながら、神を愛し、自分の父と母を敬うという信仰のゆえに国に残って捕らえられたのでした。また、彼は、信仰のゆえに収容所の地獄の中でも希望を失わずに、生き残ることができたと言えましょう。
科学としての心理学やカウンセリングは、「使命感」という価値観に沈黙せざるを得ない面があります。しかし、それでは、アイデンティティーの問題に真の解決は生まれません。この詩篇こそ、その問いに対する解決を示します。静かに、何度も味わっていただきたいと思います。
キリスト者とは、ご自分を低くされたイエスの生き方に倣いたいと願う者です。そこに御霊のみわざが現されています。そのとき「幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建て」られる神が、 私たちを通して、ご自身の栄光を現してくださるのです。
パウル・ゲルハルトという十七世紀のドイツの詩人は、イエスが生まれた飼い葉おけ(まぶね)の傍らに自分が立っている姿を黙想します。自分の霊、感覚、心、たましい、思いのすべてがイエスからの贈り物であることを思い起こし、それを、自分を大きくするためではなく、飼い葉おけに眠るほど貧しくなられた方にささげようと決意します。そして、イエスが自分のために苦しまれたことを覚え、イエスを喜ばせるために仕え、自分のからだを新たな「まぶね」、住まいとして用いていただきたいと祈ります。
この詩篇八篇とともに、この賛美歌は、私の心の底にある誤った上昇志向に駆り立てられた生き方に気づかせてくれ、真の神のかたちに創造された者としての生き方に目覚めさせてくれます。この書の三四六頁「飼い葉おけのかたわらに」の歌詞を味わっていただければ幸いです。