1 天に現された神の栄光
この詩篇はダビデによって記されました。万軍の主は、彼を「羊の群れを追う牧場からとり……イスラエルの君主とした」(Ⅰ歴代一七・七)ばかりか、ダビデ王家は永遠に続くと約束されました。それを聞いたダビデは、「神、主(ヤハウェ)よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家について、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主(ヤハウェ)よ。あなたは私を、高い者として見ておられます」(同一六、一七節)という感謝の祈りをささげました。これこそ、詩篇八篇が記された背景です。
そしてこれは、ダビデばかりか、イエスを自分の救い主として信じるすべての人にとっての、かけがえのない告白となっています。それは、今、神が、キリストのうちにある私たちひとりひとりを、なんと、ダビデのように「高い者」として見ておられるからです。
ダビデは、まず、「主(ヤハウェ)よ」と、神のお名前を呼びます。それは神が、すべてに先立つ方であることを示します。多くの人々は、自分の必要から始まって神を求めます。私もそうでした。ただ、そうすると、「祈りがかなえられた。確かに神はおられる!」と感謝できるかと思えば、そのうち、「あれは単に偶然が重なっただけ……この私が頑張ったから……」などと思ったり、それと反対に期待はずれのことが起こると、「神を信じようと信じまいと、人生に大差はない……」などと思うことになりかねません。そればかりか、そのような発想のままでは本当の意味での「生きる目的」も生まれません。しかし、聖書は、「初めに神が天と地を創造された」という宣言から始まります。つまり、何よりも先に、私たちは、「神がおられるから世界が存在し、私が存在し、私が神を知ることができる」と、信仰を持って考えるように求められているのです。
そして、その創造主である神に、「私たちの主(アドナイ)よ」と呼びかけます。これは、当時の奴隷が主人に向かって使う表現です。もちろん、神は私たちを奴隷のように扱いはしませんが、神は、私たちのための御用聞きのような方として存在しているのではなく、私たちに自分の命を賭けてでも成し遂げる任務を与えることができる絶対者としておられるという告白です。
多くの人は、何のために生きているのかが分からないという倦怠感の中にいますが、神はそれぞれに、命をかけるに価する真の生き甲斐を与えてくださいます。
「ヤハウェ」という名に込められた、「わたしはある」と言われる方の「御名」の意味は、「全地で、威厳に満ちた」ものとして既に証しされています。ですから、霊の目が開かれた人は、「世界はなんと不思議に満ちていることか!」と感謝できるようになります。
そして、その方の「ご威光は、天を越えたところに輝いています」(一節)とは、天の下に住む者には、天の上に輝く神の栄光は見られないという現実を指していると思われます。
後に預言者イザヤは、「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ」(イザヤ四〇・二二)と表現しました。いなごが人の心を理解できないのと同じように、人は「天蓋の上に住まわれる」神のことを知ることはできません。ただひとつの道は、創造主ご自身が私たちのレベルにまで降りてきてご自身のことを知らせてくださることです。
ただ、この地の多くの人はその語りかけを聴く耳を持っていません。彼らは自分の目、自分の知恵、自分の力に頼って生きることばかりを考えているからです。
「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられ」(二節)とは、この世の無力な者こそが神のみわざを理解できるという現実を指します。イエスが神殿で盲人や足なえをいやされたのを見た子どもたちは、「ダビデの子にホサナ」と賛美しましたが、宗教指導者たちは、聖なる宮の中で神以外の方が賛美されるのは許せないと抗議しました(マタイ二一・一四〜一六)。
そのときイエスは、このみことばを引用され、ご自身と神に「刃向かう者を沈黙させ」ました。このように神は、この世の取るに足りない者をご自身の働きに用いられることによって、自分の力を誇っている「敵と仇と」を恥じ入らさせ、「動けなくさせ」られるのです。
神は今も、「私は賢い……私には力がある……」と思っている人々からご自身を隠されます。それは「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」)(Ⅰコリント一・二七)とある通りです。私たちも、自分の知恵や力を証明しようと必死になることでかえって本当の神の姿を見失うことがあるかもしれません。ただ、力を抜いて、神がお造りになった世界の美しさを鑑賞し、自分の無力さを認めながら、神に向かって祈るような中にこそ、神はご自身を現してくださるのではないでしょうか。