「私は、何者なのでしょう?」

私たちはより強く、より賢くなることを求めるのが常ですが、人の価値はそのような基準ではかれるのでしょうか?私自身もまた多くの人々も、心の底で何ともいえない自己不全感を感じ、「私は何者なのでしょう?」というアイデンティティーの問題に悩んでいるように思えます。事実、「お前はそれでも……なのか!」とか、「あなたは……失格ね!」などと言われると、人は傷つきます。それはアイデンティティーを否定することばだからです。しかも、そこには何らかの基準があり、世の人々はそれをもとに人を評価しています。しかし、それは神の視点でしょうか?
 ところで、私は、クリスマスを、「イエス様のお誕生日」としてよりは、「太陽を造られた神が赤ちゃんとなった日」として描くのが好きです。そして、聖書で、イエスの誕生の様子は、臨月を迎えたマリヤが旅先で宿屋にも入れてもらえず、自分で産み、布にくるんで飼い葉おけに寝かせるというわびしいものに描かれています。またその後は、時の権力者ヘロデ大王からいのちをねらわれ、父のヨセフは幼子イエスとマリヤを連れてエジプトに逃れなければなりませんでした。
 しかし、そのひ弱な乳飲み子は全能の神によってしっかりと守られていました。そして、その弱さのうちに現された神の力を前に、世々の権力者たちは沈黙し、動くことができなくなったのです。そこに人の思いをはるかに超えた神の基準が見られます。


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