6「神よ。私を調べ、私の心を知ってください」

「私を調べ、私の心を知ってください。私を試し、その思い煩いを知ってください」(二三節)とは、一節のことばを祈りにしたものです。それは、アダムが神から身を隠したのに対して、自分の心と思いを神に向かって開こうとする姿勢です。また、「私を試し……」は、神の御思いの貴さを疑う不信仰な「思い煩い」をも、神に試していただき、正していただきたいという思いです。そしてこれは、「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように」(詩篇九四・一九)という祈りのように、自分のうちにある不信仰な思いを隠すことなく、そのひとつひとつを調べていただき、一〜一八節にある事実によって慰めていただきたいという思いを表現したものです。
 最後に「悲しみへの道」(二四節)ということばが、「とこしえの道」と対比されます。私たちは、神に敵対する者への憎しみを表現したあとで、自分自身が、神の貴い御思いに逆らってしまう者であることに気づかされるのではないでしょうか。ここで、著者は、自分の罪を隠そうとしたアダムの姿勢とは反対に、自分の罪、醜い思いを、神の前に完全にオープンにして、神に指摘していただき、ひとつひとつ直していっていただきたいと願っているのです。

あなたの創造主は、あなたの生き方すべてに親しんでおられ、そのままの姿で輝くことができるように造ってくださいました。しかも、私たちは自分の罪深さに失望しても、神は失望されません。それは、「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ五・八)と記されている通りです。そして、神は御霊によって私たちを再創造してくださいます。
 私たちは恥じなくてよい自分の性格を恥じたり、自分の能力の不足を「罪」と混同しがちです。実際、多くの人は、人の期待に添うことができないこと自体を罪と感じがちであり、劣等感と罪意識を混同していると言われます(ポール・トゥルニエ著『罪意識の構造』小林恵一訳、ヨルダン社刊、一九七二年参照)。しかし、聖書の語る「罪」とは、神と人、また世界に対する関係の持ち方の問題です。自分の都合に目を向ける前に、神を、人を、世界を愛することがみこころです。
 私たちは、もともと、人の助けなしには生きられない弱い存在に創造されています。しかし、神と人の助けが不可欠と認めるとき、反対に、あなたを通して神がご自身の栄光を現され、人に生き甲斐を与えられることができるのではないでしょうか。
 「あなたは罪の自覚が足りないから、神の赦しも分からない。もっと自分の罪深さを意識しなさい……」という勧めを聞きながら、神に向かって大胆に生きる前に、いのちの力を自分で抑圧する人がいるかもしれません。それでは、せっかく福音を信じていながら、いのちの喜びを味わう前に、生気がなく、物悲しげで疲れた心の持ち主であり続けるということが起きかねません。
 健全な罪意識は、創造のみわざへの感動と感謝から生まれるものです。「私は神の最高傑作として生かされている!」と真に自覚する結果として、「私はもっと、神と人とに仕える生き方をしなければならないのに……」という思いに導かれます。そのとき人は、与えられたすべての賜物を積極的に生かしながら、いのちの喜びを感じつつ、神の創造された世界と人に向かって愛を持って関わっていくことができるのではないでしょうか。


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