5「神よ。あなたが悪者を滅ぼしてくださったらよいのに」
一九〜二二節は、この詩篇で極めて唐突な感じを与えます。しかし、私たちは、神の御思いの貴さを知れば知るほど、それを妨害しようとするサタンとそれに従う者への憎しみが湧いてきて、「神よ。あなたが悪者を滅ぼしてくださったらよいのに」(一九節)と心から願わざるを得なくなるのではないでしょうか。それは、「悪者を殺してください」という直接的な願いというよりは、悪者がのさばっている現実の中で、悪者がいなかったらこの世界は調和に満ちていたはずなのに、というあこがれとして理解できます。ですから、イエスは、この世に悪が常にあるという前提のもとに、主の祈りで、「悪い者(サタン)から救ってください」と祈るように命じておられます。
エデンの園以来いつもサタンは、「神は、ほんとうに言われたのですか」(創世三・一)と、神について「悪意をもって……語り」(二〇節)続けています。事実、この世界には、私たちの目を、創造主からそらさせ、私たちの信頼を揺るがそうとする働きが常にあるのですから……。
私たちは、サタンとサタンに心を売った者たちに、「私から離れ去れ」(一九節)と語らざるを得ませんし、また、彼らを「忌み嫌い……憎しみの限りを尽くして憎」(二一、二二節)まざるを得ません。キリストは、決して、サタンやその手先をも愛するようにとは教えておられません。
ですから、パウロも「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。……光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアル(サタンのこと)とに、何の調和があるでしょう」(Ⅱコリント六・一四、一五)と、不信者と分離した生活をするように命じました。それは、私たちが悪の影響を極めて受けやすい弱い存在だからです。もちろんこれは、信仰に反対する家族と絶縁することではありません。私たちが通常、彼らを不信者と呼ばずに、未信者と呼ぶように、神は、私たちと生活をともにする人が福音を信じて救われるように願っておられます。
「彼らは、私にとっても敵となりました」(二二節)とは、自分に害をもたらす人が敵だというのではなく、神の敵を自分の敵とするという意味です。私たちは、真の敵、サタンを憎むことを忘れて、自分に都合の悪い人を憎んでしまうことが多いのではないでしょうか。