4「あなたの御思い(意図)は、なんと貴いことでしょう」
そして、「私がひそかに造られ」(一五節)た様子が、「織りあげられ」と言い換えられますが、これは「模様を作る」とも訳せることばです。神は、私たちの思いをはるかに越えた形で、私たちそれぞれをユニークな個性を持つものとして造ってくださっているからです。その意味で私たちはそれぞれが、かけがえのない存在であり、人が何と言おうとも、私たちはそれぞれ、神のはかりしれないご計画のために生かされている尊い存在なのです。
私たちの問題は、「私にはどんな能力があるか?」「私はどんな気質を持っているか?」ということではなく、「どなたに向かって、誰のために生きているのか?」という人生の方向性にあるのではないでしょうか。アウグスティスが、神に向かって、「あなたは私たちをご自身に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心はあなたのうちに憩うまでやすらぎを得ることができないのです」と告白したように、私たちの心が神に向けられているとき、私たちのからだ、私たちの心のすべての部分が生き生きとした調和を発揮することができるのです。
「あなたの目は胎児の私を見られ……」(一六節)とは、神ご自身が、母の胎のうちで、私を組み立て、織りあげられたとき、この「私」をご自身の最高傑作として喜んで見ておられる様子を描いたものです。ですから、「あなたの書にすべてが書き記されました……」とは、私の寿命その他の運命が生まれる前から定められているという冷たい響きを持つものではなく、「あなたの御思い(意図) は、何と貫いことでしょう」(一七節)という感動を生み出す原因となっている表現です。
「御思い(意図)」は、二節と同じことばですが、私が自分に対して抱く計画ではなく、神が私のために用意してくださったご計画を意味します。しかも、それは、私がひ弱で、何の価値もなかったと見られてしまいがちだったときから備えられたものです。また、「貴い」は、イザヤ書四三章四節の「わたしの目にはあなたは高価で」の「高価」と同じことば、神のご計画の貴重さの告白です。 私がまだ姿も能力も現していない段階で、神は、私の人生に数え切れないほどの可能性を見ておられました。その御思いの「貴さ」こそが、私たちの人生を豊かにする源泉です。
神は、私たちひとりひとりをかけがえのない存在として見ておられ、その一日一日を通して、ご自身の栄光を現そうとしておられます。そして、それは「砂の数」(一八節)に勝って多様なものだというのです。あなたは、「どうせ自分なんか、この程度しか期待されていなし、できもしない……」などと、神が備えてくださった可能性を自分で狭くしてはいないでしょうか。
そして、「目覚めのとき」(一八節)は、終わりの日の私たちの復活を指すと思われますが、日常生活にも適用できるのではないでしょうか。私たちは、毎朝の「目覚めのとき」、「私はあなたとともにいます」と喜びながら、「あなたは今日、私を通して何をしてくださるのですか?」と喜びの期待を持って、神に祈ることができるからです。
私たちはどんな状況のなかでも、自分を卑下したり、自己
「神よ。どんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように。すべて恵みの呼吸なのですから。……神よ。あなたが置いてくださったその場所で、咲かせてください」(著者不明)。