3「私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました」

「恐ろしいほどに、私は不思議に造られました」(一四節)とは不思議な感動に満ちた自己認識です。ある人は自分の生涯を振り返って、自分の醜さに唖然としました。しかし、このみことばに接したときに、自分をそのままで受け入れることができるように変えられました。
 人はしばしば、本来の自分を否定して、「今までの自分とは違う何かになろう」として病気になってしまうことがあります。しかし、つまずきを通して、「本当の自分になり得たとき」に、病気から回復することができるとも言われます(ロロ・メイ著『失われし自己を求めて』小野康博・小野和哉訳、誠信書房刊、一九九五年、一一九、一二〇頁)。
 そして、私たちは自分のあるがままの姿を、それまでと違った目で見られたとき、「みわざがどれほど不思議かを、このたましいはよく知っています」と心から告白できます。

レーナ・マリアさんというスウェーデンのゴスペル歌手は、生まれつき両腕がなく片足も半分の長さしかありません。その彼女がこの詩篇一三九篇の英語訳をそのまま歌にし、神に向かって、「私はあなたを賛美します。なぜなら、私は恐ろしいほどに、不思議に(すばらしく)造られたからです」と繰り返し、まごころから歌っています(Lena Maria: Every Little Note 2002年 Universal Music K.K.)。私はそれを聞きながら不思議な感動に包まれ、身体が震えました。人の目から見ると彼女は重度の障害者かもしれませんが、彼女は自分を「神の最高傑作」と見ているのです。私は友人を通して、彼女のサイン入りのCDをいただきましたが、足で書かれたその字は、私が書く字よりもはるかにきれいなのに驚きました。
 彼女のお母様は最初、「神よ。どうして……」と思ったこともあったとのことですが、やがてそのいのちが、神ご自身の作品であることを感動するようになりました(レーナ・マリア・ヨハンソン著『マイライフ』いのちのことば社刊、一九九三年、七八〜八一頁)。その感動をお母様はレーナ・マリアに伝え続けました。その効果もあるのでしょうが、それ以上に、彼女には生まれながら、その障害を補う好奇心や冒険心が与えられ、はぐくまれ、驚くほどに広い活躍の場が開かれてきました。彼女は右足だけで、ピアノを演奏し、作曲をし、料理も裁縫も楽しみ、車も運転します。彼女の全存在がいのちの喜びを驚くほどに伝えていますが、身体の障害は、かえってその感動を伝える媒体として 豊かに用いられています。
 私たちは、障害や欠点と美しい賜物を区別して考えますが、それは切り離せない統合されたもの として神の作品なのです。

私たちの多くの場合、肉体よりも心の不自由さが問題になります。これは見え難いとともに、矯正が可能だと思われるからこそ問題が複雑になります。私は中学校時代の担任に「神経質すぎる」と通知表に書かれ、とっても嫌な気持ちを味わいました。その後、精神科医の斉藤茂太氏が記した『神経質を喜べ』という本に深く感動したことがあります(光文社刊、一九七六年)。それは、自分の気質を変えるべきものとしてよりは、積極的に受け入れるという道を示してくれました。

昔から性格の三分類が一般的ですが、それは神から与えられた特徴として受け入れるべきものではないでしょうか。事実、人間の最も奥深い部分の腎臓は、人間の基本的な気質や感情のあり方が決まる部分だと考えられていたからです。イエスは特に三人の弟子をご自身の働きのために豊かに用いられましたが、その気質の基本を次のように分類することも可能でしょう。
 第一は分裂気質(内面が分かりにくい性格)で、使徒ヨハネにはその傾向が見られます。彼は、イエスの栄光の座で特別待遇を受けたいなどと平気で言い張りながら、自分を「主の愛された弟子」と紹介し、自分のことをほとんど明かしません。このような人は、人と親密になることを恐れる傾向があり、とてつもない敏感さと、鈍感さが共存しています。しかし、距離を置きながらも、人を「よく観察する目があることで交わりを保つことができます。
 第二は循環気質(浮き沈みのある性格)で、使徒ペテロに見られる傾向です。非常に勢いのよいことを言っていながら、失敗して深く落ち込むことがあります。爽快そうかい悲愁ひしゅうの感情の起伏が激しい性格ですが、自分の失敗などをオープンに語ることができるので、多くの友に支えられます。
 第三は粘着気質(こだわりの強い性格)で、使徒パウロに見られる傾向です。回心前はパリサイ人としてクリスチャンの迫害に熱心で、回心後は地の果てまで伝道し、使徒の代表ペテロまでも叱責し、牢獄に入れられても多くの手紙を残しました。一見、沈着冷静でありながら、急に怒り出したり、人を追い込むところがあります。しかし、忍耐心が豊かなので、失敗をカバーできます。
 それぞれの気質に、感受性における敏感と鈍感、気分における爽快と悲愁、精神的テンポにおける速さと遅さが共存しており、また、それぞれに、対人関係の弱さを補う「観察」、精神的な落ち込みを補う「交わり」、怒りや情熱による失敗を補う「忍耐心」が与えられています。つまり、それぞれの気質に、神はそれを補う絶妙なバランスをお与えになっているのです。

これとは別に、ユングは、心の構えが自分の外の客体に向かう外向型と、自分という主体に向かう内向型の発想の違いが、ルター対ツウィングリ、フロイト対アドラーのような対立関係を生んだと分析しました(C・G・ユング著『タイプ論』林道義訳、みすず書房刊、一九八七年参照)。
 使徒の中で外向の代表はアンデレでしょう。人と人とを結びつける働きをしているからです。内向の代表はトマスかもしれません。イエスの復活に関して皆の目撃証言を客観的現実と受け止める代わりに、自分自身で心の底から納得できることを求めました。
 また、それぞれの意識機能が合理性的機能としての思考と感情、非合理的機能としての感覚と直感に区別されます。それぞれに、マタイ、ルカ、ピリポ、ナタナエルを当てることができるかもしれません。マタイの福音書は驚くほどの論理的な構成で成り立っており、イエスの説教を秩序立てて記録しています。ルカの福音書は、私たちの感情に寄り添う表現が豊かで、読むだけで心が動かされる例話が豊富です。ピリポは、現実感覚に優れ、男だけで五千人の群集にどれだけのパンが必要かを見分けることができましたが、イエスに向かって父なる神を見せてほしいなどと感覚を重視する傾向が見られます。ナタナエルは黙想の生活を大切にし、イエスとの対話ですぐにイエスがどのような方かを直感的に把握できました。なおその中では、思考と感情が互いに排除し合い、感覚と直感が排除し合う関係が見られる可能性があるとも言われます。

これら二つの心の構え、四つの意識機能の組み合わせから、八つの性格タイプに区分けされ、人と人とがなぜ互いに理解し合えないかが分かります。しかし、キリスト教会では、これらの異なった発想を持つ人が豊かに組み合わされることで、交わりが広がるのです。
 このように神は、各人に固有の心の構えや意識機能の違いを与えることで「人が、ひとりでいるのは良くない」(創世二・一八)ことを示しながら、聖霊を与えて、互いに排除する傾向の間に交わりを創造してくださいます。つまり、ひとりひとりは不完全でも、交わりを通して完全になるように召されているのです。ここにも神の創造のみわざの不思議を見ることができます。


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