2 私の奥深い部分を造られた方が導いてくださる

人には、しばしば、神のご支配を嫌って、神から離れて生きたいという思いが湧き起こります(七節)。そのようなとき、七〜一二節は、神がどこまでも私を追いかけ、罪をさばく恐ろしい方として描かれているとも解釈できます。しかし、イエスの十字架の愛を知るとき、この箇所は、私たちが自分の失敗でいかに道を踏み外し、迷路に迷い込んだとしても、神はどこまでも私を見守り、救い出してくださることの保証としても理解できます。
 「よみに床を設けたとしても」(八節)は、使徒信条の「主は……よみに下り」という表現と合わせて理解すると興味深いものです。キリストを知る者にとっては、真っ暗な死の世界さえ、栄光に輝く天の御国への入り口となるからです。
 「朝明けの翼に乗って……」(九節)は、太陽が東から上り天の走路をめぐり西の海の果てに向かうような、躍動感を味わいたいと願うものです。確かに、そのような翼に乗って世界を巡る冒険には、期待とともに、落ちるという不安があります。しかし、神の「右の手」が私をしっかりと支え(捕らえ)てくださるという安心感があれば、広い世界に向かってはばたく自由が生まれます。そして、見知らぬ「海の果て」に、私が独りぼっちで住んだとしても、主の「御手が私を導き、右の手で支えてくださる」(一〇節)から安心していられるというのです。

一一、一二節は、「神の目を逃れて闇の中に隠れようとしても無駄……」という警告かのように理解できるかもしれません。しかし、ここでは、「私の人生は真っ暗だ。今まさに、人生の真夜中に向かっている」と感じられるような中でも、「神にとって闇は問題ではなく、いつでも私を見守っていてくださる」という慰めとして理解すべきではないでしょうか。
 「あなたが、私の奥深い部分を造り……」(一三節)は、「あなたには、闇も暗くなく」ということの証拠として記されていると思われます。「奥深い部分」は、原文で「腎臓」と記されますが、それは、いけにえの動物をほふるとき、最後に出てくる器官で、体の最も奥深い、暗やみに包まれた部分です。つまり、神は、真っ暗な「母の胎のうちで」、その隠れた部分を造られた方なので、どんなときでも、私たちの人生のすべてを理解しておられるのです。
 当時は、「心」が心臓にあるように、「感情」の座は、腎臓にあると理解されていました。それで、ここは、「神は、私たちが自分でコントロールをできないような感情さえ造られた方だから、私たちは何も隠す必要はない……」という趣旨で理解することができます。なぜなら、神ご自身が、「母の胎のうちで私を組み立てられたから」です。ですから、たとえば私たちは、心の内に沸き上がる怒りの気持ちを正直に受けとめ、それを神に訴えることができます。


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