1「主よ。あなたは私を知っておられます」

この詩は、「ヤハウェよ」という神の御名への呼びかけから始まります。神はご自身を、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト三・一四)と紹介されました。それは、この方がすべてに先立って存在しておられることを示しています。多くの人々は、自分の必要から始まって神を求め、「私が神を認識する」という考え方をします。しかし、「わたしはある」と宣言される神がおられるので、私がここに生き、また、考え、語っていると認識すること、つまり、全能の神のご支配を前提としてこの世界を見るというのが聖書の発想ではないでしょうか。
 それは、恐ろしくもあり、慰めでもあります。実際、「あなたは私を調べ……」(一節)というのも、自分の醜さがすべてあらわにされるという意味では、恐怖でしょう。エデンの園で、「食べてはならない」と言われた木の実を取って食べたアダムは、神から「あなたは、どこにいるのか」と問われて、「私は……恐れて、隠れました」と答えました(創世三・九、一〇)。アダムの子孫として私たちは、自分の罪、弱さ、醜さがあらわにされることを恐れます。しかし、キリストが既に私たちのすべての罪を赦してくださったことが分かるとき、「神様は私を助けようとして、私の弱さを調べてくださる」という気持ちになることができるのではないでしょうか。

私たちは、自分のことを分かっているようで肝心なことが分かっていません。ところが聖書の神は、「私」以上に、私の行動やことばが分かるというのです(二〜四節)。「私の思い(意図)を……読み取り」とは、私が座るのか立つのかさえも、行動に移す前から、神は私の意図を知っておられるという意味です。同じように、神は、私がいつ、どうして活動するのか、休んでいるのか、すべてに精通しておられ、また、私が何を話そうとするのかもご存じだというのです。
「私は、自分のことが信じられないんです……」という不安に襲われるようなとき、「あなたこそ……私の……生き方すべてに通じておられます」(二、三節)と言うことができます。そこでは、自分が知られていることは「恐れ」ではなく、「安心感」の源とされています。

「後ろから……私を囲み」(五節)も、「逃げ道がない……」という恐怖ではなく、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(Ⅱコリント五・一四)という視点からは、後ろに目がついていない私たちに代わって、主が背後を守ってくださるという慰めと理解することができます。
 また、明日のことが心配で、元気を失ってしまうときにも、私以上に私のことを知っていてくださる方が、「後ろからも前からも私を囲み、御手を私の上に置いてくださいます」と信じられるなら、明日のことが分からないということが、かえって、「神様。明日は何が起こるのか楽しみです!」という喜びの源になるのではないでしょうか。
 そして、「そのような知識は」(六節)は、私たちにとっては想像を超えた神秘ではありますが、それは「恐怖」というよりは、感動を呼び起こす「不思議」ではないでしょうか。


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