〈詩篇の翻訳に当たって〉

今回、ここに載せさせていただいた私訳は、当教会の礼拝や祈祷会での交読文として何度も用い、修正を重ねてきたものです。私がヘブル語を習って以来、感動し続けてきたのは、そのことばの簡潔さ、感情表現の語彙の豊富さ、そして、何よりも、そのリズムの美しさです。残念ながら、それを日本語に翻訳するのはほとんど不可能です。

たとえば、詩篇二三篇の始まりのことばを、「主(ヤハウェ)は私の飼い主、私は乏しいことがありません」と訳すと、ここに二十七の母音が含まれますが、原文では「ヤハウェ、ロイー、ロー・エフサール」と九つの母音で足りています。また、「わたしはあなたを愛している」という主ご自身の語りかけは、原文では「アハブティハー」というひとつの動詞で足ります。それは動詞についている接頭辞で主語が、接尾辞で目的語が明らかにされるからです。なおこの際、日本語の口語表現としては、「愛してるよ」という訳が可能でも、それを聖書翻訳として採用するには抵抗があることでしょう。そして、正確さと格調の高さの要請から、どの翻訳でも、言葉数があまりにも多くなり、リズムが壊れるということが起こってきます。

ですから、この翻訳では、何よりもリズムを少しでも生かしたいと思い、原文で強調のためにあえて主語や目的語が明記されていない限り、また文脈から誤解が生じないと思われる限り、主語や目的語を省くように心がけました。また、原文に表された豊かな感情表現も、なるべく日本語の身近なことばで、心に落ちやすいことばを選ぶように工夫しました。また原文の感情表現の豊かさを重んじて、原文で使い分けている同義語は日本語でも使い分け、原文で異なったニュアンスをひとつのことばで表現している場合にも原語が同じなら同じ日本語を用いるという原則を貫きました。

その上で、原文で大切にされている並行法のリズムを生かすように心がけました。それはたとえば、「天は神の栄光を語り」「大空は御手のわざを告げる」などのように二行でひとつのまとまりの意味を語るような詩の形式です。ただし、原文には二行詩が圧倒的に多いものの、そこに突然、一行詩、三行詩、四行詩などが混じっています。これをそのまま訳そうとすると、交読文として用いにくくなりますので、なるべく二行または三行で一貫して訳すようにしています。たとえば、二行詩の二行目は一文字下げ、三行詩の三行目はさらに一文字下げています。行ごとに、司会者、会衆、または、司会者、男性、女性などのように分け、交互にお読みいただければ幸いです。

またヘブル語原文において意味が不明確な単語もしばしばありますが、その場合は、文脈から妥当と思われる訳語を採用し、注をつけて説明しています。ただ、その場合でも、どの聖書翻訳でも 採用されていないような訳はひとつもありません。日本語では、新改訳、口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、英語ではNIV、NKJ、ESV、NRS、TNK(ユダヤ人訳)、またドイツ語では、一五四五年のルター訳、一九八二年の改定ルター訳などを参考にしています。また注解書では、Word Biblical Commentary, Tyndale Old Testament Commentaries, Keil-Delitzsch Commentary on the Old Testament, Luthers Psalmen Auslegungなどを参考にさせていただきました。

用いたヘブル語聖書は、最近のほとんどの聖書翻訳の原典となっている Biblia Hebraica Stuttgarternsia 1967/77(4th ed.)です。また用いた辞書は、一般に用いられているHALOT Hebrew Lexicon, BDB Hebrew and English Lexicon, Theologica Wordbook of the Old Testament です。
 なお、私たちの教会では新改訳聖書第三版を用いております。そのため他の聖書箇所との関連を明らかにするためにも、新改訳の訳語をなるべく生かすようにしています。ただし、ひとつひとつ原文から翻訳し、すべてを見直しているという意味でこの翻訳の責任は私に帰しております。

最後に、詩篇は、明らかにモーセ五書を意識して、五巻に分けられていますが、各詩篇がどのように分類され、現行の番号が付けられたかは定かではありません。詩篇の順番自体には神の霊感が 働いていると理解する学者は稀かと思われます。そのようなわけで、以下の目次にありますように、私自身の判断で、二十の詩篇を五つに分類させていただきました。各部の概要も解説しています。最初から順番にお読みいただくのが最善ですが、どこから読み始めていただいても理解できるようになっています。ですからご自分の必要に合わせてお読みいただければ幸いです。

またここには私自身の体験(多くは失敗ばかり……)が数多く証しされていますが、それはおひとりおひとりがご自分の人生と向き合うことができるための助けとなればと思ってのことです。解説よりも、詩篇の本文をより深く味わっていただければと心より願っております。しかも、その際、どうかそれぞれがお読みになっておられる新改訳、新共同訳、口語訳などを神の賜物として尊重していただきたいと切に願います。それぞれの翻訳は全国の教会の祈りの産物であり、そこには神によって立てられた多くの研究者の方々の協同の働きの実が見られるからです。ただ、ご理解いただきたいのは、詩の翻訳はある意味で不可能への挑戦であり、そこでリズムなどが犠牲にならざるを得ない現実があるという点です。この私訳が、詩篇の持つ本来の美しさを味わっていただくためのわずかばかりの助けになることができたらと願うばかりです。


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