〈心を神の御前で正直にするために〉

自分を含め、多くの日本人は罪責感よりも「恥」の痛みをより切実に感じる傾向があります。そして私は、聖書の創世記から一貫して「恥」の感覚に焦点が当てられていることに不思議を覚えました。それで、私は、神の救いを「恥」の観点から説明したいと思い、神学校の卒論のテーマにもさせていただきました。

スイスのユング派の心理学者は、「恥」の感情を、「われわれは時に、自分が頭のてっぺんから爪先までまったく無価値で下らない人間であり、生まれてこの方、ろくでもないことしかしてこなかったように感じることがある。それが恥である」と解説しながら、この恥の痛みが耐え難いものであるために、「恥に対する防衛」として罪悪感を抱く場合があると語っています。それはたとえば、恋愛関係が破綻したときに、自分が愛されるに価しなかったと思うよりは、自分が恋人を傷つけ、ないがしろにし、思いやりのない扱いをしたかもしれないと思うほうが、将来に希望を持つことができるからです。そして、罪悪感の場合は、罪を告解することで、過ちが償え、すべてが赦されるかもしれないと希望を持つことができるというのです(マリオ・ヤコービ著『恥と自尊心-その起源から心理療法へ』高石浩一訳、新曜社刊、二〇〇三年、二〜四頁)。

しばしば、多くのキリスト者は、そのような切実な恥の意識を抱えながら、それを直視する代わりに、罪意識に置き換えることによって、自分を教会のパターンに合わせ、「私は自分の罪が分かり、そして、キリストによる罪の赦しの確信を得た……」と告白してはいないでしょうか。そこでは、パウロが「それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住む罪です」(ローマ七・二〇)と語っているような人間存在の根源に関わる「罪」ではなく、恥の防衛としての表面的な罪意識しか取り扱われていないという現実があるように思われます。

二〇〇七年三月、世界的に評価の高いカナダの福音的な神学校リージェント・カレッジの創立者のジェームズ・フーストン氏が再び来日し、セミナーを開いてくださいましたが、その中で先生は 以下のような趣旨のことを強調しておられました。

「聖書をどのように読むかの鍵は、詩篇をどのように読むかにあります。詩篇には人間が味わうあらゆる感情が記されていますが、心の奥底に隠されているマイナスの感情が、祈りとしてささげられて初めて、私たちの心は神にまっすぐに向かうことができます。また詩篇はイエスご自身が祈られた祈りであり、詩篇を心で読むことは、私たちの心がイエスの心に引き寄せられるために不可欠のステップです。福音が単なる理性的な教理の理解にとどまり、心の奥底に落ちてこないのは、詩篇を味わっていないからではないでしょうか。古代教会以来、詩篇の朗読は信仰生活の中心であり、それと聖書全体を通読することは、車の両輪のようなものでした。詩篇は常に、聖書理解の鍵として、教会の歴史の中で強調されてきたということを思い起こす必要があります。

また、詩篇は、新約聖書ではキリスト預言として、イザヤ書と並んで最も多く引用され、そこには王であるキリストの姿が描かれています。それはこの世の王と異なり、死に至るまで父なる神に従順な王の姿です。そして、私たちも王として、召され、この地に派遣されます。その際、何よりも大切なのは、私たちが、怒りやねたみ、悲しみ、不安、孤独などのマイナスの感情の奴隷にならないことです。この社会は、怒りの連鎖によって傷つけられていますが、私たちが王として、自分の感情を治めることができるなら、私たちは平和の使者となることができます。ただ、そのためには、自分の感情を押さえ込むのではなく、どのようなマイナスの感情もまず、やさしく受け止め、それを神への祈りとする必要があります。私たちは自分の肉の力で自分の感情を治めることはできないということを深く自覚すべきです。そして、詩篇を心で味わい、祈ることは、そのための不可欠のステップです。」

なお、以上のことばは、私が先生の講義を聴きながら、それを自分の言葉に置き換えたものです。正確さに欠ける面がありましても、それは、私の責任です。ただ、先生のお話に感動しつつ、この詩篇の本の出版の意図をお話し申し上げ、このような私の理解を確認させていただいたところ、大喜びしてくださいました。それは、先生自身も、自分の心に向き合うことができていない多くの信仰者の相談に乗りながら、心を痛めてこられたからです。


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