〈詩篇に見られる感情表現の豊かさ〉

宗教改革者ジャン・カルヴァンは、「私はこの書物をたましいのあらゆる部分の解剖図と呼ぶのを常としてきた。なぜなら、あたかも鏡に写すようにその中に描写されていない人間の情念は、ひとつも存在しないからである。さらに言うならば、そこにおいて聖霊はあらゆる苦悩、悲哀、恐れ、疑い、望み、慰め、惑い、そればかりか、人間のたましいを常に揺り動かす気持ちの乱れを生き生きと描き出している」と記しています(カルヴァン著『旧約聖書注解・詩篇Ⅰ』出村彰訳、新教出版社刊、一九七〇年、六頁)。

カルヴァン自身は、ルターなどとは対照的と思えるほど自分について書き残してはいません。しかし、この詩篇の序文においては例外的に、自分の歩みと自分が受けた不当な苦しみや中傷を記しつつ、その中で詩篇から慰めを受けた様子を証ししています。その慰めとは何よりも、自分と同じ気持ちをダビデも味わっていたことを見いだして、嘆いている自分自身が神の愛によってとらえられているということを確認できたことだと思われます。とにかく私は、このカルヴァンの詩篇序文を読むときに、傷つき苦しみながら、使命を全うしようとする生きた姿に接し、彼に親しみを覚えることができます。そして、そのように人の心を開かせる力が、この詩篇の祈りには満ちています。

当教会では、十八年前の開拓時から、「カウンセリング」の看板を出しており、多くの方々の相談に乗らせていただいております。その中で、多くの信仰者が、信仰の誤解のゆえに空回りを起こしているという現実に心を痛めてきました。彼らは私と同じように、自分の心に深く根ざしている「恥」と「恐れ」の感情をもてあまして生きているように思います。信仰が深くなるなら、そのなマイナスの感情から自由になることができると期待しながら、「私の信仰が弱いから……」と妙な劣等感を感じるばかりか、「信仰を持っているがゆえに」、自分の気持ちにすなおに向き合うことができなくなるという場合すらありました。そして、心の底に抑圧された「恐れ」や「恥」の感情は、生きる力を抑圧させるばかりか、人への攻撃や怒りとなって現れています。

そのような中で、日本の旧約神学で多くの人々から尊敬されている鍋谷尭爾先生は、「従来の旧約神学では、人間的な恐怖の感情と、神の前での畏敬の感情を分けて考えるのが普通であった。前者は良くない恐れであり、後者は良い恐れであるというように割り切ってしまった」と従来の神学の問題点を指摘しつつ、「恐怖感情」を積極的に評価する必要を訴えておられます。そして、「人間が根本的に神から離れた存在であることにまず気付かせるのは『恥』と『恐れ』の感情である」と述べておられます(鍋谷尭爾著、『新聖書講解シリーズ、旧約13(箴言、伝道者の書、雅歌)』いのちのことば社刊、一九八八年、四一〜四六頁)。まさに、多くの日本人の心を悩ませている「恥」や「恐れ」の感情は、神との交わりを深めるために真正面から受け止めるべきものなのです。


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