第四部 心が騒ぐばかりで、主の前に静まることができないときの祈り

私の祈りの生活は、自分の必要をただ神に訴えることから始まりました。二十二歳のとき留学中の米国でキャンパス・クルセードの伝道者を通して「イエスを私の人生の主」とする告白に導かれました。彼は私の帰国までの数ヶ月間、週に一度、私に個人的に聖書の核心部分を教えてくれるとともに、私から三つの祈祷課題を聞き出して、いっしょに祈ってくださいました。それは、帰国後の教会生活と、就職と、結婚のことでした。紆余曲折がありながらも、振り返ってみると、主は最善を導いてくださいました。まさに、この祈りの交わりは私の信仰生活の原点と言えます。
 就職の際、いろいろな可能性がありながら、祈りつつ、野村證券に決めました。「私は営業には向かないと思います……」と主張し、それが受け入れられたと思って入社したのに、最初の任地は札幌支店での個人営業でした。当てもなく自分で新規の顧客を開拓しなければなりません。毎週のように、「そんなの無理です!」と言いたくなる目標を与えられ、ただ必死に、「神様、助けてください!」と祈るばかりでした。しかし、不思議に、祈りつつ飛び込み訪問をした先で、五百万円とか一千万円とかのお金を預けていただくことができました。そして、結果的に、二年間のドイツ留学への道が開かれました。本当に、神様は私たちの訴えに耳を傾けてくださいます。
 入社から十年後、神様の導きを感じて牧師への道を歩み出しましたが、教会の働きは営業のようには行きません。なかなか成果が見えないばかりか、自分のこだわりがかえって問題を複雑化してしまう現実に遭遇し、「神の働きを阻害しているのは、私自身だ……」とさえ思えてきました。そのような中で導かれたのが、ただ主の御前に静まるという祈りです。それは「つかみ取る」という生き方から、「既に与えられている恵みを感謝する」ことへの転換、また、自分の必要をただ訴えることから、「主の願い」を「私の願い」とすることを目指すという発想の転換でした。
 それにしても、私は長い間、静まることができませんでした。そして、知らないうちに自分の中にある「恐れ」の感情に駆り立てられながら生きてきたような気がしています。そのようなとき、以下の四つの詩篇は、「主の前に静まる」ことを教え、導いてくれました。

詩篇二七篇では、神ご自身が「わたしの顔を慕い求めよ」、と語りかけておられると記されます。これは教会の伝統で大切にされてきた「観想」または「沈黙の祈り」の勧めではないでしょうか。

詩篇六二篇には、「ただ神に向かって、私のたましいは沈黙する」と歌われます。そして、それは自分の「心を注ぎだす」ことによって可能になるとも記されています。

詩篇四六篇は、「神の都と神の民への守り」がテーマで、私たちに「力を抜く」ことを教えてくれます。これは宗教改革者マルティン・ルターが神経衰弱に陥ったときに慰めとなった詩篇としても有名で、そこから宗教改革の祈りの歌が生まれました。

詩篇一六篇は、「神の御前にある楽しみと歓喜」がテーマで、イエスの弟子たちが、主の復活の証明として引用した詩篇です。三位一体の神の愛に包まれることの祝福が歌われています。


次へ目次前へ