ヨハネ21章15〜25節「あなたは、わたしに従いなさい」

2017年10月15日

日本では、「茶道」「華道」「書道」「剣道」「柔道」などのように特定の「道を究める」ことが大切にされます。それと同じように信仰の歩みを、クリスチャンとしての礼儀作法を身につけて「キリスト道」を究めるかのように、無意識に考えてしまっていることはないでしょうか。 “ヨハネ21章15〜25節「あなたは、わたしに従いなさい」” の続きを読む

ヨハネ21章1〜14節「新しい時代に生きる者として」

2017年9月24日

イエスの復活によって世界は新しい時代に入っています。「新しい創造(New Creation)](ガラテヤ6:15)はすでに始まっています。しかし、多くのキリスト者は、古い生き方に縛られ、新しい時代の生き方に適応しきれていないのかもしれません。 “ヨハネ21章1〜14節「新しい時代に生きる者として」” の続きを読む

ヨハネ20章19〜31節「信じない者を信じる者に変えて遣わしてくださるイエス」

2017年8月13日

昔、こんな話を聞きました。映画「ベンハー」の小説の原作者は、キリストの復活を否定する文書を書こうとして当時の状況を徹底的に調べた結果、反対に、キリストの復活を証拠立てる様々な事実に圧倒されて、キリストの物語を書くようになった……と。 “ヨハネ20章19〜31節「信じない者を信じる者に変えて遣わしてくださるイエス」” の続きを読む

ヨハネ20章1〜18節「イエスのために泣き続けたマリヤへの祝福」

2017年7月16日

現代はポスト・モダンの時代と言われ、合理性重視の陰で人の心情が軽んじられてきたことへの反省が起きています。17世紀のパスカルは、「心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている」(パンセ277)との名言を吐きました。 “ヨハネ20章1〜18節「イエスのために泣き続けたマリヤへの祝福」” の続きを読む

ヨハネ19章31〜42節「十字架から湧き出るいのちの泉」

2017年7月9日

私たちはみな人知れず傷つけられ、その傷跡から別の人を傷つける言動が生まれます。この世界を暗くしているのは、この罪の連鎖です。

しかし、イエスが十字架で、どのように血を流され、その傷跡から何が生まれたのか、を思い巡らすことを通して、そこに解決の鍵を見出すことができます。 “ヨハネ19章31〜42節「十字架から湧き出るいのちの泉」” の続きを読む

ヨハネ19章16〜30節 「イスラエルの使命を完了した王なる小羊」

2017年5月21日

「主のみこころは?」と多くの信仰者が問いかけますが、多くの場合は、就職、結婚、自宅の建設、教会の選択などということに絡んで用いられます。

私も就職の際に、多くの内定をいただきながら、「みこころの就職先は?」と真剣に祈りました。しかし、入社三日目に、「みこころを読み間違えた……」と深く後悔しました。しかし、それは、新規開拓の飛び込み訪問外交が苦しかったからかもしれません。 “ヨハネ19章16〜30節 「イスラエルの使命を完了した王なる小羊」” の続きを読む

ヨハネ18章38節〜19章16節「真の王として苦しみを忍ぶ方」

2017年5月14日

「真の王」とは、どのような存在でしょうか。自分の王権を主張して、人を従わせる人でしょうか。かつてモーセはイスラエルの民が金の子牛を作って拝んだ時、自分の名をいのちの書から消し去っても良いから、その代わりに彼らの罪を赦してほしいと願いました(出エジ32:32)。 “ヨハネ18章38節〜19章16節「真の王として苦しみを忍ぶ方」” の続きを読む

ヨハネ18章28〜40節「私たちの不真実を変えるイエスの真実」

2017年4月16日

「イエスはどうして、十字架に架けられたのですか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょう。ある人は、歴史的な観点から、「イエスの人気があまりにも高くなって、当時のイスラエルに混乱を起こすと見られたから」と答えます。またある人は、「神はイエスを、私たちの罪の身代わりとして十字架にかけられた」と神学的な視点から答えます。 “ヨハネ18章28〜40節「私たちの不真実を変えるイエスの真実」” の続きを読む

ヨハネ18章1〜27節「『わたしはある』と言われる方に生かされる」

2017年4月9日

あるお子さんが、「イエス様は、神様なんですよね。でも、イエス様も神様に向かってお祈りしてますよね。だったら、神様はふたりなんですか?」と聞いて来ました。 “ヨハネ18章1〜27節「『わたしはある』と言われる方に生かされる」” の続きを読む

ヨハネ17章9〜26節「彼らが全うされて一つとなるため」

2017年2月26日

江戸時代の踏絵を用いた徹底的なキリシタン弾圧以来、多くの日本人はそのトラウマに支配されているのかも知れません。学生時代、福音を聞きながら、「でも、クリスチャンになったら、何か悪いことが起こるかも・・」と不安でした。しかし、アメリカに留学中、「クリスチャンであるとは、喜びに満ち溢れることなのだ!」と、目が開かれました。当時、自然体で美しく輝いている方を知らなかったからです。 “ヨハネ17章9〜26節「彼らが全うされて一つとなるため」” の続きを読む