ビジョンに渇いていないでしょうか

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2013年秋号より

「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう」(ルカ14:28-30) “ビジョンに渇いていないでしょうか” の続きを読む

新しい天と新しい地を待ち望む礼拝堂

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2013年夏号より

献堂式メッセージ要約

新会堂のステンドグラスは、Glass House NEN 代表の尾崎稔成氏の作品で、聖書が描く「新しい天と新しい地」(イザヤ65章17-25節) の希望を描いたものです。 “新しい天と新しい地を待ち望む礼拝堂” の続きを読む

主(ヤハウェ)が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2013年春号より

待望の新会堂が間もなく完成しようとしています。私たちはそのような中で、いろんなことに気遣いながら、様々な人々の必要や様々な危険にも目を向けながら、すべてのことを誤りなく、誠実に成し遂げようと必死になります。

そこで気を付けなければならないのは、いろんなことに心を配りすぎて、主の前に静まり、主のみこころを慕い求めることを忘れてしまうことです。 “主(ヤハウェ)が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい” の続きを読む

志を立てさせ、事を行なわせてくださる神

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2013年冬号より

私たちは、誰の目からも評価されるようなバランスの良い生き方よりも、「いのち」の輝きを求めたいものです。ある方が次ぎのように書いておられます。「いのちあるものは、何らかの意味で必ず過度です。燃えているものです。それは不純なものを焼き尽くし、透明であることを目指して燃焼し続けるものです。そうでなければ、いのちはいのちの名に価しません」 “志を立てさせ、事を行なわせてくださる神” の続きを読む

会堂建設と教会の交わりを建てること

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2012年秋号より

私たちの教会は昨年9月の総会において会堂建設に向けて真剣に向かうことを決議しました。そして、今年の4月になって、不思議な主の導きによって、土地の購入を決めることができ、10月7日になってようやく新会堂建設の起工式を行うことができました。様々な障害がありましたが、主は一歩一歩、道を開き続けてくださいました。 “会堂建設と教会の交わりを建てること” の続きを読む

神の神殿としての成長

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2012年夏号より

今から百年余り前にフランスの画家ポール・ゴーギャンは、われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』という長いタイトルの大きな絵を描きます。私たちの人生には様々な予測不能なことが起きますが、これを理解しているとき、目の前の様々な問題を、もっと余裕をもって見ることができるようになるのではないでしょうか。その意味で、聖書の始まりと終わりという大枠をとらえることは、何よりも大切なことです。 “神の神殿としての成長” の続きを読む

労苦がむだにならない世界

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2012年春号より

キリストの復活は私たちの日々の生活に決定的な意味を持っています。ただ、それを自覚することは意外に少ないのかもしれません。少し立ち止まって、ともに思い巡らしてみましょう。 “労苦がむだにならない世界” の続きを読む

約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2012年冬号より

霊性神学の分野で有名なユージン・ピーターソン氏は、詩篇120-134篇の「都上りの歌」の解説書の表題に、無神論哲学者ニーチェのことばを用いました。それは、“A Long Obedience in the Same Direction(長期にわたる同一方向への服従)”というものです。ニーチェは、キリスト教は弱者の道徳であり、負け犬の遠吠えのような態度を肯定し、人間に本来与えられている「生きる力」を減らし、愚民化する方向に働いていると非難しました。ピーターソン氏は、現代のクリスチャンが、しばしば、身近な解決策ばかりを求め、結果を待つ忍耐心が欠けてゆく傾向にあることに心を痛め、ニーチェの警告にも耳を傾ける必要を感じたのだと思われます。ニーチェは、「無事安泰を願うとは、人間の没落を望むことであり……苦悩の、大いなる苦悩の訓練 ― ただ、この訓練のみが人間のすべての成長を創り出した」と言いました。 “約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です” の続きを読む

新しい天と新しい地を待ち望む教会として

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2011年秋号より

今、多くの教会で、自分たちの語ってきたキリストによる「救い」を、もう一度聖書の原点に立ち返って見直す必要があると語られてきています。「救い」を、「イエス様を信じると、死んでも天国に行ける、また、この地においても、神の子として幸せに生きられる……」という、個人的なことに矮小化してはいないかという反省です。このように考えていると、悪いことが起きると、「神を信じて何になるのか……」という失望につながります。しかし、聖書には、神の壮大な救いの物語が記されています。一時的な個々人の苦しみがあっても、それを通して「神の民」としての新しい世界が開かれてきています。 “新しい天と新しい地を待ち望む教会として” の続きを読む