著書紹介

著書紹介

聖書から見るお金と教会、社会

 神への捧げものとして、いにしえのイスラエルにおいては家畜や収穫物が献げられ、現代のキリスト教会では「お金」が献げられている。本書は、そのお金と教会の関係、さらに社会との関係を、元証券マンの高橋秀典牧師(立川福音自由教会)が聖書から解き明かす。『お金と信仰』(地引網出版)に続く第二弾。
本書は、月刊「舟の右側」に掲載された連載を大幅に加筆修正したものとなっています。

発売日:2017/06/07
発行: 地引網出版
ISBN:978-4901634380
定価:1500円+税

「はじめに」より

 2014年の初めに前著『お金と信仰』が出版されましたが、驚くほどの良い反響をキリスト教界ばかりかビジネス界の多くの方々からいただくことができました。この本をもとに様々な教会や超教派の集会にお招きいただき、様々なレスポンスを受けることができました。
それをもとに、本書の第一部では、より聖書の視点から、この社会でのお金の流れや問題、信仰者の生き方に関して記します。また第二部は、「お金と教会」という現実的なテーマでまとめております。2014年に創刊されたキリスト教月刊誌「舟の右側」に掲載された記事も、大幅に加筆、修正しております。
先の『お金と信仰』の内容に関しては、一部、経済にはあまり詳しくない方々から、「ちょっと難しい」という感想もいただきましたので、今回は、より聖書の解説を丁寧にし、分かりやすさを追求しております。経済は生き物ですから、三年前の話がすぐに古く感じられるような面があります。しかし本著では、三千数百年前の聖書の記述と現代の経済、教会の現実を結びつけるような書き方をしております。日々変わりゆく社会と教会の現実を、変わることのない聖書の視点からどのように見ることができるのか、本著をベースに共にお考えいただければ幸いです。
なお、2016年は英国のEU離脱決定に続き、米国ではトランプ大統領の誕生が決まり、またヨーロッパ諸国でも民族主義政党が躍進しました。トランプ大統領の誕生は、米国で伝統的には民主党の支持基盤であった工場労働者の危機感を背景にしていると言われます。彼は大統領就任演説でも、雇用の拡大を大胆に約束しました。共和党の大統領が、保護貿易主義的な動きに走るというのは不思議なことです。その背後には中間層の没落があると言われます。
問題なのは、トランプ大統領が経済の問題を簡単に解決できるかのように約束したことです。過去の多くの強権的な指導者が同じように約束し、一時的な対症療法の後、さらに大きな問題を生み出してきたからです。
実は、米国の中間層の没落は、世界の最貧国と言われた国々の驚くべき経済成長とセットになっているのです。最近のインドやベトナム経済の成長は誰の目にも明らかですが、飢えに苦しんでいたバングラデシュやエチオピアまでもが驚くべき成長を遂げています。グローバル経済の中で世界の貧しい人々が力をつけている分だけ、先進国の中間層が没落するという面があるのです。
そうすると、先進諸国が国内の労働者を保護しようとすればするほど、貧しい国々の経済成長が脅かされるというジレンマが生まれます。先の「お金と信仰」でも、繰り返し「あちらを立てればこちらが立たず」というトレード・オフの関係を理解することの大切さを書かせていただきました。貧しい人々を助けようとして経済を機能不全に陥れ、かえって貧しい人々を増やしてきたという世界の歴史を改めて振り返る必要がありましょう。
二十世紀においては、経済の南北格差が大きな課題になっていました。そこでは豊かな国の人々が貧しい国の人々を助ける援助の形が、キリスト教団体の働きにも期待されていました。しかし、グローバル経済が進んでいく二十一世紀においては、豊かな国と貧しい国という分け方よりも、それぞれの国や地域においての貧富の格差が問題になっています。
かつて最貧国と呼ばれた国々にもビジネスで成功して豊かになる人々が増えている一方で、豊かな国々でも貧しい人々が急速に増えています。そこで課題になるのは、安定した政権によって、健全な所得の再分配や貧しい子供たちへの教育が施されることです。ただ、それを政治システムだけで解決するには限界があります。社会は、人と人との組み合わせから成っています。しかし、生産性を高めることばかりを最優先する高度経済成長時代の社会システムは、大家族や地域社会での助け合いを希薄にしてきました。
いま改めて、人の幸福は、人と人との結びつきにあるという原点が見直され始めています。しかし、それは決して新しい話ではなく、二千年前の初代教会時代の最も大きなテーマでした。なぜなら、福音が爆発的に広がったローマ帝国こそ、現代に勝るグローバル経済が実現していたからです。黙示録16章には、「大バビロン」という、政治権力と結びついた富の支配の横暴が描かれています。そしてこの勢力が、敬虔な信仰者を迫害するとも記されています。そして、信仰者に求められていたのは、そのような権力者と戦うことではなく、死の脅しに屈することのない創造主への忠実さを全うすることと、互いに助け合う愛の共同体を広げることでした。その成長の中でキリスト信仰がローマ帝国の権力システムさえ変えました。
ただそこで、再び、個々人の自由な、主体的な信仰が、政治システムに組み込まれて堕落するという新たな矛盾が生まれました。そして、中世カトリック教会で、お金と教会制度が結びついてしまった時に、宗教改革が必要になりました。
2017年は宗教改革五百周年記念の年です。私たちは今、新たな宗教改革を必要としているとも言えましょう。それは、個々人の「たましいの救い」というテーマを超える運動です。それは神の平和(シャローム)をこの地に広げるという共同体的な信仰です。
日本におけるキリスト教会は、驚くほど小さな存在です。しかし、明治時代のキリスト者が当時の社会に決定的な影響力を発揮できたように、現代の日本の教会も、社会に影響力を持つことができます。
それは、保守と革新という枠組みの対立を超えたヴィジョンでなければなりません。現代の政治的変化は、グローバル経済が生む問題を、対症療法的に変えようとする運動のように見えます。しかし、キリスト教会は、そのような政治対立を超えた新たな価値観を提示する存在であるべきでしょう。そして、明確なヴィジョンのもとに、お金を賢く管理することが求められています。イエスは二千年前のグローバル市場経済の中で、お金について驚くほど頻繁に語られました。そして、そのメッセージは、現代のグローバル経済にそのまま適用できる、古くて新しい知恵なのです。


小預言書の福音

12の小預言書の解説
旧約聖書の最後に収録されている小預言書をわかりやすく解説。
メシヤやペンテコステの預言など新約聖書の随所で引用される重要なみことば、人間の罪と神の怒り、それでもなお示される神の真実いつくしみ……豊かな内容を持つ12の書がリアルに描き出される。

発売日:2016/01/20
発行: いのちのことば社
ISBN:978-4-264-03462-9
商品番号:2210
定価:2000円+税

「はじめに」より

 ユダヤ人の伝統の中では、小預言書は「The Twelve(十二)」と呼ばれ、ひとつの巻き物の中に、現在の私たちの聖書の順番で記されていました。それぞれ著者も時代のテーマも違うのですが、預言者イザヤのように神のさばきと救いに関して壮大なビジョンを語っています。
そして、これらの預言が語られた時代は、ダビデから始まってソロモンの後で二つに分かれたイスラエル王国がそれぞれ、アッシリヤ帝国、バビロン帝国によって滅ぼされ、その後、ペルシャ帝国の下で小さいながらも神殿を再建し希望を見出すという、人間的には不透明なときです。
それは、1990年以降の閉塞感に満ちた日本の状況に似ています。ですから、今から2750年〜2500年前という大昔、聖徳太子よりも二倍も古い時代に記されたことばは、現代の日本の社会や教会の現実にも深い関連性を持っていると言えましょう。
しばしば、預言というと、未来のことがあらかじめ神から知らされることとして理解されがちですが、預言書全体には、「イスラエルの死と復活」という一貫したメッセージがあります。神は、ご自身の救いのご計画を理解した新しい神の民を起こそうとしておられます。そして、そこには神の平和(シャローム)を全地に満たすという究極の目的があります。

なお、本書は十二の預言書各書のストーリーを概観する一般の方々向けの解説書ですので、参考文献は最低限しか記しておりません。また聖書の引用は、基本的に新改訳聖書第三版を用いておりますが、現在、全面的な翻訳改訂作業中ということもあり、できるかぎり、筆者の独自の私訳を用いさせていただきました。もちろん、翻訳改訂作業とは無関係です。
神学的には、1999年に英国の神学者N・T・ライト氏に出会って以来、彼の解釈に多大な影響を受けております。それ以来、改めて、新約の福音を旧約の預言の成就という観点から理解するという当然のことが腹の底に落ちました。私たちと同じ人間としての限界を引き受けられたイエスご自身が、ご自分の救い主としての召命を預言書から受け止めていかれました。またパウロの神学は基本的に預言書に記されたイスラエルの死と復活のメッセージから生まれていると思われます。
十二もの預言書が、それぞれの異なった時代と社会情勢の中において、創造主ご自身の啓示を受けて、それぞれ独自に記されたものですが、不思議にも、そこに記された希望のメッセージはすべて基本的に同じです。それは神がこの世界にご自身の平和(シャローム)を実現してくださるというものです。十二の預言書をまとめて読むことによってよりよく理解できる福音があります。新約の福音の豊かさを、ここから読み取っていただければ幸いです。
なお、本書は、身近な所に置いて、必要に応じて疑問の箇所を調べるための参考書としてお用いいただくこともできます。聖書自体を味わっていただければと、心より願っております。


お金と信仰

人は「お金」とどう向き合えばよいのか
キリスト教会で、あまり語られないこの課題に、元証券マンで現在は牧師として活躍する著者が、聖書から、また日本社会の経済状況から答える。

発売日:2014/05/07
発行:地引網出版
定価:1500円+税

「はじめに」より

 お金と信仰との関係は微妙です。神を信じればお金持ちになれるという短絡的なご利益信仰は危ないですが、でも反対に、信仰者はお金のことを考える必要はないという発想は、もっと危険です。なぜなら、お金の計算ができない人は、どこかで必ず人に迷惑をかけるからです。
またそれとは反対に、お金のことを心の中で意識し過ぎる結果として、「私はお金のことなど気にしません」と敢えて公言する人がいます。パリサイ人は律儀な道徳家と見られていましたが、イエスが、「不正の富に忠実」であるようにと不思議なことを語ったとき、それをあざ笑いました。聖書は彼らのことを「金の好きなパリサイ人たち」(ルカ16・14)と呼んでいます。お金が好きな人に限ってお金の話を軽蔑することもあるからです。しかしイエスは、その誘惑から自由だったからこそ、驚くほど頻繁にお金を題材とした喩え話をされました。
お金が偶像になるのは、それが私たちの日々の生活にとって何よりも大切であるというしるしでもあります。そのことを覚え、「お金と信仰」に関して、聖書と経済学の両面に目を向けながら記させていただきます。
なお、経済学と経済現象に関係する部分については、日本大学経済学部教授の曽根康雄氏にも記事の正確性に関して確認していただきました。曽根氏は以前、野村総合研究所の香港現地法人に勤務し、エコノミストとして国際金融の最前線の現場を経験し、理論と現実両面を観察して来られた方でもあります。
なお、本論を通して市場経済の有効性を語りますが、それはあくまでも、政治権力による経済管理よりは有効であるという意味で、市場経済を絶対化するという意味では決してないことはあらかじめ念を押させていただきます。私自身も証券市場での働きに身を置きながら、そこにある様々な矛盾に悩んできた経緯があります。ただ、それを必要以上に悪く見ることにも危なさを感じているというのが本論での一貫した趣旨です。
本書を手にされた方が、「お金と信仰」の関係についてバランスを持って考えるきっかけとされればと切に願っております。


現代人の悩みに効く詩篇

絶望に沈むとき、罪の深さに悩むとき、信仰者はどのように祈ればよいのか。ありのままの自分を見つめ、弱さと対峙する詩篇作者の姿勢から学び、たましいの叫びを聞いてくださる神を体験しよう。月刊「百万人の福音」連載の講解説教、待望の単行本化。
発売日:2013/6/15
発行:いのちのことば社
定価:1500円+税


今、ここに生きる預言書

イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、ヨハネの黙示録から主要な箇所を取り上げて解説
扇動的な終末論にまどわされることなく、来るべき新天新地をしっかりと見据えつつ、苦難に満ちたこの世を堅実に責任をもって生きる道を説く。慰めと励ましのメッセージ。折り込み図表付き。

価格:2000円+税
発行:いのちのことば社
発売日:2012/08/01
ページ数:384

「はじめに」より抜粋

 2011年3月11日の東日本大震災まで、多くの人々は日本でこのように悲惨な原子力発電所の事故が起きるなどとは夢にも思わなかったことでしょう。この後、ドイツのメルケル首相は「日本で起こった出来事は、これまで絶対ないと考えられてきたリスクが絶対ないとは言えないという事実を教えてくれている」と言いながら、脱原発への政策を明確にしました。事故後、次々と原因が明らかになってきました。それによると、日本政府も東京電力も、「安全神話」のようなものを前提に原発事業を推進していたということです。
今から二千六百年前にも同じような「安全神話」がありました。それは「神の都、エルサレムは不滅だ……」というものです。それに対し、神が遣わした預言者たちは、それが幻想に過ぎないと言いつつ、人々の目を、永遠に変わらない真理へと向けさせました。
震災直後の中学校の卒業式で十五歳の少年が、「自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で私たちから大切な物を容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というにはむご過ぎるものでした。つらくて悔しくてたまりません。……しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことがこれからの私たちの使命です」と語ったことが日本中の感動を呼びました。神がなぜあのような悲惨を、このときここで許されたかはわかりません。しかし、この少年は三人の友を津波で失うという悲劇を通して、自分にとっての「使命」を明確に意識するようになっています。
聖書の預言は、未来予測ではなく、目に見える私たちの人生の土台がいかに崩れやすいものであるかを示しながら、永遠の神に信頼することを勧めるものです。それは未来を把握したいという人間の願望を満たすものではなく、「今ここで」、どのように生きるべきかを教える永遠の真理の書です。

ところで、牧師として聖書のメッセージを取り次ぎ始めて間もなくの頃、ある米国出身の元宣教師のご婦人が、「先生は聖書の預言がすべて成就すると本当に信じておられますか。たとえば、エゼキエル40章以降のエルサレム神殿の復興を信じておられますか……」と問いかけて来られました。私はその問いに明確にお答えすることはできませんでした。米国の多くの保守的な信仰者は、1948年のイスラエル国家の建設を聖書の預言の成就と見て、イスラエルの支援を自分たちの使命と捉えていますが、エルサレム神殿の再建までもが聖書の預言の成就として必要と認識するなら、同じくエルサレムを聖地のひとつと捉えるイスラム教諸国との対立は不可避となります。その上、中東での戦争のたびに、預言書にある終わりの日の戦争が始まりそうだなどという書籍が書店に平積みにされたことがありました。私はずっと、そのような聖書の読み方がしっくりとは心に落ちずにいました。
一方、宗教改革者マルティン・ルターは私にとってかけがえのない教師ですが、一つ大変に残念に思うことがあります。ルターは宗教改革の初めはユダヤ人に対してきわめて同情的で、「イエスは生まれつきのユダヤ人であった」という文書をしたためたほどです。そこで彼は、ローマ・カトリックはユダヤ人を犬のように扱い、福音を語ってこなかったから、ユダヤ人は回心できなかったと言いました。ところが、ユダヤ人は、宗教改革運動に乗じてキリスト者に働きかけ、安息日をユダヤ伝承で守るように教えたり、割礼の儀式を復活させたりし、ルターの改革運動の最も恐ろしい敵対者になってしまいました。それで彼は態度を百八十度逆転させ、国の指導者にユダヤ人の会堂を焼き払い、彼らの家を壊し、商取引から締め出す法律を作るように促しました。彼の最後の説教はユダヤ人の国外退去令をドイツの領主に勧めることでした。残念ながらそれは、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の根拠とされてしまいました。
それにしても、ユダヤ人は福音の敵となっているという見解と、神はユダヤ人を愛し、特別な計画をお持ちであるという見解は、互いに相容れないのでしょうか。不思議にもパウロはその両面を受け入れるように、「彼ら(ユダヤ人)は、福音によれば……神に敵対している者ですが……選びによれば……愛されている者なのです」と言いながら、「神の賜物と召命とは変わることがありません」と論じています(ローマ11・28、29)。
確かに、救いはユダヤ人から始まっていますが、キリストの十字架の奥義は、何よりも、異邦人とユダヤ人が和解できるということにありました。それをパウロは、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです」(エペソ2・14、15)と記しています。つまり、キリストの十字架は、ユダヤ人と異邦人の間の、「敵意を滅ぼし」、二つの民を一つの民とするためであったというのです。そして、ユダヤ人とギリシヤ人の和解というとは、現代的には、日本人と韓国人の和解、黒人と白人の和解、スペイン語圏と英語圏の和解、など様々なことに適用できます。
旧約聖書はイスラエルに対する最高の「賜物」であり、彼らへの「召命」の書ですが、そこには彼らが「世界の光」として、神の一方的なあわれみを謙遜に分かちあうという使命が記されていす。そして、イエスこそ、それを可能にしてくださる真の意味でのイスラエルの王です。
神の救いのゴールは、「新しい天と新しい地の創造」です。そこでは、神の平和(シャローム)が全世界に満ちます。それこそ旧約聖書に記されたユダヤ人の夢であり、私たちの希望です。ユダヤ人も異邦人も、神の一方的なあわれみと選びによって神の民とされました。そこには常に、神の平和を世界に広げるという使命がセットになっているのです。

なお、私は、かつて日本福音ルーテル教会で受洗の恵みにあずかり、仕事でドイツに六年間あまり滞在したときに、プロテスタント教会の源流を作ったマルティン・ルターを心から尊敬しながらも、現在奉仕している福音自由教会と発祥を同じくする自由教会の流れへと移りました。それは聖書を誤りなき神のことばと信じる聖書信仰の立場を明確にする必要を感じたからです。
ただ、そのような福音派の神学が、終末論の理解においては、十九世紀末から二十世紀半ばにかけて体系化されてきた神学の影響を強く受けていることに違和感を覚えてもいました。一方、それでも福音自由教会の牧師として、「主イエス・キリストの御自身による千年王国前の、切迫した再臨を待ち望む」という教理を心から受け入れています。それはこの世の政治や社会改革運動への幻想を抱かずに、福音によって一人ひとりの生き方が変えられるということを第一に目指すことがキリスト教会の使命であると信じるからです。
それにしても私の中では、伝統的なルター派神学と自由教会的な終末論をどのように調和させるかが大きな課題になっていました。しかし、1999年にカナダのリージェンカレッジでもたれた牧師向けのセミナーで、N・T・ライトとゴードン・フィーの集中講義を聴きながら、旧約と新約の連続性や、聖霊論を中心とした聖書の一貫したテーマに目が開かれました。その後、当教会の礼拝では創世記から順番に説き明かすようにしました。その結果が、『主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って(モーセ五書の解説)』『哀れみに胸を熱くする神(ヨシュア記から列王記、哀歌の解説)』『正しすぎてはならない(伝道者の書の翻訳と解説)』『心を生かす祈り(三十の詩篇の私訳交読文と解説)』につながりました。幸い、それぞれの書ともに再版を重ねることができています。
今回は本来、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルの全章を網羅した本にしたかったのですが、現下の出版不況に配慮し、特に新約と密接に結びつく箇所の解き明かしのみを掲載することにしました。ただ、ダニエル書だけは分量が少ないのですべてを掲載させていただきます。
米国のブッシュ前大統領の外交政策と米国の保守的な福音派の神学の結びつきが、日本のマスコミでもしばしば話題になってきました。そして、福音派というと、この世の常識を真っ向から否定したり、戦争による問題解決を正当化したり、東日本大震災を神のさばきの現れなどと解釈する危ない教派かのように誤解されることが多くなりました。そして、確かに、十九世紀末から米国の福音派で盛んになってきた預言書の解釈にはそのような誤解を生む余地があるように感じられます。私の願いは、この預言書の解説をお読みになる方が、この地に平和を広げることこそが、神のみこころであることを聖書全体を通して理解してくださるようになることです。そのために、この預言書の解説が少しでもお役に立つことができれば幸いです。


正しすぎてはならない–Let it be–(伝道者の書の翻訳と解説)

知恵文学の頂点である「伝道者の書」を著者自身の祥訳とともに深く読み解く
自分の「正しさ」が人を攻撃していないだろうか。―「この世」と「教会」の違いを強調しすぎると、独善的・排他的傾向になるキリスト教会に、不朽の神の知恵である「伝道者の書」から、聖書の教えをそのまま受け止め、現実をあるがままに見る姿勢を説く。
高橋秀典牧師の著書、「正しすぎてはならないーLet it be-」(伝道者の書の翻訳と解説)がキリスト教書店を中心に販売されています。
下記の「いのちのことば社」さんのサイトで案内をご覧いただけます。

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今回は、今までの三冊よりも、薄く、読みやすく、わかり易いという評価をいただいております。
ジョン・レノン、ビートルズ、サイモンとガーファンクル、ローリングストーンズ、カーペンターズ、フォーククルセダーズなどの懐かしい曲の歌詞を思い浮かべ、同時に、古典的なドイツコラールなどを引用しながら、すべての人の心の奥底にある渇きに注目しつつ、伝道者の書をまだ聖書を読んだことのない方にもわかりやすく解き明かしたものです。仏教の経典との簡単な比較も記しております。

15年前から何度もヘブル語原文からの私訳を試みておりましたが、その翻訳とともに、一字一句を解説し、それを新約の福音に結びつけ、同時に、現代の一般の人々の心の奥底の渇きに答えられるようなわかりやすい解説を試みております。

しばしば、福音の提示が、世の文化や仏教を批判しながらなされることによって、かえって未信者の方々の心を閉ざして来たという面があるように感じてきました。
それで、すべての人の心にある共通の問題を、この世の文化のことばで洞察しながら、それを批判することなく、同時に、それを超えたキリストにある福音をわかりやすく明確に示したいとずっと願ってきましたのとの集大成です。
大学時代の小生の未信者の多くの友人たちに読んでいただいてもわかってもらえるということを心がけた聖書入門書となるように心がけました。

すぐに一冊をお求めになりたい方は、国内の方は上記のいのちのことば社さんのゴスペルインフォメーションからお求めいただけます。
また、海外の方は、アマゾンでご購入いただくと便利かもしれません。「正しすぎてはならない」と入れると案内が出てきます。

「はじめに」より

 約三十五年前の学生時代、私は英国の女性宣教師から英語とともに聖書を学び始めました。彼女には今も心から感謝していますが、ひとつだけ残念に感じたことがありました。私の質問に対し彼女は、「私は英国人としてビートルズを恥ずかしく思う……」と答えたことがあったからです。
しばしば、キリスト教会は、この世の文化との違いを前面に出すあまり、「自分たちの正義ばかりを主張する独善的で排他的な教え」というイメージを与えてはいないでしょうか。ところが、「伝道者の書」では、「日の下」ということばで、目に見える現実の世界の空しさが分析されており、そこには、仏教の教えとの共通点が見られるような気がします。もちろん、それぞれが指し示す救いの体系は根本的に違います。しかし、時に、聖書の福音を語っているはずの人が、この世界の現実的な悩みに対し、あまりに表面的な理解しかしていないと感じられることがあります。それは、たましいの叫びから生まれる音楽や哲学や宗教的洞察を、批判的に見すぎているからかも知れません。
そのようなことを意識しながら、タイトルを七章一六節の「正しすぎてはならない」とし、その部分の解説で使った Let it be(そのままに)をサブタイトルにしたいと思いました。私の学生時代には、まだマルクス主義のイデオロギーが尊敬を勝ち得ていた時代でした。私は、マルクス主義者たちがこの世界におこるすべての問題を理路整然と解説し、批判するその体系に、何とも言えない違和感を持ちました。それは現実をあまりにも単純化しているように思えたからです。
そして、その後、聖書を読めば読むほど、世で説明されているキリスト教の体系や枠組みにも、聖書の教えの大切な部分を切り捨て、単純化しているものがあるように感じました。現実をあるがままに見ると同時に、聖書の中で、一見、互いに矛盾しているように思える教えや、理解しがたい表現を、あるがまま受け止め、人間的な解釈を加えようとしないという姿勢(Let it be)こそが、大切ではないでしょうか。そして、「伝道者の書」こそ、互いの正当性を主張するイデオロギー的とも言える対立に、まったく新しい視点を与えてくれる不朽の神の知恵です。
なお、この書の結論は、「神を恐れよ。その命令を守れ」というものです。ただ、最初からそれを前面に出すと、多くの日本人は、それを、「こんなことをしたらバチが当たるのでは……」などという萎縮した生き方に結びつける恐れがあります。また反対に、「神を恐れようとしない者」への敵意を正当化する場合もあり得ます。実際、アメリカ南部の過激な信仰者たちは、ジョン・レノンが一九六六年に、「僕たちは今や、イエスより有名だ……」と発言したことに抗議し、ビートルズのレコードを焼き討ちにして、彼らのコンサート予定を中止に追いやりました。
しかし、本来、神を恐れ、神の最終的なさばきを信じるなら、自分の「正しさ」の基準によって人を攻撃する必要などありません。また、自分を襲う不条理を、神の罰と受け止め不安になる前に、Let it be(そのまま)にして神の導きを待つことができるはずです。また同時に、「今、ここで」、すでに与えられている神の恵みを感謝できます。また、神の眼差しを意識すればするほど、神が創造された広い世界に心が向かいます。歴史を振り返っても、真に神を恐れた人々は、この世の不条理を性急に正そうとして新たな問題を生み出すことなく、忍耐をもって対処できています。
この書は、「エルサレムの王、ダビデの子、説教者のことば」と最初に紹介されていますから、教会の伝統では、ダビデの子、ソロモン王によって今から三千年近く前に記されたと言われています。新共同訳聖書は、この書名を原文そのままに「コヘレトのことば」としていますが、コヘレトは、「集会の説教者」という意味だと思われます。日本では「伝道の書」または「伝道者の書」という呼び名で親しまれています。ソロモンは、イスラエルの王とされたとき、神から「知恵の心と判断する心」(Ⅰ列王三・一二)をいただきました。そして、シェバの女王は、彼の名声を聞いて遠くから来たとき、「なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる家来たちは」と感心しました(Ⅰ列王一〇・八)。そして、私たちはこの書を通して、彼女が感嘆した「知恵のことば」を聞くことができます。
また、この「伝道者の書」は、現代の日本とは遠く離れた世界を基に記されているようでありながら、この目に見える世界に生きることの悩みやそこで得た洞察などは、現代にそのまま適用できます。実際、聖書には、戦争や飢饉など危機的な状況下で記された多くの記事がありますが、この書は、平和と繁栄の中での現実生活の空しさを描いているという点で、現代の日本により身近な内容です。
学問的にすぐれた聖書の解説は数多くありますから、私のような者が新しい翻訳と解説を記すことには大きな躊躇がありました。しかし、回り道をしながら聖書の教えに魅せられ、また国際金融の世界から牧師としての働きに召され、今も数多くの悩みを抱えた方々のご相談にのらせていただいているからこそ見えていることも多いのではないかと思い、出版を決意しました。
また、この書で原文からの独自な翻訳を提示しましたのは、決して、既存の聖書翻訳を批判するためではありません。私の教会では新改訳聖書第三版を礼拝において用いており、その翻訳の正確さに関しては心よりの敬意を抱いております。また新共同訳のわかりやすさも助けになっています。しかし、ヘブル語の詩文の翻訳は、ある意味で、不可能への挑戦とも言われます。実際、この書の特に難解な箇所で、いくつかの翻訳を提示すると、何人もの方が、「これらは同じ原文から翻訳されたのですか」と驚かれます。時に大胆な解釈を入れないと現代の日本人に理解できる表現にならないからでしょう。ただ、それでもこの私訳は、過去十五年来、何度も手直しを加え、英語やドイツ語などの多くの翻訳も比べながら、伝統的な翻訳の枠に留まるように心がけたものです。
なお、当たっては、原文のリズムとことばの繰り返しに特に注意を払っております。少しなくなっても、同じ原文は同じ日本語で表現することで、原文でどのことばが強調されているかをわかるようにしました。また並行法やレトリック、語順なども、日本語としてかにならない範囲で、原文を少しでも生かすように心がけております。ですから、各章の解説以上に、この翻訳を通して、この詩文の原典の美しさを推察していただければ幸いです。


哀れみに胸を熱くする神「万軍の主(ヤハウェ)の熱心」の記録-ヨシュアからバビロン捕囚まで

ヨシュア記から列王記、哀歌までの聖書通読手引
「主があなたがたを恋したって……聖書の基礎(モーセ五書)の解説」に続く聖書通読のための解説。歴史的な文脈、核心となる原文の解説、新約聖書との関連、現代への適用を含んで「ヨシュア記から列王記、哀歌」までを1冊に。詩篇の解説「心を生かす祈り」とも併せて読めば、旧約世界が、より清冽に現代に語りかけてくる。
地図・年表付き。
いのちのことば社
定価:2286円+税
436ページ

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旧約聖書は、赤裸々な人間模様、波乱万丈の人生、敬虔な信仰者の犯す失敗など、本当に興味深い物語に満ちています。今まで、たとえば、各書ごとの解説や、サムソン、ギデオン、サムエル、ダビデなどの物語だけを選んで解説した本は多数出版されていますが、イスラエルの歴史を一冊にまとめた手軽な本はほとんどなかったように思えます。
聖書をお読みになりながら、わかりにくいところだけ調べるというような形でもお読みいただけますし、聖書研究の学び会のテキストにも用いていただくことができます。多くの人が、「これは読みながら、どうも意味がわからない……」と思われるような部分は、ほとんどすべて網羅しながら、しかも簡潔に、多くの学者が同意できることを記しています。しかも、現代の私たちの現実に合わせた解説も記されています。
巻末の地図にはイスラエルと中東全域、主な山の高さまで記しています。

年表は、ひとつは、アブラハムから現代のイスラエルに至る歴史、もうひとつはイスラエル王朝の歴史でそれぞれの王の特徴や在位年数、預言書との関係まで記しています。
一昨年出版のモーセ五書の解説も、毎日のデボーション、グループの聖書研究の手引きばかりか神学校の推薦図書にもしていただき、一年で重版の必要が生まれました。それに続く聖書通読の手引きですので、どうかお買い求めいただければ幸いです。

「はじめに」より

 「旧約聖書は、どうもとっつきにくくて……」という方も多いかと思われますが、この本はそのような方々を意識して記させていただきました。確かに時代も場所も、あまりにも私たちの生活の場から遠く離れているように思われますが、ここで扱っているヨシュア記から列王記の物語ほど、その原則を現実の生活に適用できる教えはありません。そこに記されている三千年前の人間の現実は私たちに驚くほど身近なものだからです。たとえば、私たちは、ギデオン、サムソン、サウル、ダビデなどの物語と、自分の人生を重ね合わせて見ることができます。
旧約と新約の違いについて、しばしば、「旧約は目に見えるカナンの地に神の国を建てることが、新約においては、天の御国を受け継ぐことがテーマとされている」と言われます。私はそのような説明を聞き、霧が晴れたような気になったことがあります。旧約で残酷な話が出ざるを得ないのは、目に見える土地の所有権が問題になっているからです。この地上の富に目が向かえば向かうほど、人と人との利害が対立せざるを得ません。しかし、私たちの心の目が、来たるべき世界に向かえば向かうほど、人と人との平和が実現しやすくなるのではないでしょうか。
ところが、そこに落とし穴があるかもしれません。信仰者は、すべての希望を天国に置くべきで、この世の事に関しては禁欲的な態度を取るのが聖書の教えであるかのように誤解することがあり得るからです。少なくとも私にとって、国際金融の世界で働いているとき、「天国への希望」よりは、「今ここで、生きて働いておられる神」に関しての教えのほうがずっと身近に感じられました。私たちは誰も、この世に生きている限り、目に見える富や力から自由になることはできません。日々、自分の仕事や家族の将来のことで悩み、そのことのゆえに神を求めているのではないでしょうか。信仰とは、私たちの心をこの世の現実から逃避させるものではなく、この矛盾に満ちた世の中において、「生きる」力を与えることができるものであるはずです。
なお、新約の福音を、「肉体が滅んでも、たましいが天国に行ける」というような枠で理解しようとする方は、聖書を誤解しているのかもしれません。たとえば、福音書に最も頻繁に繰り返されているテーマは、「神の国」または「天の御国」ですが、このことばの意味を、ダビデ王国の成立と滅亡という歴史的事実から離れて理解することは不可能です。残念ながら、旧約聖書を知らずには、新約聖書におけるイエスのメッセージは本当には理解できないと言えましょう。

この本のタイトルは、この世界の創造主であられる主(ヤハウェ)が、ご自身の民として選ばれたイスラエルをさばく際に、「わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア一一・八)とご自身のお気持ちを表現しておられるみことばを基にしています。「哀れみ」と漢字で書いたのは、そこに何よりも、神の深い「哀しみ」の気持ちが込められていることを表現するためです。またこれは、原語は違いますが、最後の解説「哀歌」に結びつきます。
聖書の最初の五つの書の結論でモーセは、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命三〇・一九)と勧めました。ところが、イスラエルの民は「のろい」を選んでしまいました。主は、彼らの不従順に忍耐を重ねながら、ダビデのもとでアブラハムに約束したカナンの地すべてを占領させ、ご自身の臨在のしるしとしてのエルサレム神殿をソロモンのもとで完成させてくださいました。しかし、彼らはその後も、反抗に反抗を重ねます。その結果、北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされ、南王国ユダはバビロンによって滅ぼされました。拙著、『主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って……-聖書の基礎(モーセ五書)の解説-』で、申命記の結論は、ルカの福音書一五章の放蕩息子のたとえに通じると記させていただきました。そこで放蕩息子の帰還の時の様子が、「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」と描かれます(二一節)。同じように、主(ヤハウェ)は、自業自得で「のろい」を選び取ったイスラエルの苦しみをご覧になりながら、「哀れみに胸を熱く」しておられるのです。

なお、「胸が熱くなる」という表現は、I列王記三章で、知恵に満ちたソロモンが、ひとりの子を奪い合うふたりの母のどちらが実の母親かを見分けるため、わざとその子を半分に切り裂いて分けるようにと命じたところ、実の母が、「自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、『どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください』と王に申し立てた」(二六節)という箇所にも見られます。この母のことばで、どちらが実の母であるかをソロモンは見分けることができました。
哀れみに胸を熱くする「母」ということで、聞き続けてきた話があります。私は一九五三年三月に北海道の大雪山のふもとで生まれました。大変な難産で、自宅で私を産んだ母は、大量の出血を助産師さんに雪で止血してもらいながら、死にかけたとのことです。どうにか命を取り留めた母は、休む間もなく農作業に出ました。ひとり家に置かれた幼児の私は、泣くばかりでした。あるとき、声がしないと思ったら、おくるみで鼻と口が塞がり、窒息しかけていました。
それで、一歳を過ぎた後の田植えの時期には、父が持ち運びできる小さな屋台を作ってその中に寝せ、あぜ道に置きながら父母は農作業をしていました。ところが、私は風邪をひいて四十度以上の高熱が続き、喉の奥全体を腫らし、ついには呼吸困難に陥りました。どうにか、三十キロメートルあまりも離れた旭川の市立病院にバスを乗り継いで運ばれました。幸いその分野では北海道一と言われる院長先生に診てもらえましたが、「あきらめてください」と言われるほどの重症でした。しかし、必死に懇願する母の願いで荒療治が行われました。三人の医者と、何人かの看護師の方のもとで、一歳の私は逆さにされ、喉が何度にも分けて切開されました。そのたびに大量の血が流れ、脈がストップしたとのことです。しかし、そのたびに母が抱くと、心臓が再び鼓動を始めました。それが何度も繰り返され、命を取り留めたとのことです。その後も、何度も、死ぬ寸前の危険に会いました。そのため発育が極端に遅れ、小学校に入った頃は、三月生まれだったことも相まって、運動も勉強でも「落ちこぼれ」という状態でした。
幼児期の苦しみは、心にもマイナスの陰を落とします。また、発育の遅れは、強い劣等感の原因になりました。私の記憶にかすかに残っているのは、ひとり泣きじゃくる自分の姿です。その後も、何をやっても遅れを取る落ちこぼれ意識を培ってきました。どうにか小学校高学年からめきめきと成績が良くなりましたが、幼児期の心の傷は、私の心に暗い影を落とし続けていました。念願の大学に入り、国費の交換留学で、米国で学ぶことができ、不思議な導きでイエス・キリストを主と告白する信仰に導かれました。そのときの私は、自分の内側にある真の問題には気づいていませんでした。ただ、その後の信仰生活の中で、徐々に自分の心の奥底に隠されている何ともいえない不安と向き合いながら、自分はこの不安のゆえにイエスのもとに引き寄せられたのだと分かりました。しかし、そこで「信仰によって不安を克服しよう!」などと思っても、どうにも変わりようのない自分の不信仰に悩むという空回りが起きて来ました。

しかし、自分の人生を「神の選び」の観点から、優しく見直すことができるに連れ、気が楽になってきました。先の市立病院の先生にはその後も助けられましたが、「ほんとうによく助かったね……」と感心されたそうです。私たちは誰しも、生かされて、生きています。その過程で命の危険に何度も遭遇します。私を生かすためには、心臓が止まるほどの乱暴な治療が必要でした。しかし、「哀れみに胸を熱くする母」の愛が、私の心臓を動かしました。そして。今、そのときの母の背後に、「哀れみに胸を熱くする神」がいてくださったことが分かります。私は、神の燃えるような愛によって、目的をもって生かされています。そこでは、私にとってマイナスとしか思えなかった体験も、益として用いられるということが分かってきました。
私たちは多くの場合、幼児期に何らかの心の傷を負います。そこから自分を被害者に仕立てる人生の物語を描くことは簡単です。しかし、私たちは、人生の物語をまったく別の観点から、信仰を持つこともできない幼児期から描き直すことができます。それはひとりひとりに創造主が期持しておられる人生の物語です(詩篇一三九・一七、一八、拙著『心を生かす祈り』参照)。ただしそれは、私たちの主体性が失われ、決められた一本のレールの上を走るということではありません。
たとえば、ソロモンの記事に出てくる母は、子どもを生かすために一度は子どもを手放す決意しましたが、両親も「私を生かす」ことを第一に考え、先祖が命をかけて北海道に開拓した水田を受け継がせなければならないとは考えませんでした。同じように、神は、私たちの主体性を重んじながら、ご自身を隠すようにして、私たちの人生を導いておられます。ただそのため、神を身近に感じることができず、自業自得の苦しみに会うこともあります。しかし、それは私たちを束縛しようとはされない神の愛の表れなのです。
そしてしばしは、神の選びは、苦しみを通して初めて見えてくるという面があります。それは、自分の出生の環境自体を「神の選び」の観点から見直すことから始まります。そのことを使徒パウロは、「神は私たちを描界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ一・四、五)と記しています。ここで「私たち」に含まれるのは、「イエスは主です」(Iコリント一二・三)と告白しているすべての人々です。あなたがイエスの御名によって、イエスの父なる神に祈っているのは、あなたのうちに創造主の御霊が生きて働いておられることの結果です。あなたは神に選ばれた「高価で尊い」存在なのです(イザヤ四三・四)。

同じようにイスラエルに対する「神の選び」は、イスラエルの苦しみの歴史を通して明らかにされます。しばしば、旧約の物語を読む方が、神の残酷さに失望と驚きを感じます。しかし、それは話の一部しか見ていないために起こる誤解です。神は「十のことば」において、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神、ねたむ神である。わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで及ぼすからである」(出エジプト二〇・五、六、前半は私訳)と言われました。そして、偶像礼拝に走ったイスラエルに対する神のさばきは、神の「ねたみ」から生まれていると聖書では描かれ、それは「燃える怒り」にさえ至ります。それは多くの人に納得し難く思えますが、「ねたみ」というヘブル語は「熱心」と訳されることばと基本的に同じです。II列王記一九・三一では、神がユダの家を、苦しみを通して整え、豊かな実を結ぶようにされることを指して、「万軍の主(ヤハウェ)の熱心がこれをする」と描かれますが、これはイスラエルを苦しめながら最終的に救い出す神の燃えるような愛の表現です。この「熱心」ということばは、雅歌では「ねたみ」と訳され、「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しい」(八・六)と描かれます。イスラエルをさばく神の「ねたみ」は、燃えるような神の愛の表れなのです。この書の副題を、『「万軍の主(ヤハウェ)の熱心」の記録-ヨシュアからバビロン捕囚まで-』としたのはそのためです。
ところで、サムエル記第一では、神がサウルを王として立てられたことを「悔いた」という不思議な表現があります(一五章)。これが聖書に最初に出てくるのは、ノアの箱舟のところで「主(ヤハウェ)は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(創世六・六)という表現です。どちらも、神のさばきの原因となることばです。しかし、このことばと、先の神の「哀れみ」とはヘブル語で同じ語根のことばなのです。またこのことばは「慰める」とも訳されます。「さばき」と「救い」をもたらす神の「思い」が同じことばで表現されるのは、何とも不思議ですが、それこそが十字架の神秘です。イエスの十字架は、罪に対する神の「さばき」であるとともに、罪人に対する神の「哀れみ」だからです。そして、その底には、神の「哀しみ」があります。私たちは聖書を読むときに、この神の感情を忘れると読み間違いをしてしまいます。どちらにしても、多くの人々が、首を傾げる表現、神の「ねたみ」とか、「悔やみ」ということばは、実は、「神の燃えるような愛」と表裏一体のことばなのです。

ところで、私たちは仕事でドイツに駐在中に、日本人のための家庭集会を開いていましたが、そこに会社の同僚が来てくれました。その日のテーマはたまたま、ダビデとサウルの対比でした。彼は、「サウルとダビデの罪を比べると、まだサウルの罪の方が軽いように思う。なぜ神はサウルをしりぞけ、ダビデにこれほど寛大なのか分からない……」と言っていました。残念ながら、当時の私はその疑問に十分に答えることはできませんでした。今回、この解説を記しながら、そのときのことが思い起こされます。私は、神が私たちに対して抱く「情熱として愛」を理解していませんでした。そして、今も、多くの人々が、それを理解していないように思われます。このいのちにあふれる主(ヤハウェ)と人間との愛のダイナミックな愛の物語を、単なるいのちのない道徳の教えに変えてしまい、そこにある神の情熱を読み取ることができなくなっています。
ヨーロッパの歴史で、誰よりも大胆にキリスト教を否定したニーチェは、ドイツのルター派国教会の牧師の息子として生まれましたが、五歳のときに父が亡くなり、母と妹とともに親戚の世話を受け、肩身の狭い思いをして育ちます。彼の母も牧師の家に生まれていましたから、母は彼が牧師になることを望んでいました。しかし、彼はヨーロッパを代表する無神論者になってしまいました。彼は晩年の書『アンチクリスト』で、「高級な人間と呼ばれる牧師」こそ、実は、「いのちを否定し、誹謗し、損なわせることを職業としている者である」と言っています(Friedrich Nietzsche Der Antichrist 8私訳)。自分の親たちの働きを、「いのち」を抑圧するものと描かざるを得ない現実を彼は感じていたのです。何と悲しいことでしょう!
一方、ニーチェは同じ書で、「イスラエル王国の時代……ヤハウェは、力の意識の表現であり、それは喜びと希望の表現であった。人々はヤハウェに勝利と救いを期待していた。それは特にヤハウェが自然を支配し、民に必要な雨を降らせることを意味した……ところが、人々は神の概念を不自然なものに変えた……いのちの表現ではなく、道徳に……人間の想像力(ファンタジー)を根本的に悪化させるものに……」(同25私訳)と、後代の人々が「いのち」の教えを、いのちのない道徳に作り変えたと非難しています。しかも、彼は、「道徳の系譜」で「旧約聖書にあらゆる敬意を払え!そこに私は……地上に類稀な、強い心の比類なき純真さ(原語「ナイーブ」)を発見する」(Zur Genealogie der III Moral 22)とさえ語っています。彼は旧約聖書が大好きだったのです。しかし、残念なことに、新約聖書を、天国への希望を語りながら人間の自然な感情を抑圧する禁欲主義の教えと誤解してしまいました。そして彼は、何よりも教会の権威が嫌いでした。そんな彼は、道徳としての「愛」ではなく、「情熱としての愛」(die Liebe als Passion Jenseits von Gut und Böse 266私訳)を何よりも高貴なものとして見ています。
そして、ニーチェとほぼ同時代の哲学者ゼーレン・キルケゴールは、当時の教会を批判しながらもイエス・キリストを熱く信じた哲学者ですが、ニーチェに通じることを次のように言っています。「牧師たる者は、もちろん、信仰者でなくてはなるまい。では信仰者とは!信仰者とはもちろん、恋する者である。いやしかし、恋するすべての者のうちで最も熱烈に恋する者でも、信仰者に比べると、その感激の点では、実はほんの青二才でしかない」(キルケゴール「死に至る病」桝田啓三郎訳、中央公論社刊、『世界の名著』40、一九六六年、五四八頁)。
このふたりはともに、道徳としてのキリスト教を批判したことで共通しています。彼らにとっての「愛」とは、道徳ではなく「情熱」だったのです。ところが皮肉にも、現代の人々が旧約聖書を読みながら何よりもつまずきを覚えるのは、現代の道徳観念に反することが記されていると思えるからです。しかし、それは聖書がこの世の道徳を越えているというしるしでもあります。どの宗教にも共通するような「道徳」、それは人間の頭で思い浮かべることができる常識です。しかし、「なすべき良いことがわかっていながら、それができない……」というのが人間の現実ではないでしょうか(ローマ七・一八参照)。聖書には、私たちを背後から突き動かす、神の燃えるような愛が記されています。その愛に動かされている者は、結果的に、この世の道徳が求める以上の愛を実践することができることでしょう。愛は愛によってしか生まれません。そして、福音こそは、私たちの中に、自分の利害を超えて神と人とを愛する力を生み出すことができます。
なお、この書は、私が牧師として奉仕させていただいている立川福音自由教会の礼拝メッセージの原稿として用意したものを加筆、修正したものです。当教会では聖書を全体として理解することを大切にし、「木を見て森を見ず」の信仰にならないように、ひとりひとりが聖書の中に自分の人生の物語を発見できるようになることを目標に、速いペースで聖書を読み進んでいます。
先の『主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って……-聖書の基礎(モーセ五書)の解説-』に関しましても、これだけの広い範囲を一冊の本にまとめたことが画期的であるとの評価を何人もの専門家の先生からいただいております。残念ながら、聖書を通読するに当たり、ことばの意味から時代背景、新約との関係、現代への適用までも含めた手軽で安価な解説書は日本では見当たらないように思われます。聖書通読の際の参考書としてお用いいただけますなら望外の幸いです。なお、当教会では新改訳聖書第三版を用いており、基本的に引用聖句はそれに基づいております。

当時の歴史と地理をより分かりやすくするためのオリジナルな年表と地図を巻末に三つ折でつけさせていただきました。地図では標高差が分かるようにしたり、年表では王の特徴をひとことで表現するなど、様々な工夫がなされておりますので、この書を読む際にお役に立てていただければ幸いです。


心を生かす祈り 二十の詩篇の私訳交読文と解説

詩篇における祈りの本質を鮮やかに浮かび上がらせるヘブル語のリズムを生かした私訳と精緻な解説が詩篇における祈りの本質を現代に鮮やかに浮かび上がらせる。『主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って…』に続く旧約講解第2弾。ドイツ・コラールの翻訳と現代のオリジナル2曲付き。
発行:いのちのことば社
定価:2095円+税
368ページ

こちらからオンラインでもお読みになれます。

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「心を生かす祈りー二十の詩篇の私訳交読文と解説  付録 ドイツコラールの翻訳」
が、ついに出版されました。
帯のことばは以下のようになっています。
「息が詰まるような時、主の御前で呼吸を助けるため、主の息吹によって記された祈りー詩篇」
ヘブル語のリズムを生かした私訳と精緻な解説が詩篇における祈りの本質を現代に鮮やかに浮かび上がらせる。
「主があなたがたを恋い慕って……」に続く、旧約講解第二弾
発売 いのちのことば社 定価 2095円+税
帯の後ろには以下のように記されています。
詩篇を用いて、「心を御前に注ぎだす」ことができるなら、不思議に、「心が生き返る」という癒しが生まれます。
今まで18年間にわたって、詩篇を交読形式でリズムを生かして翻訳することに心を傾けてきました。詩篇19編や23編139編のような有名どころはもちろんですが、特に詩篇22編、55編、69編など、うめきの詩篇を数多く入れています。詩篇の祈りを通して、不思議ないやしが起こるということを何度も体験させていただきました。それをまとめたものです。翻訳の注、詳しい原文からの解説、私自身の体験など読みやすくなっています。
またドイツコラールも今回は有名なものを十、長いものでは15番もの歌詞を全部歌えるように訳しています。すべて、当教会で何度も歌ってきているものです。

なお、昨年の「主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って……」(モーセ五書の解説)は、千冊作りましたが、在庫が少なくなったため、再版しました。
幸い、いくつもの教会や神学校からまとめてご注文いただくことができたためです。
今回の本も、売上金は全額、当教会の会堂基金とさせていただきます。
主なキリスト教書店でお求めいただけますので、ぜひ書店でお買い求めください。もし、書店でお求めになれない場合は、ご遠慮なくお知らせください。

「はじめに」より

 人はだれも、「息が詰まる」ような閉塞感を味わうことがあります。そのとき、天地万物の創造主の御前での呼吸を助けるのが詩篇の祈りです。人は苦しむとき、多くの場合、たましいのうめきをことばにすることができません。しかし、詩篇はそのうめきを神への祈りのことばとしてくれます。そして、詩篇を用いて、「心をに注ぎ出す」ことができるなら、不思議に、「心が生き返る」という癒しが生まれます。なぜなら、神に向かって息を吐き出すことができるなら、神の息である聖霊が人の心を満たすことができるからです。
私は神学校時代の終わり頃から、カウンセリングの学びに興味を持ち、またこの十八年間あまり、多くの方々の相談に乗らせていただきました。最初は、心理療法の技術を身につけようなどと思ったことがありましたが、精神科医の工藤信夫先生は、「牧師として召されているのなら、心理カウンセラーの真似などはしないほうが良い。相談者もあなたが牧師であることを知って来られるのだから……」と言ってたしなめてくださいました。それ以来、十五年あまりにわたり折に触れ、先生からいろいろなケースに関して貴重な助言をいただくことができました。先生は私に、そのたびに、「心の病の枠にはめないで、その人の心の痛みを聞くこと、解決を提示するのではなく、心に寄り添うこと」を教えてくださいました。そして、「うまくゆくときには、自分の相撲をとっているものです」と言ってくださいました。
そのような歩みから、「自分の相撲」を振り返ってみると、やはり詩篇の祈りに行き着くことに気づきました。牧師に与えられている責任は、何よりも、人が神の御前に祈る者となるように導くことだと思われます。そして、相談を終えるたびに、その人に合った詩篇の解説のコピーをお渡ししていました。それを本にしたいと願ったのが、本書の背景です。昨年、『主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って-聖書の基礎(モーセ五書)の解説-』を出版させていただきましたが、本当は、この詩篇とセットに出したいと思っていました。ただ分量が膨らんできましたので、このように年を置かしていただくことになりました。

私は小さい頃から、人の目を過剰に意識しながら生きてきたような気がします。しかし、同時に、そのような自分をひどく恥じてもいました。ですから、たとえば、「人の言うことなんかいちいち気にしないで、自分の思う通りに生きたらいいんだよ」と励ましをいただくと、そのような生き方ができる人に憧れを感じました。しかし、一方で、そのように言われると、人の目を気にする自分が軽蔑されたような気になってかえって落ち込むということもありました。私が二十歳過ぎに、米国留学中にイエスを救い主として信じたいと願うようになった動機のひとつに、そのような自分を変えたかったという思いもあったのかもしれません。
しかし、その後、自分が変わったかというと、かえって問題が複雑になったような面もあります。なぜなら、たとえば、「神様だけを見上げて、神の御前に恥じない生き方ができれば、人に何と言われようと構わないんだよ……」などと、自分で自分に言い聞かせようとする中で、かえって、人の評価に一喜一憂する自分の感じ方に向かって、「おまえの信仰は本物ではない!」などと責める声が心の中に聞こえるようになったからです。しかも、自分を責める思いは他の人に強がりとなって表れました。神学校時代など、神学議論で人をやり込めるのに生き甲斐を感じていたほどです。
今振り返って思うのは、私の中にはいつも、「そのように感じてはいけない!」という声が聞こえ続けていたような気がします。しかし、自分の感じ方自体が否定されると、生きる力まで抑圧されるのではないでしょうか。それは、人を無気力に追いやるか、また人との空しい競争に駆り立てます。そして、ますます、神がこの私に望んでおられることに心の耳を開く余裕がなくなります。
そのような空回りの中で、私は詩篇の祈りに出会いました。そこには赤裸々な感情が神への祈りとして記されていました。それを通して、私は自分の傷ついた感情を優しく受け入れ、それを神への祈りとすることを学ぶことができました。たとえば、私が深い孤独感を味わったとき、「私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません」(詩篇六九・二〇新改訳)という祈りに出会って、深い慰めを受けると同時に何とも言えず心が楽になりました。なぜなら、そのときの私はまさに、同情者を待ち望んでいたからです。ただ、同時に、同情者を待ち望む自分を恥じていたために、その傷ついた感情は抑圧され、心の中で空回りを起こしていました。私は心の中で必死に、自己弁護を繰り返し、「私がこのことで怒っているのは当然だ。悪いのは僕ではなく、彼らなのだから……」と自問自答していました。しかし、不思議に、同情者を待ち望む自分の気持ちが神によって受け入れられていると思えたとき、人を責める思いまでもが徐々に静まってきました。
私は、詩篇の祈りを通して、自分の感性に自信を持つことができるようになった気がします。すると、生きていることが、楽しくなってきました。しかも、世のしがらみから自由になって、神から与えられた私固有の使命を果たしたいという気持ちが生まれてきました。ヘブル語も詩の才能も乏しい自分がこのような本を出版しようという気になったのもその表れかもしれません。しかし、これは牧師としての働きについて十八年間思いをあたため、試行錯誤を繰り返してきたことでもあります。そして、その気持ちがますます熱くなること自体の中に、神の導きを感じております。


主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って……

聖書の基礎(モーセ五書)の解説(一書が約十回ずつで終わる通読ガイド)
聖書の最初の五つの書は、聖書全体の基礎、土台と言える部分ですが、現代に生きる人々にはなかなか理解しかねる表現に満ちています。しかし、たとえば多くの人になじみ深いイエス様の「山上の説教」にしても、また多くのたとえ話にしても、また十字架の意味にしても、この最初の五つの書を読み飛ばしては本当の意味を理解することはできないのではないでしょうか。
B6版 446ページ
発行:いのちのことば社
定価:2191円+税

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創世記の天地創造や堕落の意味、出エジプト記の幕屋建設、レビ記のいけにえや民数記の数字の繰り返し、申命記にある様々な生活規定やさばきなど、現代人には理解しにくい記事の意味を、簡潔に解説させていただきました。今まで、モーセ五書全体を網羅した素人にも分るような解説はなかったように思います。最近の聖書解釈や翻訳の問題などもさりげなく述べさせていただいております。この書があれば、理解しにくい様々な記事の要点を大枠でとらえることができ、イエス・キリストの福音を、聖書全体から理解していただけると期待しております。

カンバーランド長老キリスト・高座教会を四十年近く牧会された生島陸伸先生から、以下のような推薦のことばをいただきました。
「この本は、聖書に書かれている内容を正確に把握し、理解し易いように解説しています……
旧約聖書の解説書は、原本が古いだけに、難しい本になりがちです。この本は人生の途中から聖書の真理にふれてとまどったことのある著者が、分り易いように書かれていますので、読みやすく、納得できる解説になっています……
この本は解説書でありながら、そのまま信仰を育てるメッセージが含まれています。多分、個人のディボーションにも、祈りの小グループでの聖書の学びのときにも、この本が利用できると思います……モーセ五書は、旧約聖書の初めの箇所ですが、それでもキリストの福音から目をそらさずに指し示しながら、その箇所がもっている独自性を十分に解説している本だと思います……」

以下は、高橋牧師が前書きに書いたものの抜粋です
「現在の私にとって大切と思われる聖書の核心とは、「神は唯一の創造主である」ことと、「神の選び」です。
それでこの書のタイトルは「主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って……」(申命記7:7)とさせていただきました。
「全宇宙の創造主が、このひとりの私に目を留め、私を恋い慕って、ご自身のみことばを啓示してくださった……」、その創造主の語りかけを心の奥底で味わうことからすべてが始まるということです。