心を生かす祈り
20の詩篇の私訳交読文と解説

心を生かす祈り

ヘブル語のリズムを生かした私訳と、著者の体験を交えた平易な解説。詩篇のみことばを味わい、そこに秘められた祈りの極意を説き明かしながら、神との親しい交わりへと導く信仰書。ドイツ・コラールの翻訳と現代のオリジナル2曲付き。

発売日:2010年920日
発行:いのちのことば社
ISBN:978-4-264-02888-8
定価:2,398円(税込)

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「はじめに」

人はだれも、「息が詰まる」ような閉塞感を味わうことがあります。そのとき、天地万物の創造主の御前での呼吸を助けるのが詩篇の祈りです。人は苦しむとき、多くの場合、たましいのうめきをことばにすることができません。しかし、詩篇はそのうめきを神への祈りのことばとしてくれます。そして、詩篇を用いて、「心を御前に注ぎ出す」ことができるなら、不思議に、「心が生き返る」という癒しが生まれます。なぜなら、神に向かって息を吐き出すことができるなら、神の息である聖霊が人の心を満たすことができるからです。

私は神学校時代の終わり頃から、カウンセリングの学びに興味を持ち、またこの十八年間あまり、多くの方々の相談に乗らせていただきました。最初は、心理療法の技術を身につけようなどと思ったことがありましたが、精神科医の工藤信夫先生は、「牧師として召されているのなら、心理カウンセラーの真似などはしないほうが良い。相談者もあなたが牧師であることを知って来られるのだから……」と言ってたしなめてくださいました。それ以来、十五年あまりにわたり折に触れ、先生からいろいろなケースに関して貴重な助言をいただくことができました。先生は私に、そのたびに、「心の病の枠にはめないで、その人の心の痛みを聞くこと、解決を提示するのではなく、心に寄り添うこと」を教えてくださいました。そして、「うまくゆくときには、自分の相撲をとっているものです」と言ってくださいました。

そのような歩みから、「自分の相撲」を振り返ってみると、やはり詩篇の祈りに行き着くことに気づきました。牧師に与えられている責任は、何よりも、人が神の御前に祈る者となるように導くことだと思われます。そして、相談を終えるたびに、その人に合った詩篇の解説のコピーをお渡ししていました。それを本にしたいと願ったのが、本書の背景です。昨年、『主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って-聖書の基礎(モーセ五書)の解説-』を出版させていただきましたが、本当は、この詩篇とセットに出したいと思っていました。ただ分量が膨らんできましたので、このように年を置かしていただくことになりました。

私は小さい頃から、人の目を過剰に意識しながら生きてきたような気がします。しかし、同時に、そのような自分をひどく恥じてもいました。ですから、たとえば、「人の言うことなんかいちいち気にしないで、自分の思う通りに生きたらいいんだよ」と励ましをいただくと、そのような生き方ができる人に憧れを感じました。しかし、一方で、そのように言われると、人の目を気にする自分が軽蔑されたような気になってかえって落ち込むということもありました。私が二十歳過ぎに、米国留学中にイエスを救い主として信じたいと願うようになった動機のひとつに、そのような自分を変えたかったという思いもあったのかもしれません。

しかし、その後、自分が変わったかというと、かえって問題が複雑になったような面もあります。なぜなら、たとえば、「神様だけを見上げて、神の御前に恥じない生き方ができれば、人に何と言われようと構わないんだよ……」などと、自分で自分に言い聞かせようとする中で、かえって、人の評価に一喜一憂する自分の感じ方に向かって、「おまえの信仰は本物ではない!」などと責める声が心の中に聞こえるようになったからです。しかも、自分を責める思いは他の人に強がりとなって表れました。神学校時代など、神学議論で人をやり込めるのに生き甲斐を感じていたほどです。

今振り返って思うのは、私の中にはいつも、「そのように感じてはいけない!」という声が聞こえ続けていたような気がします。しかし、自分の感じ方自体が否定されると、生きる力まで抑圧されるのではないでしょうか。それは、人を無気力に追いやるか、また人との空しい競争に駆り立てます。そして、ますます、神がこの私に望んでおられることに心の耳を開く余裕がなくなります。

そのような空回りの中で、私は詩篇の祈りに出会いました。そこには赤裸々な感情が神への祈りとして記されていました。それを通して、私は自分の傷ついた感情を優しく受け入れ、それを神への祈りとすることを学ぶことができました。たとえば、私が深い孤独感を味わったとき、「私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません」(詩篇六九・二〇新改訳)という祈りに出会って、深い慰めを受けると同時に何とも言えず心が楽になりました。なぜなら、そのときの私はまさに、同情者を待ち望んでいたからです。ただ、同時に、同情者を待ち望む自分を恥じていたために、その傷ついた感情は抑圧され、心の中で空回りを起こしていました。私は心の中で必死に、自己弁護を繰り返し、「私がこのことで怒っているのは当然だ。悪いのは僕ではなく、彼らなのだから……」と自問自答していました。しかし、不思議に、同情者を待ち望む自分の気持ちが神によって受け入れられていると思えたとき、人を責める思いまでもが徐々に静まってきました。

私は、詩篇の祈りを通して、自分の感性に自信を持つことができるようになった気がします。すると、生きていることが、楽しくなってきました。しかも、世のしがらみから自由になって、神から与えられた私固有の使命を果たしたいという気持ちが生まれてきました。ヘブル語も詩の才能も乏しい自分がこのような本を出版しようという気になったのもその表れかもしれません。しかし、これは牧師としての働きについて十八年間思いをあたため、試行錯誤を繰り返してきたことでもあります。そして、その気持ちがますます熱くなること自体の中に、神の導きを感じております。