「イエスは私の喜び」解説

主イエスこそが、「私の愛する……美しく慕わしい方」です。そのように言えるのは、私がすでに主のものとされ、主から「恋い慕われて」いるからです。ただ、私はこの地にあっては、様々な試練の中で、主とまみえるそのときを憧れながら生きるしかありません。しかし、それでも私は世の何ものにもまさって主イエスを愛しています。そこにこそ私の喜びがあります。
 主のものとされている私は、もう決して「罪に定められることはありません」。私はもう自分の肉の力ではなく、イエスをたたえながら歩んでいます。それこそ、御霊によって歩むことだからです(注八・一bのみことばは昔の写本にあったことば)。悪魔は私の罪深さを訴えながら、私の救いを否定しようとしていますが、イエスを呼び求める私には何の心配もありません。
 古いアダムに縛られていたとき、聖なる律法(トーラー、御教え)は私に罪と死をもたらしました。しかし、今は、御霊を受け、その同じ律法が私を生かす愛の教えとなっています(注:新改訳で「原理」、新共同訳で「法則」と訳していることばは原文では「律法」と記されている)。
 「イエスを私の主」と告白する私は既に、「御霊の中」にいます。悪しき力が迫ってきても、私はおびえる必要はありません。全能の神の御霊が私をとらえ、キリストのものとしてくださったからです。しかも、死に行く肉のからだの欲求を満たす必要はありません。私の中には、イエスを死者の中からよみがえらせた神の御霊が宿っておられるからです。このからだのうちには、今、復活のいのちが始まっています。「喜びの主」であるイエスこそが、最終的な勝利の保証です。


次へ目次前へ