私たちの人生にはストレスの種が満ちています。しかし、たとえばナチスの強制収容所という想像を絶するストレスを体験したユダヤ人女性の29%が、更年期になっても何の情緒的な障害にも陥らず健康を保ち続けたという統計があります(普通の女性では51%が更年期でも健康を保つ)。つまり、激しいストレスが病気を生み出さない確率も極めて高いというのです。
多くの人は、ストレスの種を避けることやストレスを発散することへと心の目を向けますが、最近の研究では、ストレスに対するレジリエンス(弾力性、回復力、復元力等)を高めることに目が向けられてきています。しかも、感受性の豊かな人は確かにストレスに弱いのかもしれませんが、鈍感な人は無意識のうちに周りの人々を苦しめてしまいます。
ですから、ストレスの種を減らすことを目指すのではなく、ストレスに対する向き合い方に目を向ける必要があります。
最近の研究によると、ストレスの中でも心と体を守ることができる対応力は、その人が、自分の人生を基本的にどのようなものとして見ているかによって決まると言われます。その点からすると、創造主との自由な交わりのうちに生きられる人は、すばらしい特権を持っています。
人には明日のことはわかりませんが、私は明日を支配する神を知っています。私がどんなに弱くても、私の神には不可能がありません。「何で私ばかりがこんなひどい目に……」と思うようなことがあったとしても、私の神は、それらすべてを益に変えることができます。
目の前からは、ストレスの種になることは尽きることがありませんが、そのような中でこそ、神の不思議なみわざを発見し、感動することができます。
聖書には、天国への憧れというよりは、私たちの人生のゴールが記されています。それが祝福に満ちているということを確信できる者には、人生の様々なストレスの中でも、「あなたの平安は川のようになる」という約束の真実を味わうことができましょう。
1.「もし、あなたがわたしの命令に耳を傾けさえするならば……」
神はイスラエルの背きの罪に対して激しい苦難を与え、エルサレム神殿を廃墟にし、民を捕囚としましたが、それは彼らを反省させ、神に立ち返らせるためでした。
しかし、それは、「イスラエルの神は、自分の民を守ることができない……」と誤解される可能性も秘めていました。それに対して主 (ヤハウェ) は、「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ (I am He)。わたしは、初めであり、また、わたしは、終わりである」(48:12) と言われます。
これは、43章10節、44章6節を合わせたことばで、主 (ヤハウェ) こそが歴史の支配者であることを改めて強調する表現です。
そればかりか、主は「まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を延べ広げた。わたしが呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる」(48:13) と、ご自身こそがこの世界を自由に動かすことのできると強調します。
私たちはこの目に見える世界が、神のひとことの呼びかけで簡単に動くということをどれだけわきまえているでしょうか。
その上で主 (ヤハウェ) は、「みな共に集まり、そして、聞け。だれがこれらの事を告げたのか」(48:14) と言いながら、ご自身の奇想天外な救いのみわざを語られます。
それは、「主 (ヤハウェ) は彼を愛された。彼が主のみこころをバビロンに行う。主の御腕はカルデヤ人に向かう」(48:14) というものです。原文では「彼」としか記されませんが、それは44章28節、45章1節に記されたペルシア王キュロスであることは、文脈から明らかです。
そして主は、「わたしが、このわたしが、語り、そして彼を呼んだのだ。彼をわたしが来させた。彼はその道で成功を収める」(48:15) と、主ご自身がキュロスに勝利を与えると言われます。
さらに主 (ヤハウェ) は、「わたしに近づいて、これを聞け。初めから、隠れた所で語ってはいない。それが起こった時から、わたしはそこにいた」(48:16) と、キュロスの勝利は、神がご自分のみわざを預言したことの成就であると言われます。
イザヤはかつて、「まことに、あなたはご自身を隠す神」と告白していましたが (45:15)、ここでは「今、主、ヤハウェは私と御霊を遣わされた」(48:16) と敢えて、これが「ご自身を隠す神」による特別な啓示であることを強調しています。
「私」とは文脈上では、この啓示を語っているイザヤ自身を指すと考えられ、また「主 (ヤハウェ) のしもべ」(42:1) を指すとも考えらえます。これをイエスに当てはめると、父なる神が御子と御霊を遣わされたという三位一体の神秘を表しているとも解釈できます。
48章17節は、「主 (ヤハウェ) はこう言われる──あなたを贖う、イスラエルの聖なる方──」という表現から始まり、語られた内容の最初が、「わたしは主 (ヤハウェ) 、あなたの神」と記されます。
これは「十のことば」(十戒)の初めのことばと同じで (出エジプト20:2)、天地万物の創造主があなたにとってのパーソナルな神となってくださったことを意味します。
続く、「あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道に導く」とは、地上的な右か左の選択ではなく、日々の生活において何を優先するかという導きを意味します。
そして18節の初めの条件文の、「もし、あなたがわたしの命令に耳を傾けさえするならば……」(48:18) とは、何かの具体的な義務というより、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい」(申命記6:5) という心の方向であり、それは自分を窮屈にすることではなく、それぞれの自由にゆだねられた極めて創造的な、いのちの喜びが満ち溢れるような生き方です。
そのように生きていたはずのときの祝福の生活が、「あなたの平安 (シャローム) は川のように、あなたの正義は海の波のようになったであろうに……」と記されます。「平安 (シャローム)」とは、繁栄とか「しあわせ」とも訳すことができ、すべての必要が満たされている完全な状態を指します。
また、「正義は海の波のようになったであろうに」とは、誰にも屈する必要のない力を現わします。主はかつて、「義(正義)が作り出すものは平和 (シャローム)」(32:17) と言っておられましたが、正義と平安は切り離せない関係にあり、エデンの園の調和の回復を示唆しています。
さらにその祝福が、「あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は真砂のようになったであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもなかったであろうに」(48:19) と描かれます。
これは、神が一人子のイサクを惜しまなかったアブラハムに、「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世33:17、18) と記されていたことを思い起こさせる表現です。
とにかく、聖書が語る「祝福」とは、極めて現実的なことを意味します。
48章20節での「バビロンから出よ。カルデヤから逃れよ。喜びの声をあげて、これを告げ、聞かせよ。地の果てにまで響き渡らせて、言え。『主 (ヤハウェ) が、そのしもべヤコブを贖われた』と」という訴えは、神がキュロスを通してイスラエルをバビロン帝国のくびきから解放することに、喜びをもって応答するようにとの勧めです。
聖書が示す第一の救いは出エジプトですが、バビロン帝国からの解放は第二の出エジプトとも言われます。第一の「出エジプト」の際は、モーセに率いられて全民族で約束の地に向かいましたが、この「出バビロン」の際は、自主的な判断に任されていました。
「住めば都」と言われるように、彼らはバビロンで生活の基盤を作っていたばかりか、ペルシア帝国による少数民族保護政策によって自由が保障されていました。そこはアブラハムの出身地ウルに極めて近い所です。主は、アブラハムに語りかけたように、イスラエルの残りの民に向かって、心地よい住まいを離れ、約束の地に向かうように勧めたのです。
そして第一の出エジプトのことが「彼らは渇くことがなかった、主が荒野を通らせたときも。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた」(48:21) と思い起こされ、その時と同じように今度も、神は約束の地への旅を祝福すると保障されます。
これは従ってみて初めて体験できる「祝福」です。
最後に「『悪者には平安 (シャローム) がない』と主 (ヤハウェ) は仰せられる」(48:22) と記されますが、これは先の「あなたの平安は川のようになったであろうに」(48:18) との対比表現です。これは48章全体のまとめとも言えます。私たちは主の友と呼ばれたアブラハムの原点に立ち返るように召されています。
2.「私は主 (ヤハウェ) の目に重んじられ、私の神は私の力となられた」
49章1–13節は42章1–9節に続く第二の「主 (ヤハウェ) のしもべの歌」です。これはキリスト預言として読むことができますが、同時にイザヤをはじめ主の働きに召されたすべての「主のしもべ」に適用できます。
この書き出しは、原文で「聞きなさい、島々よ、私に。耳を傾けなさい、遠い国々の民よ」と記されます。全世界に向かって、「私に聞け……」という書き出しは極めて異例です。
その根拠としての主の一方的な選びが、「主 (ヤハウェ) は、胎内にいるときから私を呼び、母の中にいる時から私の名を覚えておられた」(49:1) と描かれます。
さらに、選びは常に使命と結びつくことが、「主は私の口を鋭い剣のようにして御手の陰にかくまい、私を研ぎ澄まされた矢として矢筒の中に隠された」(49:2) と描かれます。彼は、世の人々が聞きたがらない鋭いことばを預けられますが、いつでも必要に応じて語ることができるように、主の武具として待機しているというのです。
そして主はこの人をイスラエルの代表と見た上で、「あなたはわたしのしもべ」と呼びかけ、「イスラエルよ、あなたのうちにわたしの栄光を現す」(49:3) と語りかけます (44:23参照)。
しかし彼は、「私は無駄な骨折りをして、不毛(いたずら)に、空しく力を使い果たした」(49:4) と、自分の気持ちを表現します。それは、人々が自分の話に耳を傾けないどころか、不当な仕打ちで応答してくるからです。これはイエスご自身が体験された葛藤です。
ただその直後、「それでも、私のさばき(訴え)は、主 (ヤハウェ) とともにあり、報酬は私の神とともにある」と、主への信頼を告白します。主に向かって正直な気持ちを告白した直後、主への信頼のことばが発せられるというのは詩篇の祈りの基本的なパターンです。
49章5節は「今、主 (ヤハウェ) は言われる──この方は、私を胎内にいる時にご自分のしもべとして造られた、ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに帰らせるために」と記されています。
「主 (ヤハウェ) のしもべ」である「私」は、主 (ヤハウェ) の使命を果たすために「造られた」のですが、その働きは主の民ヤコブまたはイスラエルを「ご自分のもとに帰らせ……ご自分のもとに集める」ことにあると明らかにされます。
それは、キュロスの働きが彼らをバビロンから解放することにあったのに対し、主のしもべの働きは彼らを主 (ヤハウェ) のもとに立ち返らせるという真の信仰の回復にあるというのです。
そしてその働きを全うすることができるのは、「私は主 (ヤハウェ) の目に重んじられ、私の神は私の力となられた」からと説明されます。
これは私たちが周りの人々を主のもとに立ち返らせる働きに通じます。なぜなら、この表現は「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」(43:4) という語りかけと基本は同じだからです。
6節は「主は言われる」から始まり、主のしもべの使命がまず、「これは小さなことに過ぎない、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルの残されている者たちを帰らせることは」と述べられます。これはモーセの働きに匹敵しますが、主のしもべは、それよりはるかに大きな働きをするというのです。
そのことが、「わたしはあなたを国々の光とし、地の果てまでのわたしの救いとしよう」と言われます。それは世界全体を主 (ヤハウェ) のもとに立ち返らせることを意味します。
イエスご自身が、「ここにわたしの使命が記されている……」と確信して十字架への道を歩まれたと言えましょう。イスラエルの民は、「世界の光」として召されながら、それに失敗しました。
それで主は、ひとりの「しもべ」を立たせ、彼をイスラエルの代表者とし、彼のうちにご自身の「栄光」を現したばかりか (3節)、彼によってイスラエルの残りの民をご自身のもとに回復し、そして、彼を用いて、世界をご自身のもとに回復させるというのです。
この第二の「主のしもべの歌」は、その最初と最後に世界のことが記され、このしもべをイスラエルの代表者としている点で、これほど力強いキリスト預言はありません。
私たちはイエスが、イスラエルの王であるとともに世界全体の救い主であることを告白していますが、そのことがここに記されています。そして、この「主 (ヤハウェ) のしもべ」は、キリストの弟子である私たちすべてにも適用できます。
イエスは復活の後、弟子たちに現れ、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われながら、「聖霊を受けなさい」と、聖霊を授けてくださったからです (ヨハネ20:21、22)。
3. 「地を復興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせる」
49章7節は原文で、「主 (ヤハウェ) はこう言われる──イスラエルを贖う方、その聖なる方が、人に蔑まれている者(たましい)、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かって──」として紹介されます。
語りかけられた「者」は単数形ですから、「主 (ヤハウェ) のしもべ」、つまり、預言された救い主の姿に他なりません。
それは後に、「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」(53:3) と描かれる「主 (ヤハウェ) のしもべ」の姿です。そしてイエスご自身も、取税人、罪人、遊女の仲間と呼ばれました。
ただその直後に語られた内容が、「王たちは見て立ち上がり(尊敬の起立)、首長たちもひれ伏す。それは、真実なる主 (ヤハウェ) のゆえであり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだから」と記されます。
これは、人々から蔑まれ、忌みきらわれている「主 (ヤハウェ) のしもべ」が、主 (ヤハウェ) の真実によってこの地の王たちを従える者とされるという意味です。イエスは今、「王たちの王、主たちの主」(黙示19:16) と呼ばれます。
49章8節も「主 (ヤハウェ) はこう言われる」から始まり、その内容が「恵みの時に、あなたに答え、救いの日にあなたを助ける。あなたを見守り、民の契約とし、地を復興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせる」という約束です。
イエス・キリストは「民の契約」として十字架にかかり、神と民との関係を真の意味で回復してくださいました。そして主 (ヤハウェ) がかつてダビデのもとにイスラエルの民をまとめたように、主ご自身がこの「主 (ヤハウェ) のしもべ」のもとに、「地の復興」「荒れ果てたゆずりの地の所有」という回復を実現します。
ただ同時に「捕らわれ人には『出よ』と言い、やみの中にいる者に『姿を現せ』と言う」(49:9) と描かれます。これは主 (ヤハウェ) が、「捕らわれ人の解放」「やみの中にいる者の回復」という救いをも実現するという意味です。
これらは、レビ記25章に記されているヨベルの年、五十年毎のすべての神の民に対する解放の宣言に相当します。この年に、土地は休耕されて地の復興が計られ、すべての民が主から与えられた所有地に戻り、奴隷は解放され、姿を隠していた人が借金を免除され人々の前に現れることができました。
今も、多くの人々は、親から受け継いだ様々な負の遺産を受け継いで、様々なハンディを背負いながら、世界一律の市場競争に駆り立てられています。そこでは、豊かな人はますます豊かに、貧しい人はますます貧しくなります。人間は決して平等ではありません。
しかし、そのような現実の中で、ヨベルの年の教えは、五十年ごとに、人々を、主が最初に与えてくださった土地の分配という原点に立ち返らせてくれるものでした。戦後の日本の経済成長の影に、マッカーサー元帥の強力な指導による農地解放、財閥解体がありました。小作人はただ同然で農地を所有することができ、中小企業も財閥の金融支配から解放されることができました。これはヨベルの年の精神を復興に生かした世界的に稀有な例でした。
マタイ6章12節での主の祈りでは、「私たちの負い目をお赦しください」と祈るように教えられています (ルカ11:5では「罪」)。それはイエスが与える罪の赦しとは、あらゆる負債の免除を告げるこのヨベルの年が背景にあるからです。
十字架の贖いによって、神の前での「負い目」がすべて取り消され、神が一人ひとりをご自身の子として、神の国の富を保障してくださいました。そこに過去の束縛から解放されたすべての再出発の可能性が開かれています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、そこには新しい創造があります。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17) という福音を味わってみましょう。
49章9c~12節には、「主 (ヤハウェ) のしもべ」が治める新しい神の国に向かって世界中から集められる様子が描かれます。そのとき民は、敵を恐れることもなく家畜を放牧しながら、裸の丘すべてが牧場となるのを見ながら、飢えることも渇くこともなく熱射病になることもなく約束に地に向かいます。
それは「彼らをあわれむ者」である主 (ヤハウェ) ご自身が、「彼らを導き、水のわく所に連れて行く」からです (49:10)。しかも、その際、民の帰還を阻む「山々」も「道とされ」ます。
12節には、神の民が東、北、西、南から集められる様子が描かれています。私たちもこの「地上では旅人であり、寄留者であることを告白」(ヘブル11:13) せざるを得ませんが、主がともにいてくださるので、困難も成長の糧、祝福の源とされます。
たとえばグランド・キャニオンは、水のない渇いた荒野ではありますが、人々はその美しさに感動することができます。私たちの人生の旅路も、不安の連続と取るのか、刺激に満ちた冒険の連続と取るのか、それが問われています。
49章13節の「天よ。喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主 (ヤハウェ) がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ」という呼びかけは、イスラエルの救いを前提にして、全被造物が主を賛美する様子を描いたものです。
神の救いは、決して、人間だけに対しての福音ではありません。あらゆる動物も植物も、全被造物が神の救いを喜ぶようになるというのです。
「あなたの平安 (シャローム) は川のようになったであろうに」とは、私たちに反省を促す言葉です。しかし、私たちが神の前に正しく生きても、この世には正直者が馬鹿を見る、弱肉強食の現実があります。
そこでふと、「むだな骨折りをして、不毛に、むなしく力を使い果たした」と思うかもしれませんが、それはイエスご自身が既に味わった歩みです。神はそれを通して新しい祝福の世界を開いてくださいました。
あなたの苦しみにも同じような意味があります。神はあなたの労苦を無駄にはなさいません。神はそれを、この世界を完成に導くための一里塚にしてくださいます。天と地の歓喜の世界に私たちは招かれています。