目の前の問題に圧倒されていたとき見えなかったことが、ふとしたことで解決が見えたというようなことがないでしょうか。熱くなりすぎたり、力づくになってしまうことは、かえって問題を複雑化させてしまいがちです。
平安の祈りに、「一日一日を生き、今、このときを楽しみながら、困難を平和への道として受け入れさせてください」という祈りがあります。困難の背後に、またその中に、神がおられます。すべては神との交わりを豊かにする契機になります。
「主 (ヤハウェ) の前に静まる中に生まれる力」を覚えたいと思います。
1.「反逆の民、噓つきの子ら、主 (ヤハウェ) の教え (トーラー) を聞こうとしない子ら」
主 (ヤハウェ) は、「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える……これを信じる者は、あわてることがない」(28:16) と言われました。これは、エルサレムの防衛の鍵は、人間的な解決策ではなく、主 (ヤハウェ) の変わることのない約束に立ち返ることにあるという意味でした。
また29章15節では、「わざわいだ(ああ)。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち」と言われましたが、これは心の底で主 (ヤハウェ) のご支配の現実を否定している見せかけの信仰者たちのことです。彼らは「陶器師」である神を「粘土と同じように見なし」(29:16)、神のみわざを自分の基準で批判していました。
陶器師であられる主は、苦しみを通してイスラエルを練り直します。それは主ご自身が神の民のこころを内側から造り変えるためでした。
そのような中で、30章1節では、「わざわいだ(ああ)。頑なな(反逆の)子ら」と記され、その理由が「彼ら(エルサレムの指導者たち)は、はかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ」と記されます。
ここでは「はかりごとをめぐらす」(29:15参照) ことや「同盟を結ぶ」こと自体が「罪」なのではなく、「ヤコブの聖なる者を聖として、イスラエルの神を恐れる」という神との交わりを忘れ (29:23)、人間的な知恵ばかりに頼って行動する問題が指摘されます。
またここでの「罪に罪を増し加える」とは、何よりも「祈り」を忘れて行動してしまうことと言えましょう。それは当時のエルサレムの指導者たちが、主 (ヤハウェ) である「わたしの指示を仰がない」で、国際政治の常識にしたがって、北からの脅威に対しては、南のエジプトの力に頼って生き延びようとしか考えていなかったからです (30:2)。
それに対して主 (ヤハウェ) は、「ファラオの保護に頼ることはあなたがたの恥となり、エジプトの陰に身を隠すことは、恥辱となる」(30:3) と言われます。これは詩篇91篇で、「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る……主は ご自分の羽であなたをおおい あなたは その翼の下に身を避ける」(1、4節) と描かれている霊的な現実と正反対です。
そして、4節での「その首長たちがツォアンにいても」とは、エジプトの権力者がナイルデルタ北東部のカナンの近くの都市にいても、また、「その使者たちがハネスに着いても」とは、エジプトの伝統的な中心地メンフィスの南の都市にエルサレムの使者が到着したとしても「彼らはみな辱められる」(30:4、5) と記されます。
そしてエジプトのことが、「その民は……助けとならず、役にも立たない。かえって恥となり、そしりの的となる」(30:5) とまとめるように描かれます。
「ネゲブの獣についての宣告」(30:6) とは、エルサレムからエジプトに遣わされた使者たちを皮肉った表現です。彼らは、エルサレムの南に広がるネゲブの荒野からペリシテ人の住む海沿いの地を経てエジプトに下りましたが、そこは比喩的にライオンや毒蛇がいるかのような危険な通路と見られていました。
そこを彼らは多くの貢物を運んでゆきましたが、そこで「エジプトの助けは空しく、当てにならない」(30:7) と描かれます。
そして主はそれを嘲るように「何もしない(ただ座っているだけの)ラハブ」と呼ばれます。ラハブとは当時の神話の海の怪獣で、恐ろしい動物ですが、この場合はただ座っているだけの状態で、エジプトがただ大きな口を空けて貢物ばかりを求め、何の役にも立たないことを皮肉った表現です。
30章8節での、「今、行って、これを彼らの前で板に書き、書物にこれを記し、後の日のために永遠の証しとせよ」とは、1–7節の内容を書き記すようにという命令です。
そうすべき理由が、9–14節まで説明されています。そこではエルサレムの民が、「反逆の民、噓つきの子ら、主 (ヤハウェ) の教え (トーラー) を聞こうとしない子ら」と呼ばれます (9節)。
そして彼らが心の底で望んでいることを皮肉って、「彼らは見る者(予見者)には『見るな』と言い、幻を見る者(先見者)には、『われわれについて正しいことを幻で見るな。われわれに心地よいことを語り、だましごとを預言せよ。道から外れ、道筋からそれ、われわれの前からイスラエルの聖なる方を消せ』」(30:10、11) と求めていると描きます。
これはいつの時代にも起こり得ることです。聖書は人の罪や醜さを赤裸々に描きますが、多くの人々はそれを直接的に聞くよりも、耳障りの良いことばを語ってくれる教師を求めてしまいます。しかし、そこから神の民の堕落が始まるのです。
30章12節は、「それゆえ、イスラエルの聖なる方は、こう言われる」という表現から始まります。
その後は原文では、「あなたがたはこのことば(わたしの言うこと)を退けて、虐げと悪巧みにより頼み、これに頼った」と記されます。「このことば」とは、9節の「主 (ヤハウェ) の教え (トーラー)」を指すと考えられますが、ここでのトーラーとは「律法」というよりも「教え」と訳すべきでしょう。それは1章10節で「主 (ヤハウェ) のことば」が「私たちの神のみ教え (トーラー)」と言い換えられているのと同じです。
それに続けて、「それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって今にもそれを倒す裂け目のようになる」(30:13) と記されます。エルサレムが誇る「そそり立つ城壁」は、主ご自身の守りの象徴ですが、その真の基は「主 (ヤハウェ) の教え (トーラー)」にあります。
それを「退ける」ことは城壁に「裂け目」を作り、それが「陶器師の壺」が「打ち砕かれる」状態になってしまうというのです。私たちの場合も、主 (ヤハウェ) に信頼してすべてのことを祈ることができること自体が信仰の基本であるのに、それを軽んじる者は危機に対処できなくなります。
2.「立ち返って落ち着くことにおいて、あなたがたは救われる」
30章15節は、「なぜなら、イスラエルの聖なる方、主(アドナイ) ヤハウェは、こう言われるからだ」と訳すことができます。それはエルサレムの指導者に、イスラエルにとっての真の主人、その民を選んでおられる聖なる方に「立ち返る」ことの勧めです。
原文では、「立ち返って(引き返して)、落ち着く(静まる、憩う)ことにおいて、あなたがたは救われる。静かにして(落ち着いて)、信頼する(立ち返って信じる)ことがあなたがたの力(強さ)となる(力を得る)」と記されます。
これは並行法で「立ち返る」ことと「信頼する」ことが同義語、「落ち着く」ことと「静かにしている」ことが同義語と言え、その結果が「救われる」ことまた「力を得る」ことと描かれます。
これは、主 (ヤハウェ) への祈りの中で、すべての悩みを打ち明け、その後、沈黙している中で、聖霊があなたのうちに働き、そこに不思議な知恵と力が生まれることと解釈できましょう。
東西に分かれていたドイツの和解と安定を16年間導き、多くの難民受け入れに動いたアンゲラ・メルケル前首相のデスクには(In der Ruhe liegt die Kraft: 静寂の中にこそ力がある)と刻んだプレキシグラス(透明のアクリル樹脂)の立方体が置かれていました。それは牧師の娘らしい、このみことばの要約の置物とも言えましょう。
私たちも繰り返し創造主に「立ち返って落ち着く」ことによって神との交わりの回復という「救い」を体験でき、また、「静かにして、信頼する」ことによって「力(強さ)を得る」ことができます。それは当時としては、エジプトなどに信頼する代わりに、主 (ヤハウェ) に立ち返ることによって、アッシリア帝国にさえ立ち向かう「力を得る」ことができるという意味になります。
ところがここでは、「しかし、あなたがたはこれを望まなかった」と、彼らの愚かな選択が描かれます。さらにそこでの彼らの態度を皮肉を込めて、「早馬で」逃げようとしても、「あなたがたの追っ手はなお速い」と描かれます (30:16)。
そしてそこで起きることで、「力を得る」こととの正反対の臆病な逃亡の姿が、「一人の脅しによって千人が逃げ、五人の脅しによって、あなた方は逃げる」(30:17) と描かれます。しかし、ヨシュア記23章10節では、主 (ヤハウェ) にすがって生きる者の姿が、「あなたがたは一人で千人を追うことができる」と記されていました。何と対照的なことでしょう。
30章18節での「それゆえ主 (ヤハウェ) は、あなたがたに恵もうと待っておられる。またそれゆえ、あわれみを与えようと(愛するために)立ち上がられる」という表現は感動的です。英語のNIV訳では、「Yet the LORD longs to be gracious to you; therefore he will rise up to show you compassion.(さらに主は 憐み深くありたいと待ち焦がれておられる。それゆえ同情を示そうと立ち上がられる)」と訳されています。
それは、主 (ヤハウェ) ご自身の側から、イスラエルの民がご自身のもとに立ち返るのを待ち焦がれ、特別な恩恵を施したいと願っておられる姿です。
それはルカによる福音書15章20節で、放蕩息子が父の家に帰ってきたとき、その姿を遠くから見つけた父の姿が、「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」と描かれていることを思い起こさせます。
そしてその理由がここでは、「主 (ヤハウェ) は義の神であるからだ」と記されます。ここでの「義」とはヘブル語のミシュパートで多くの場合は「さばき」、または「公正」と訳されていることばです。それはここでは、罪に応じたさばきを下さざるを得ないというよりは、彼らの父祖アブラハムへの契約に誠実であり続けるという意味として解釈できます。
なお、この契約関係の成立の条件は、人と人との間の契約などのように、互いの利益のために相互に責任を果たし合うというようなものではなく、ただ、「主を待ち望む」という一点にあると言えましょう。そのことが「幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は」と記されています。
人が大きな成功をおさめられたとしても、それは私たちの功績である前に、神の恵みの結果です。ルカ18章9–14節でのたとえで自分の働きを神にアピールしたパリサイ人は退けられましたが、「神様。罪人の私をあわれんでください」と自分の胸をたたいて祈った取税人は、「義と認められて家に帰った」と記されています。
信仰の出発点は、自分のみじめさを神の御前に言い表わすことです。しばしば、不必要なプライドを捨てきれずに人の好意を無にしてしまう人がいますが、神の御前でそのような愚かな振る舞いをしてはいけません。神は、あなたに特別な恩恵を与えたいと、待ち焦がれておられるのですから。
3.「あなたの耳は聞き続ける。後ろからのことばを、『これが道だ、これに歩め』と」
30章19節では、「まことに(ああ)、シオンの民、エルサレムに住む者」という呼びかけから始まり、未来の約束として、「もうあなたは泣くことはない」と記されます。
さらにその未来での神との関係が、「あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる」と記されます。私たちの生活には「叫び声」を上げざるを得ないことが絶えませんが、神は、それに即座に答えてくださるというのです。「必ず恵みを与え」とは、「恵む」ということばを重ねた強調表現です。
また「たとえ主があなたに苦しみのパンと虐げの水」という苦難を与えられることがあったとしても、「あなたを教える方はもう隠れることなく、あなたの目はあなたを教える方を見続ける」(30:20) と約束されます。これは、私たちが既に恵みの中に置かれており、目の前から「教える方」がいなくなることはないという意味です。
さらに21節の原文の語順では、「あなたの耳は聞き続ける。後ろからのことばを、『これが道だ、これに歩め』と、あなたが右に行こうとも、左に行こうとも」と記されます。これは、歩み出す前から、悩まなくてすむように指示が与えられるのではなく、右に行こうか左に行こうかと迷いながらも、一歩踏み出す時に、「これが道だ。これに歩め」という確信を与えられるという意味です。
よく、「右と左のどちらがみこころでしょう?」という問いがありますが、それはどちらでもあなたが決める通りで良いのです。大切なのは、上におられる方と結びつきながら、祈りながら決めたあなたの決断を、主が喜んで、応援してくださるということです。
さらに、主との交わりを回復した者は、銀や金の偶像に向かって、「出て行け」と言うようになるというのです (30:22)。そのとき主は、約束の地に豊かな雨を降らせ、地の産物を「みずみずしく豊かである」ように、また「家畜の群れは、広々とした牧場で草をはむ」ように変えてくださるというのです (30:23)。
これは先の「苦しみのパンと虐げの水」(30:20) とは正反対ですが、主の祝福はすでに苦難の中から始まっていました。
なお30章25節は、「すべての高い山の上に、すべてのそびえる丘の上に水の流れる運河ができる。それは、大いなる殺戮の日、やぐらの倒れる日である」と記されます。高い山々や丘に水の流れる運河ができるとは神の救いを表しますが、それは水が不足しがちなエルサレムに豊かな水が流れるときでもあります。それはアッシリアに対するさばきと同時にユダの愚かな驕りが砕かれる日でもあります。
30章26節では、「月の光は太陽の光のようになり、太陽の光は七倍になって、七日分の光のようになる、それは主 (ヤハウェ) がその民の傷を包み、その打たれた傷を癒やされる日である」と記されます。それは月や太陽の光が大きくなることの意味が、民の傷を包み、癒やすためであるというのです。
さらに27節では、アッシリアがエルサレムを攻撃するその向こうの「遠くから」から、主がその攻撃軍を「焼き尽くす火のよう」に現れると記されます。
また28節での、「主の息(霊)」が「あふれて首に達する流れのようだ」と描かれるのは、かつてアッシリアの攻撃が「大河の水」のようにあふれ「ユダ」の「首にまで達する」と描かれていたことを思い起こさせるものです (8:8)。ここでは主がアッシリアと連合国を苦しめるのです。
そして、30章29、30節にはそれと対照的に神の民に祭りの喜びが帰ってくることが描かれています。
また、31–33節では、具体的に主ご自身がアッシリア軍と戦ってくださることが預言されています。「すでにトフェトも整えられ」とは、神の民の敵を葬る「焼き場」を指します (エレミヤ19:11参照)
4.「帰れ、あなたがたが反抗を強めているその方のもとに」
31章1節は30章1節と同じ「わざわいだ(ああ)」との表現に始まり、北からのアッシリアの攻撃に対して、南に「助けを求めてエジプトに下る者たち」へのさばきが宣告されます。彼らは「馬」や「戦車」た「騎兵」に「拠り頼み」、「イスラエルの聖なる方に目を向けず、主 (ヤハウェ) を求めない」からです。
目に見える力は人々の心を魅惑しますが、「この方こそが知恵のある方で、わざわい(悪)をもたらす。また、主はみことばを取り消さないで、立ち上がられる、悪をなす者の家と不法を行う者に対して」(30:2) と描かれます。私たちは誰よりも主を恐れる必要があるのです。
さらに3節では敢えて「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も肉であって霊ではない」と描かれます。エジプト王国は紀元前2900年頃からこの時期まで25もの異なった地域から生まれた王朝がありました。ナイル川はエチオピアや南スーダンから流れでた水が南北に流れる大河となったものですが、あまりに長い流域なので上流や下流からの勢力が交互に権力を握り合っていました。共通するのは、王がファラオを名乗って神の化身として全流域を治めるという宗教的な権威です。
ですから実態を伴った軍事力より、伝統という幻想が人々に恐れを抱かせました。そしてこのアッシリア帝国が勢力を増す時期には、その幻想が顕わになってきていました。そしてその現実の弱さが、「主 (ヤハウェ) が御手を伸ばされると……皆ともに滅び果てる」(31:3) と描かれます。
31章4節では、エジプトに助けを求める人々に対して、「万軍の主 (ヤハウェ) 」こそが「獅子」または「若獅子」にたとえられていると考えられます。獅子が羊の群れに向かってほえるとき、牧者が集められますが、獅子は牧者の「声にひるむことなく、彼らの騒ぎにも動じない」で、ご自身の目的を果たられます。
それは第一に、「シオンの山とその丘に対して戦う」(31:4) ということであり、第二に、アッシリアの攻撃から「エルサレムを守る」(31:5) ために戦うというのです。つまり、主はエルサレムを攻撃する方であり、同時に、守ってくださる方でもあるというのです。
日本人の宗教観では、それぞれの神々に役割分担がありますが、主は「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、また癒やす。わたしの手からは、だれも救い出せない」(申命記32:39) と言っておられます。
「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出る」(哀歌3:38) のであれば、何かの問題に直面したとき、その解決策をいろいろ考える前に、主の御前に静まり、主との関係を見直し、主にすがることがすべてに先立つべきなのです。
31章6節では、そのことを前提に、帰れ、あなたがたが反抗を強めている方のもとに、イスラエルの子らよ」という悔い改めの招きが記されます。
そして、「その日」とは、イスラエルが主に立ち返って、「偽りの神々を退ける」(31:7) という日ですが、その日に、「アッシリアは人のものではない剣に倒れ、人間(アダム)のものでない剣が彼らを食い尽くす」(31:8) という主の奇跡的な介入がなされ、アッシリアが退却するというのです。
そのことがさらに、「その岩は恐怖のために過ぎ去り、その首長たちは旗を捨て、おののき逃げ去る」(31:9) と記されます。アッシリアにとっての「岩」とはその軍事力ですが、それは驚くほどあっけなく砕かれることになります。その軍隊は負け始めると散り散りに四散してしまいました。
私たちの目の前に、いつも何かの問題があります。それは、神が私たちとの対話に導くために置かれていることとも言えましょう。ある人は、「問題を無理やり抑え込むのではなく、解決策の生みの親になってもらうべきだ」と言っています。そのきっかけが、主の前に静まるということです。
ところが私たちはそこにある恵みを忘れ、問題の原因となった人を責め、自分の過去の判断を悔やむようなことがないでしょうか。しかし、私たちが祈る前から、「主 (ヤハウェ) は私たちを恵もうと待っておられ」、祈りを聞いて「あわれもうと立ち上がられる」のです。
確かに目の前の道が心細く思える時もあります。しかし、勇気を持って一歩を踏み出すなら、神のみ声を背後から聞くことができ、目の前の道はどんどん広くなって来るのです。
「慈しみ深き友なるイエス」の原歌詞は次のようなものです。これは( ジョセフ・スクライブン )が、婚約者を結婚式の直前に二度も失うという悲しみの中で、遠い地の母の悲しみに寄り添うために記されました。
What a friend we have in Jesus、 All our sins and griefs to bear!
何という友を私たちはイエスにあって持っているでしょう、主はすべての私たちの罪と悲しみを担ってくださる!
What a privilege to carry Ev‘rything to God in prayer!
何という特権でしょう、携えて行けるとは すべてのことを神のもとに 祈りによって
Oh、 what peace we often forfeit、 Oh、 what needless pain we bear、
何という平安を私たちはしばしば喪失し 何という不必要な痛みを負ってしまうことでしょう。
All because we do not carry Ev‘rything to God in prayer!
それはすべて私たちが携えて行かないからです すべてのことを神に、祈りによって
Have we trials and temptations? Is there trouble anywhere?
私たちは試練や誘惑に会っているだろうか? いくつもの問題がここかしこにあるだろうか?
We should never be discouraged, Take it to the Lord in prayer.
私たちは決して失望する必要はない すべてを主に祈りにおいて携えて行けばよいのだ。
Can we find a friend so faithful、 Who will all our sorrows share?
私たちはこれほどに真実な友を見出さるだろうか だれに私たちはすべての悲しみを分かち合えるだろうか?
Jesus knows our ev‘ry weakness, Take it to the Lord in prayer.
イエスは私たちのすべての弱さを知ってくださる。 それを主に向かって祈りのうちに携えて行こう。