「私の主の母が私のところに来られるとは…」(ルカ1:43)

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2022年クリスマス号より

マリアは御使いガブリエルからの受胎告知を受けますが、その後のことが、「マリアはその日々の中で立ち上がって、山地に急いで向かった、ユダの町に」(ルカ1:39私訳) と記されています。それは自分の妊娠を知らされた直後の行動です。ガリラヤのナザレから遠く離れたユダの山地にある町に向かう当時の一般的なルートは、ナザレから東に向かい、ヨルダン川の向こうに下り、川の東沿いを南に歩き、エリコの近くで川を渡り、そこからユダの山地に向かって、まるで登山をするように標高差1200メートルを一気に登るというものでした。これは通常、四日間から一週間の道のりであったと言われます。

マリアがどのようにそこに向かったかは明らかではありません。まだ許嫁のヨセフに御使いのことばを話せる時期ではなかったと思われます。マリアは様々な不安に襲われながら、御使いのことばにあったエリサベツを訪ね、それを分かち合いたいと思ったのではないでしょうか。周りの人々が決して理解してくれないはずの妊娠です。一人でこのことを抱えきれるとは思えません。マリアがエリサベツのもとに急いで訪ねたのは、そのような背景があります。「小さないのちを守る会」は、まさにそのような、他の人から理解されない妊娠に悩む人への相談窓口として始まっています。マリアと現代の予期せぬ妊娠をした女性とは全然立場が違うように思えますが、周りの批判におびえながら一人で悩んでいるという点では全く同じです。私たちはその女性の孤独感、不安感に寄り添う必要があります。

続いて、「エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で踊った。そしてエリサベツは聖霊に満たされた」(ルカ1:41私訳) と記されています。「踊った」は分詞ではなく主動詞です。マリアのあいさつに、胎児がまず反応し、その後、「エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声で叫んだ」という流れなのです。少し前の1章15節では、エリサベツから生まれる子に関して、「彼は、母の胎内にいるときから聖霊に満たされる」と預言されていました。ですから、エリサベツの胎に宿っている胎児は、まさに、胎内にいながら聖霊に満たされたれっきとした人間であったのです。

そのことをエリサベツは、「あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました」(ルカ1:44) と言っています。マリアの胎内に神の御子が宿ったということを最初に認識したのは、同じ胎児であったというのは何という驚きでしょう。これは、あり得ないことのように思えますが、聖霊ご自身が胎児に働きかけるなら当然可能になります。聖霊はそのように胎児を用いることによって、胎児が完全な人間であることを示したとも言えましょう。

しかも、エリサベツが聖霊に満たされて大声で叫んだことばは、神学上決定的な意味を持っています。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。これは私に何ということでしょう。私の主の母が私のところに来てくださったとは」(ルカ1:42、43) と記されています。ここでエリサベツは、マリアを「私の主の母」と呼びました。正統的なキリスト教会は、キリストが完全に神であり同時に完全に人であるという神秘を、451年に合意されたカルケドン信条によって確認しています。そこで処女マリアを「神を産んだ母、または神の母」と告白しています。その原点が、エリサベツがマリアを「私の主の母」と呼んだことにあります。その教会会議で異端とされたネストリウスという人は、マリアを「神の母」と呼ぶことに抵抗し、彼女を「キリストの母」と呼ぶようにと主張したようです。その方が私たちにはなじみやすい表現です。しかし、カルケドン信条が大切にしているのは、イエスが胎児であったときから完全な神であるとともに完全な人であるという告白です。ですからマリアの胎内に宿ったイエスは、生まれる前から神であられたのです。それは私たちの神の概念を変える告白です。

多くの人は、胎児をまだ人間になる前の状態かのように考えているのかもしれませんが、正統的な信仰告白では、胎児となったばかりのイエスが、人間であったばかりか神でもあったと言われているのです。それは、イエスは胎児のままで、創造主なる父と同じ神であられたという途方もない告白です。これは、多くの人々の胎児に対する見方を革命的に変える見解です。私たちもその告白に倣って、胎児の状態のイエスを神と呼び、またマリアを「神の母」、あるいは「神を産んだ母」と呼ぶのです。

そして、マリアはエリサベツの告白を聞いたときに、マリアの賛歌(マニフィカート)と呼ばれる最高の賛美を告白しました。それはエリサベツの胎児が喜び踊っているという知らせから生まれた感動の歌とも言えます。神の子のご降誕の背後に、このような感動的な物語があったのです。

バプテスマのヨハネの母エリサベツは、胎児であったヨハネが聖霊に満たされてマリアの訪問を喜んだことを知ることができました。また彼女は、マリアの胎内に宿る妊娠初期の胎の実を、自分にとっての主、または神と告白することができました。そして、私たちと同じような不安と孤独に悩むマリアは、そのエリサベツのことばと同時に、胎児のヨハネの喜びの感動に深い慰めを体験することができました。その後で、マリアは許嫁のヨセフにすべてのことを堂々と言うことができたのかもしれません。

今、米国を中心に中絶の権利?が大きな政治問題となっています。そのようなときに、対立をあおる代わりにこのようなストーリーで「小さないのちを守る」ことの大切さを知らせることができたらと思います。私たちは福音を人々の心の底に届く優しいストーリーとして知らせることを考えるべきでしょう。