イザヤ24章~27章「主 (ヤハウェ) と和 (シャローム) を結ぶ」

2022年12月18日

ある小学生がクラスの中で一人だけ将来の夢を語れなくて、からかわれ、しょげていました。そのことを忘れようとすればするほど、情けない気持ちになりました。

父親はその子を職場の映画スタジオに連れて行き、大きな撮影用のカメラがついた移動式の椅子に座らせました。カメラを覗き込んだこの子は、恐ろしい形相の怪獣が見えたので、思わず叫びました。父親は「どんなに恐くても目をそらすんじゃないぞ」と励ましながら少しずつカメラを後退させました。すると怪獣の全体像とまわりの映画セット全体が見えました。この子はずっと気分が楽になりました。

その上で父親は、「恐いこと、嫌なことに圧倒されたら、じっと一点ばかりを見つめていないで、下がって全体を眺めてごらん。将来の夢だって、そのうち分かるよ。大切なのは、今言えない自分を悩むのではなく、自分の視界を広げ続けることだ……」と言いました。

イザヤの預言は、私たちの視野を広げるものです。この世界に様々な痛みや苦しみがあります。それを神の救いのご計画の全体像から見られるようになることこそが信仰の成長です。

私たちは分からなくても、私たちの主はこの歴史すべてを支配しておられます。何度も失敗しても、私たちの主は、それをすべて益に変えることができます。何より大切なのは、その全能の主との「和を結ぶ」中に生きることです。

1.「見よ。主 (ヤハウェ) は地を荒れすたらせ……取り残しの実を集める」

13章~23章では「宣告」ということばとともに諸国民に対する神のさばきが記されていました。

24~27章はそれらの総まとめ的な意味があり、「イザヤの黙示録」とも呼ばれることがあります。そこでは全世界に対するさばきを語っているようでありながら、その中心は神のさばきによって廃墟とされたエルサレムの情景と、主のみわざで復興、完成されたエルサレムの姿です。

後者はすでに2章1–5節に記されていたように、エルサレムが全世界の平和(シャローム)の中心となるということの繰り返しでもあります。

24章1–3節では全世界に対するさばきが描かれます。1節では「見よ。主 (ヤハウェ) は地を荒れすたらせ」と記され、3節も同じことばで「地はすっかり荒れ果て(原文:荒れ果て、荒れ果て)」と描かれます。

そのような中で、「民と祭司」「奴隷と主人」「買い手と売り手」「貸し手と借り手」「債権者と債務者」という宗教的、社会的、商業的な面でのすべての区別が無くなると記されます。

これは一見良いことのように見えても、すべての人が立場を失い裸の状態にされるという意味を指し、主が地の「面をくつがえして、住民を散らされ……すべてがかすめ奪われる(原文:奪われ奪われる)」ことの結果と言われています (1、3節)。

4節では「地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。地の最も高貴な人たちもしおれる」とことばの繰り返しが見られますが、ヘブル語ではさらに似た発音の繰り返しの工夫が見られます。

5節はさらに、「地はその住民の下で汚されている」とまず厳しく宣告されながら、その理由が三つの観点から、「彼らは律法(トーラー)を犯した(に背いた)、定めを変えた、永遠の契約を破った」と描かれています。これは神の民が神から与えられた御教えを軽蔑し、捻じ曲げ、契約に記されたのろい」を実現させることを意味します。

申命記28章15節以降には、「もしあなたの神、主 (ヤハウェ) の御声に従わず……命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる」と記され、ありとあらゆる「のろい」がイスラエルの地に臨み、国が廃墟とされ、民が飢え死にし、異教徒の地に奴隷として連行されるという警告が記されていました。

そして6節ではその当然の結果が、「それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罰を受ける。それゆえ、地の住民は減り、わずかな者だけが残されると描かれます。

24章7–12節にはエルサレムの荒廃の様子が、そこに住む住民の観点から描かれます。

7節での「嘆き悲しむ」「しおれる」という動詞は4節と同じもので、原文の語順では嘆き悲しむ、新しいぶどう酒が。しおれる、ぶどうの木が。うめく、心に喜びのある者もみな」と記され、喜びをもたらすはずのものが悲しみやうめきの原因とされるという逆説的な皮肉が描かれています。

さらに8節では「陽気なタンバリン」「陽気な竪琴」という語呂合わせが用いられながら、それらの「音がやむ」と繰り返されます。

また9節では「歌いながら……飲むことはない」「苦くなっている、強い酒ですら」という常識の逆転が描かれます。

10節では「都が……荒れ地となり、家が閉ざされ」という悲惨が描かれます。そして11節は原文の語順では「哀れな叫び声が街にある、ぶどう酒を求めてのものが。薄れてしまう、すべての喜びが。取り去られてしまう、地の楽しみが」と記されています。

そして12節ではそれまでのことをまとめるように、エルサレムの状態が、「その都にはただ荒廃だけが残り、城門は打ち砕かれて荒れ果てる」と描かれます。

しかしそれは、「大地の真ん中で、諸国の民の間で、(収穫のために)オリーブを打ち落とすようなこと、ぶどうの収穫の後に取り残しの実を集めるようなことが起きる」(24:13) という希望のときでもあります。それは6節での「わずかな者だけが残された民が再び集められるときです。しかもそれは4節に描かれた「地」とか「世界」の真ん中で起きるのです。

そのことが14~16節で、「彼らは声をあげて喜び歌い、主 (ヤハウェ) の威光をたたえて、西(海)の方から叫ぶ。それゆえ、東の国々で主 (ヤハウェ) をあがめよ、西(海)の島々で、イスラエルの神、主 (ヤハウェ) の御名を。地の果てから、『正しい方に誉あれ』というほめ歌を私たちは聞く」と記されます。

これはイスラエルの回復を、主の「威光」や「正しさ(義)」の現れとして、全世界の民が喜び歌うという意味です。彼らの不従順にもかかわらず、主がアブラハムに対する契約を守り通してくださったことを全世界の民が認め、喜ぶというのです。そこに主の「正しさ(義)」が表されています。

ただ、そのような中で、イザヤは、「私はだめだ、だめだ、ああ、悲しい」(24:16) と、この賛美に加わることができない痛みを表現します。それは自分の周りの人々が次々と主を「裏切り、裏切って」、滅亡に向かっているのを見ているからです。

そして17、18節では「恐怖と落とし穴と罠があなたに臨む」とまず記され、それらから逃れられない悲劇が描かれます。

18節後半の「天の窓が開かれ」とは、創世記7章11節の「天の水門が開かれた」を思い起こさせる表現で、その結果が「地の基が震え」、「地が割れ……破れ……揺れ……よろめき……揺れ動く」と描かれます (24:19、20)。

そして、それらをまとめるように「地の背きはその上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない」(20:20) という絶望として表現されます。

2.「万軍の主 (ヤハウェ) は……宴会を開かれ……永久に死を吞み込まれる」

24章21節では「その日」ということばとともに、世の終わりの主のさばきが明らかにされます。そのことが、「主 (ヤハウェ) は罰せられる、天では天の大軍を、地では地の王たちを。彼らは……牢獄に閉じ込められ、何年かたった後に罰せられる」(24:21、22) と、主 (ヤハウェ) がご自身に敵対する天におけるサタンの勢力から、地上の権力者までも、時が来たら必ず罰せられると繰り返し宣言されます。

ただそれと同時に、「月は辱めを受け、太陽も恥を見る。万軍の主 (ヤハウェ) がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前にあるから」(24:23) と描かれます。

当地では太陽や月は、恵みとともにわざわいの原因でもありました。世の終わりには主 (ヤハウェ) ご自身が私たちを照らし、私たちはこの地を平和のうちに治めることができます。

このイザヤの黙示をもとにヨハネの黙示録では、「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである……神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る……もはや夜がない。神である主 (ヤハウェ) が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める」(21:23、22:3–5) と描かれています。

主にあって私たちが「待ち望む」べきことは、死んで天国に行くというより、この世界が「新しい天と新しい地」に変えられることにあります。

25章初めに、「あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました」と記されます。ここでの「まことに」「真実に」とはアーメンと同じ語根のことばが重ねて用いられています。

神の創造のみわざは闇に光を、茫漠とした地に植物を生えさせることとして始まり、この世界は、神の光で満ちた世界、エデンの園の調和が回復する神の平和(シャローム)の完成へと向かっています。

その神の「不思議なご計画」に私たちは目を向け、神がそれを「真実に成し遂げ」られることを信じるのです。

その過程の中で、「あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟とされたので、他国人の宮殿は町から失せ、もう永久に建てられることはありません」(25:2) ということが必要になります。

かつてソロモンは自分のための広大な「レバノンの森の宮殿」を建てたとき、「ファラオの娘のためにも、この広間と同じような家を建てた」(Ⅰ列王記7:8)、ばかりか「ほかに多くの異国人の女……を愛し」、異国人の妻たちの偶像礼拝を応援したと描かれていました (同11:1、8)。

つまり、ソロモンは偉大な神殿建設の働きをしながら、晩年は異教徒の妻たちの偶像礼拝を助け、国を分裂に導いたのですが、主ご自身がエルサレムを廃墟としたことで、後のエルサレムから異教の影響が無くなるという「不思議なご計画」が見られるのです。

その結果が、「それゆえ、力強い民もあなたをほめたたえ、横暴な国々の都もあなたを恐れます」(25:3) と記されますが、これはバビロン帝国を滅ぼしたペルシア帝国の王が、イスラエルの神ヤハウェを恐れ、エルサレム神殿の再建を応援したこととして表されます。

さらにそれによって「あなたは弱っている者の砦、貧しい者の、苦しみのときの砦」(25:4) であることが明らかにされます。それはエルサレムの城壁の代わりに主ご自身が「」となられて、異教徒の王を用いてさえ民を守ってくださるという不思議です。

25章6節では、そのような中で突然、「万軍の主 (ヤハウェ) は、この山の上ですべての民のために……宴会を催される」と記されます。

その食材がまず「脂の多い肉」と描かれますが、本来、脂肪はすべて主のものとして聖別されて焼き切られるはずのものですが、主のための食材が「すべての民」にふるまわれるというのです。

また「良いぶどう酒の宴会」と熟成された最高のワインの「宴会」ということも強調されます。そしてさらに「脂身」の質の良さと、ぶどう酒の質の良さが、改めて強調されて期待を膨らませます。

25章7、8節のそれぞれの原語の始まりでは、「呑み込まれる」という同じ動詞が繰り返されます。しかもそれは、6節と同じ「この山の上で」起きることで、「すべての民の上をおおうベール、すべての国民の上にかぶさる覆い」を「呑み込まれる(取り除き)」と記され、それが「永久に死を呑み込まれる」と言い換えられます。

エデンの園で人間が蛇の誘惑に負け、世界に「死」が入ってきましたが、ここではすべての民を覆う恐怖のベールまたは覆いとしての「死」が滅ぼされることが告げられます。

パウロはこの箇所を引用しながら、終わりの日の死者の復活を語りました。彼は「死者の復活」に関して、「終わりのラッパとともに……死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです……この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に呑み込まれた』」と記しています (Ⅰコリント15:52、54)。

まさに聖書が示す「救い」とは、「死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれる(Ⅱコリント5:4) こととして描かれているのです。

さらにここでは続けて「万軍の主 (ヤハウェ) が……死を呑み込む」ことを、「主、ヤハウェは、すべての顔から涙をぬぐい取る」と描かれます。これをもとに黙示録21章4節では「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」と描かれています。

さらにここでは続けて「全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる」と記されます。これは神の民イスラエルの救いが、全世界の救いにつながるという意味を持っています。イザヤが呼ぶ「私の神、主 (ヤハウェ) 」(25:1) のアブラハム契約への真実さが全世界の救いのつながることを意味します。

25章9節の初めは「その日に言われる」と訳すことができます。そこでは、「見よ、この方こそ私たちの神、私たちが待ち望んでいた方、この方が私たちを救ってくださる。この方こそ主 (ヤハウェ)私たちが待ち望んでいた方、その御救いを楽しみ、喜ぼう」と記されます。私たちはこのことばを私たちの救い主であるイエスにそのまま当てはめることができます。

神の御子が私たちと同じ「血と肉」という死ぬべき人間となられた理由をヘブル書の著者は、「それはご自分の死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、無力化するためであり、また、死の恐怖によって一生涯奴隷となっていた人々を解放するためでした」(2:14、15) と記しています。

これはキリストの降誕を、死に対する勝利の前提と描く画期的な記述です。

なお、25章10–12節に、モアブに対するさばきが記されるのは、本来、アブラハムの甥ロトに始まるこの民が、主のさばきを受け苦しみながらも、主の前に遜ろうとしなかったからです (15、16章)。

その意味でここの「モアブ」ということばを、福音を聞きながら信じようとしないすべての民に適用できましょう。

24章の終わりから25章には、すべてヨハネの黙示録に繰り返されるイメージが描かれます。

それどころか、使徒ヨハネはこのイザヤの黙示録を読みながら慰めを受け、御霊に導かれて、この世で厳しい迫害を受けているキリスト者に、目に見える不条理の背後にある神のご計画に目を向けさせたと言えましょう。

3.「志の堅固な者を、あなたはまったき平安のうちに守られます」―復活の希望

26章1節から27章1節までは、「その日、ユダの地でこの歌が歌われる」(26:1) というエルサレムの救いの希望の歌です。

その最初は「私たちのための力である都、その城壁と塁で救いを与えてくださる」とも訳すことができ、24章1–12節と正反対の状況が実現することを意味します。

ただそこで「城門を開けて、忠誠(真実)を尽くす正しい民を入らせよ」(26:2) という選別がなされます。そのことがさらに「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます」(26:3) と描かれます。

「志」とは心の「傾き」を意味します。かつて、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった」(創世記6:5) ことの結果として、大洪水を起こされ、地をさばかれました。問われているのは、心が神に向かうか、悪に傾くかという一瞬一瞬の心の方向です。

「志の堅固な者」とは、自説に固執する「頑固な者」とは違い、悲しみや苦しみの中でも、いつでも心の中の羅針盤の針が、主に向かう者のことです。そこから、「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17) という勧めが生まれます。

そうする者を主は、「全き平安(シャローム、シャローム)のうちに守ってくださる」のですが、原文では平和(シャローム)」が二回繰り返されています。「平安」と訳すと「心が動じない」ことをイメージさせますが、これは神の御手の内に包まれている安全な状態としての「平和」と言えます。

このことが、「いつまでも主 (ヤハウェ) に信頼せよ。ヤハ、主 (ヤハウェ) は、とこしえの岩だから」(26:4) と言い変えられます。ここでの「信頼」も、自分の心の醜さや揺れを隠すことなく、正直に打ち明けることができるような安心感を意味します。

「主がとこしえの岩」であられるからこそ、自分の心が揺れていても大丈夫なのです。

26章5節は、それは主が、高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒されるからだ」と訳した方が良いと思われます。

それは24章に記されたように、高慢だった都が主のさばきを受けた結果として、私たちを守る都が生まれたことを意味します。5、6節では24章での主のさばきが繰り返されていると言えます。

26章7節の「正しい人の行く道は平らです」の「平ら」とは「確立(統合)されている」とも訳せることばで、試練や妨害がないという意味ではありません。

さらに8、9節での「あなたのさばき」とは、刑罰ではなく神の公正な支配を意味します。それによって「世界の住民は義を学びます」と記されるのは、そこで神の正義の基準が明らかにされるからです。

一方、「悪しき者は、恵み(憐み)を受けても義を学びません(26:10) と記されます。「神の義」には「罪人に対する恩寵」も含まれますが、「悪しき者」はそれを自分が獲得したものであるかのように考え、神の正義に関しての真の知恵に至らないからです。

そのことが「主 (ヤハウェ) よ。あなたの御手が上げられても、彼らは見ようとはしません」(26:11) と描かれます。この世界には、憐みを受ければうけるほど、神の厳しいさばきの御手に気づかなくなる人がいます。

その人には、「まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くします(26:11私訳) という「火のさばき」が確定してしまいます。

26章12節では、「主 (ヤハウェ) よ。あなたは私たちのために平和(シャローム)を備えてくださいます」と記されますが、これこそ神の民にとっての約束の要約とも言えます。

そして「まことに、私たちのすべての働きも、あなたが私たちのために成し遂げてくださったことです」と告白されます。これは良い働きも、私たちが誇れるものではなく、神が最終的な平和(シャローム)を備えてくださったことに基づくという意味です。

13節では、「あなた以外の多くの君主が私たちを治めました」という、人間の横暴な支配が示唆されながら、14節では「彼らは死人であって、生き返りません……あなたは彼らを罰して根絶やしにされました」と記されます。これはたとえばエジプトでは、王の亡骸はミイラとされてピラミッドに保存され、なおこの地への支配権をアピールしているように見えることを皮肉ったものと言えましょう。この日本でも、この世の権力者や悪人が、死後に私たちを脅すという恐怖がありましたが、主はそれを一掃されました。

それの反対が、「主 (ヤハウェ) よ、あなたはこの国民を増し加えられました」(26:15) という神のみわざです。

ただ、その上で16–18節ではイスラエルの歴史が振り返られながら、最後に「私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう(新しいいのちへと)生まれてきません」と、神の民の失敗が告白されます。

そのような中で、イスラエルの希望が、「あなたの死人は生き返ります。私の屍はよみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。まことに、あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます」(26:19) と告白されます。

「死者の復活」は約束の地での生き方が主題となる旧約では稀にしか記されませんが、不条理に満ちた世界に遣わされる新約の時代は核心の教えとなります。

信仰の確信は、「主 (ヤハウェ) は生きておられる」と表現されますが、この永遠の主に結びつくことで私たちも永遠のいのちが保証されるのです。「あなたの死人……あなたの露」という、主との結びつきが大切なのです。

26章20節から27章1節では、この世の誇り高ぶる者に対する主のさばきが描かれます。その象徴として「海にいる竜」としての「レビヤタン」に対するさばきが描かれます。

そのような文脈の中で、「憤りが過ぎるまで、ほんのしばらく身を隠せ」(26:20) と記されます。ヘブル書の著者は、ハバクク2章3節とこのみことばを合わせて「忍耐」の大切さを説きながら、「なぜなら、ほんのしばらくすると、来るべき方が来られ、遅れることはないのだから」(10:37) と記しています。

私たちの目には、この世の悪の力が、いつまでもさばかれないことで希望を失いがちですが、救い主の現れは目の前に迫っていると言えましょう。

4.「わたし、主 (ヤハウェ) は、それを見守る者」

27章2~13節では、イスラエルが「麗しいぶどう畑」、主 (ヤハウェ) がその主人として描かれます (5:7参照)。「わたし、主 (ヤハウェ) は、それを見守る者」(27:3) と記されているのは、主ご自身が断固とした意思を持って、イスラエルの家を育て、実を結ばせるということを表現するためです。

「わたしにもう憤りはない」(27:4) と記されるのは、主の怒りは、ご自身の民を滅ぼすためではなく、育てるための愛の表れだからです。

ただそこで、「もしも、茨とおどろがわたしと戦えば、わたしは……それを焼き払う」と記されるのは、5章5、6節にあったように雑草を生えるに任せる代わりに、焼いて新しくするという覚悟が示されます。

しかし一方で、「あるいは、もしわたしという砦に頼りたければ」(27:5) と25章4節の「砦」ということばを用いながら、救いを待ち望む気持ちに語りかけます。

そこで主は、「わたしと(シャローム) を結ぶがよい。和 (シャローム) をわたしと結ぶがよい」と不思議な表現で、民との和解を提案されます。

それは、「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面を実で満たす」(27:6) と記されるように、イスラエルの家が主のぶどう畑として豊かな実を結ぶことができるように、イスラエルの再生を期待するからです。

その上で、「主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれるだろうか。イスラエルを殺した者を殺したように、イスラエルを殺しただろうか」(27:7) と記されます。それは、イスラエルは、主ご自身が恋い慕い、選ばれた神の民なので、アッシリアやバビロンを「激しい息で……吹き払われた」(27:8) というような滅亡をもたらしはしないという意味です。

その上で、「それゆえ、次のようにしてヤコブの不義は赦される……」(27:9) と記されます。それはあらゆる偶像礼拝から遠ざかりさえしたら、主はご自身の民を赦してくださるというのです。

この世の道徳を守ることや社会貢献度ではなく、主ご自身と「和 (シャローム) を結ぶ」という、私たちの創造主との交わりが問われているのです。

さらに27章10節では、「城壁のある町は、ひとり寂しく……」と、イスラエルを苦しめた超大国の都が廃墟とされると預言されます。

さらに、11節では偶像礼拝を続ける「悟りのない」民に対して、神は「恵みをお与えにならない」と記されます。

一方27章12節では、「その日、主 (ヤハウェ) はあの大河からエジプトの川まで穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは、一人ひとり拾い上げられる」とは、収穫作業で穀物を麦の束からより分け、一つひとつの実を大切に拾い上げるように、神はイスラエルの民を集めてくださることを意味します。

そして「その日、大きな角笛が鳴り渡る」中で、「アッシリアの地に失われていた者やエジプトの地に追いやられた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する」(27:13) という神の民の最終的な希望が語られます。

それは信者の復活の結果としての礼拝の完成を指し示しています。

「私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています……私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:1、8) とありますが、神との平和を築く主導権は、私たちの信仰以前に、神の御子の犠牲に成り立っているのです。

あなたの創造主は、あなたとの平和(シャローム)を通して、この世界に平和(シャローム)を実現しようとしておられます。キリストこそがその平和(シャローム)の創造主なのです。

全世界の創造主が、聖霊としてあなたのうちに生きていてくださることからあらゆる働きが始まるのです。