米国の分断——わたしが道であり、真理であり、いのちなのです〜ヨハネ14:6

米国の中間選挙を巡って分断がますます激しくなっています。それは米国の教会の中にも見られるようです。

日本での報道を見ると、何か、共和党が偏狭な保守主義のように見られがちですが、民主党も大きな問題を抱えています。

たとえばオバマ元大統領は、初めての黒人出身という面では米国の幅の広さを証していましたが、彼のミドル名にフセインなどというイスラム教の名前がついているなどの影響があるのか、伝統的なキリスト教の価値観をくつがえす動きを続けていました。オバマさんにしてもヒラーリー・クリントンさんにしても、バイデン大統領にしても、どの宗教もそれなりに救いの道を示しているという宗教多元主義の立場に立っています。

しかし、信教の自由を求めてメイ・フラワー号で米国に移住してきたという原点は、「どの宗教でも良い」と言う話ではなく、「キリスト教であれば宗派を問わない」という意味でした。キリスト教的な価値観をもとに国を建てるということは最初から極めて明確だったはずです。

トランプ前大統領の人格を尊敬するクリスチャンは少ないでしょうが、民主党が米国の伝統的な価値観を否定するという危機感を持つクリスチャンは多数います。

ただ、そのような中で、宗教や信仰における対立を煽ることのない福音の提示が求められています。

たとえば、イエスが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6) と言われたことばは、他のすべての宗教を否定する独善性の現れのように聞こえるかもしれませんが、その核心は、イエスの十字架をとおしてでなければだれも救われないということを言ったものです。

キリスト教以外のどの宗教に「十字架の救い」があるでしょう。それは、まさに 神の御子が私たち罪人とともに苦しむことによる救いの道を示しています。

そしてイエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われました (マタイ16:24)。

十字架は死刑の道具です。それは、自己実現の教えではなく、徹底的に神と人との前にへりくだって歩むようにという勧めです。

私たちは十字架にかけられたイエスの御跡を歩むように召されているのです。これは途方もない命令です。本来、すべてのクリスチャンがこの原点に立つなら、米国に見られるような分断は見られないはずなのです。

現代はいろんなことがあまりにも便利になって、いろんな問題をすぐに解決することが目標になりがちです。スイスに観光に行く方は、多くの方がユングフラウ鉄道に乗って、標高3,454mの世界最高の駅になんの苦労もなくたどり着くことができます。

一方その途中で、世界の登山家を魅了してやまないアイガー北壁という絶壁があります、1800mの垂直の壁を上ろうとして何人もの人がいのちを失っています。昔は、亡くなった方が二年間も宙吊りになっていたという話もあるほどです。

イエスが十字架をとおして栄光に入れられたというのは、ユングフラウ鉄道ではなく、アイガー北壁を上るようなものです。

頂上に達するという目標よりも、そのプロセス自体に意味があるのです。それは私たちの場合も同じです。

苦しみ、また悩まなければ体験できない真理があります。十字架を負ってイエスに従うというのは、そのようなプロセスを指していると言えましょう。

先日、天に召されたHSさんは、すべての財産を失い、肺がんから脳に腫瘍が転移するという中で、新しい働きを始め、多くの人々に希望を与えることができました。そして、経済的に豊かであったときに体験できなかったすばらしい神様の恵みを体験することができました。彼女の晩年は本当に幸せだったと思います。

十字架の福音の真実の前に、私たちは和解と希望を体験できます。原点に立ち返ることの大切さを思わされています。