人にはそれぞれ負うべき課題がある〜ガラテヤ6:5

秋晴れの美しい日ですが、いかがお過ごしでしょう。僕は、次から次と、締め切りの仕事や会議があって、休みを取りにくい状況が続いています。それでも、教会の周りを散歩して、美しい青空と心地の良い日差しを味わうことができました。今は、懐かしのディボーション誌「みことばの光」の原稿「ヨシュア記」を書いています。分量が多いので、少しずつ進める必要があります。来年からも、大きな定期刊行物に毎月の記事を書く依頼が来ています。

自分にとって「めんどう」、苦痛と思える様々な仕事がありますが、聖書の説き明かしの記事を書いていると、とっても恵まれた気持ちになります。書く人自身が、恵みを感じていないと、読者には伝わらないですから、執筆作業に喜びを味わうことができるというのは大切なことでしょう。

それにしても、いつも困るのは、果たすべき課題が多くある中で、落ち着いて書くための時間を取ることが難しいことです。締め切りを急かされて書いてしまっては感動を味わうことができません。いつも、丁度良い仕事量はないのか⋯⋯と思わされます。

そのような中で、「私の時は御手の中にあります」(詩篇31:15) というみことばをいつも思い起すようにしています。いつも締め切りを気にしますが、振り返ってみると、そのことで他の人に迷惑をかけたことはほとんどありませんから、そんなにあわてる必要はないのかとも思わされます。

ところでガラテヤ人への手紙6章にはちょっと矛盾するように見える記事があります。「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります⋯⋯ (2節)。人はそれぞれ、自分自身の重荷(課題)を負うことになるのです」(5節)。

最初の「重荷」とは、私たちを苦しめるような大きな責任や労苦を意味します。それは私たちが誰かに任せきることなく、協力し合って担ってゆく必要があります。それは様々な教会での奉仕にも当てはまります。

一方、「自分自身の重荷(課題)」というときに、それは持ち運ぶ荷物のようなもので(先の「重荷」とは別のギリシャ語)、それぞれに神様から課せられている課題を意味します。それは他の人に手伝ってもらったり代わってもらったりはできない働きです。

それは僕の場合は、この執筆活動とか、聖書の話をする礼拝メッセージとか、聖書講演活動とか、他の人の相談に載ることです。僕にとって幸いなのは、それらの働きに喜びを見出すことができることです。

だからこそ、自分は牧師の働きに召されているのだと思います。僕の大学時代の同期は、みな仕事の第一線から離れています。まもなく70歳になるというのに、休日を楽しめないほど忙しくしています。でもそれが、苦痛の仕事ではないことは何と幸いなことでしょう。

しかも、疲れてお腹をすかせても、いつも洋子が、おいしい食事を用意してくれます。ここでも幸いなのは、洋子が料理に喜びを見出だしていることです。この年になっても、次から次と新しい料理のアイデアが生まれてきます。とにかく、お腹がすくと、自然に、料理が思う浮かぶというのですから、これも不思議な感動です。

今から3500年前のモーセは、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは 労苦とわざわいです」(詩篇90:10) と書かざるを得ない現実がありました。

しかし、「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17) と言える現実が既に始まっています。

私たちは、七十になっても八十になってもまた九十歳になっても、それぞれが負うべき自分自身の課題があります。その課題の中に喜びを見出だすことができる⋯⋯ということが何よりの神様の恵みではないでしょうか⋯⋯

丁度良い具合の仕事量というのがあればよいのですが、それでもうまくそれをコントロールする知恵を求めて、日々を少しでも楽みを見出だし続けることができればと思います。