イザヤ9章8節~12章6節「暗闇迫る中で、『I have a dream!』と叫ぶ力」

ナチスドイツによるアウシュビッツなど四つの強制収容所を生き延びたユダヤ人精神科医のフランクルは、「ひとつの未来を信じることができなかった人間は収容所で滅亡していった。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった」と語っています。

そして、「繊細な性質の人間がしばしば、頑丈な身体の人間よりも、収容所の生活をよりよく耐え得たと⋯⋯なぜなら、彼らにとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである」とも語っています。

心の中に、いつも夢を持っている人は、逆境の中でなお自分を保つことができます。ユダヤ人の強さは、イザヤ書などを通して、暗闇が迫れば迫るほど、神の救いが近いことを確信したということにあるように思います。暗闇の中でも、永遠の夢を持ち続けられる人は何と幸いでしょう。

1.北王国イスラエル(サマリア)へのさばき (9:8–10:4)

「主はヤコブに一つのことばを送られる。それはイスラエルに下る」(9:8) とは、北王国イスラエルに対する神のさばきが実現し始めたことを指します。

しかし、その中心の地「エフライムと(首都)サマリアに住む者たちは」、主のことばを侮り、「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう」などと人間的な知恵で問題を解決しようとしました (9:9、10)。それは当時、アラムの王レツィンとの同盟によってアッシリアの脅威に立ち向かおうとする政策でした。

それに対し、主は「レツィンに敵対する者たち」のアッシリアとその連合軍を「のし上がらせ、その敵たちをあおりたてる」と言われます (9:11)。そればかりか、東からは同盟国であるはずのアラムが、西からは昔の仇敵ペリシテが力を回復し、「その口いっぱいにイスラエル食らう」ように挟み撃ちにするというのです。国際政治は力の均衡によって動きますが、その背後に主ご自身がおられます。

9章12、17、21節、10章4節で「それでも、御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている」と四度繰り返されますが、すべてのわざわいの背後に、主の怒りの御手があることを思い起こさせるためです。

しかし、「この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主 (ヤハウェ) を求めない」(9:13) と記されます。士師記の時代、彼らは自業自得で苦しむたびに、主を呼び求め、それに応えるように主が「さばきつかさ」を送られましたが、今回はそのような動きはありませんでした。

私たちも注意が必要です。苦しみに会うときに求められているのは、人間的な原因を探って反省すること以前に、主を呼び求めることです。

そこで、「主 (ヤハウェ) はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、一日のうちに断ち切られる」(9:14) と記されますが、「なつめやしは」当地で背の高い木の代表、「葦」は低くひ弱なものの象徴です。

15節で「かしら」と「尾」の説明がされますが、「偽りを教える預言者」が「尾」と呼ばれるのは皮肉です。彼らは国が進むべき方向を指し示す「目」のような存在であるべきはずなのに、権力者に媚を売るようなことしか言わなくなっていたからです。

それによって民の全体が惑わされて罪に陥り、「主は⋯⋯そのみなしごも、やもめも、あわれまない」という、本来の主のご性質に反することをせざるを得なくなりました。

「悪は火のように燃えさかり⋯⋯」(9:18) とは、罪が恐ろしい感染症のように広がる様子です。それに対し、「万軍の主 (ヤハウェ) の激しい怒りによって地は焼かれ」(9:19) とは、病原菌をすみやかに焼き尽くすかのような主の働きですが、これによって人々は恐怖のあまり自分しか見えなくなり、「だれも互いにいたわり合わない」という状態に陥り、同族が互いを「食らう」という悲劇が起きます (9:19、20)。

これはパニックに陥った人々が人を踏みつけてでも逃げようとする姿に似ています。そのような中でも、北王国の中心部族マナセとエフライムは、まるで自分たちの一致を保つためにこそ「ユダを襲う」という動きを起こします (9:21)。

そして最後に、国の混乱は何よりも「不義の掟を制定」し、「不当な判決を書いている」ような指導者によってもたらされていると記されます (10:1)。彼らは自分の権威を利用して私腹を肥やしていたからです。国が滅びるときは内側から滅びます。指導者が腐敗し、民も互いに傷つけ合い、自滅して行くのです。

しかし、そこにこそ、神からの祈りの招待があります。そこに求められているのは、「やめよ。知れ。わたしこそ神」(詩篇46:10) という主の語りかけを聞くことです。溺れそうになったら、あたふたするのを止め、力を抜くことが大切です。すると、主が浮かび上がらせてくださいます。

人の罪しか見えないとき、実は、主は「わたしを仰ぎ見て救われよ」(45:22) と大きな声で招いておられるということを心に覚えたいものです。

2.アッシリアへのさばき (10:5–19) と「イスラエルの残りの者」の回復 (10:20–34)

10章5節で、アッシリアは神の道具としての「怒りのむち」「憤りの杖」に過ぎないと記されます。それは、神ご自身が、「わたしは、これを⋯⋯送り⋯⋯襲えと、これに命じ⋯⋯分捕らせ⋯⋯奪わせ⋯⋯踏みにじらせる」と言われると描かれます。まるで神が広域暴力団を動かしたかのようです。

それに対し、「しかし、彼自身は⋯⋯そうは思わず⋯⋯彼の心にあるのは滅ぼすこと⋯⋯断ち滅ぼすことだ」(10:7) と記されるように、アッシリア自身は、破壊自体を喜んでいると説明されます。しかも彼は国々を屈服させることと、それぞれの信じる神を、「偽りの神々」として軽蔑することを同じに考えました。

当時のエルサレムの王アハズは、アッシリアと同盟を結んだばかりか、まわりの国々の神々を持ち込み、国の独自性をなくすことでアッシリアのご機嫌をとろうとしましたが、その結果は、「エルサレムとその多くの偶像にも同じようにしないだろうか」(10:11) と言われるように、かえって攻撃の対象とされてしまいました。もしエルサレムに偶像が何一つなかったなら、アッシリアはユダ王国に一目を置き、他の国々と同列に見ようとはしなかったのかもしれません。

ところが主は、アッシリアを用いてエルサレムに対するさばきを下した後、「アッシリアの王の思い上がった心の果実、その高ぶる目の輝きを罰せられる」と描かれます (10:12)。それは彼が、「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった⋯⋯私が⋯⋯全能者のように住民をおとしめた」と言って (10:13)、自分を神の立場に置いているからです。

それに対して、主は、「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができるだろうか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか⋯⋯」と語って、主ご自身が人を動かすのでなければ何も起きないと彼らの高慢を責めました。

そして、10章16–18節では、アッシリアを用いてイスラエルをさばいた主ご自身が、その道具のアッシリア自体を滅ぼしつくすと言われます。

神は人間を用いてご自身のみわざを進められますが、自分が神の御手の一つの道具に過ぎないことを忘れてはなりません。人が主の働きに用いられるための秘訣は、主のみこころに従う柔軟さにあります。

10章20、21節では、「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は⋯⋯イスラエルの聖なる方、主 (ヤハウェ) に真実をもって頼る。残りの者⋯⋯は、力ある神に立ち返る」と描かれます。

彼らは国を失って初めて自分の愚かさを反省し、神に立ち返るというのですが、「たとえ、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る」と、増え広がったアブラハムの子孫のごく一部しか救われないとも語っておられます。

そして、「壊滅は定められ⋯⋯すでに定められた全滅を⋯⋯」(10:22、23) とは、神のさばきはすでに決まっており、残りの者の救いも、さばきが全うされた後に起こるという意味です。

ただそれを前提に「シオンに住むわたしの民よ。アッシリアを恐れるな」と語られます (10:24)。それは歴史を動かしているのは、超大国ではなく、イスラエルの神ご自身であるからです。

「もうほんの少しでわたしの憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから」(10:25) とは、主がアッシリアを用いてご自身の憤りを表した後には、その斧として用いられたアッシリアが滅ぼされるという意味です。

さらに「その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる」(10:27) とは、ユダがやがてアッシリアの圧迫から解放されるときを指しています。

ところが10章28~32節に出てくる町々は、エフライムの南端の町から始まって徐々に南下する様子を描いており、これはアッシリアの軍が、サマリアを滅ぼした後、エルサレムに迫るようすが描かれます。そして、「その日のうちに彼はノブで立ちとどまり、娘シオンの山⋯⋯向かって手を振り上げる」(10:32) とは、エルサレムの北東2㎞以内のノブに攻撃拠点が置かれるという意味です。

ところがそこで、「見よ。万軍の主 (ヤハウェ) 、主 (アドナイ) が恐ろしい勢いで枝を切り払われる」(10:33) と描かれます。これは後にアッシリア軍が、御使いによって混乱させられ敗走することを預言したものです。

そして、やがて、「主は林の茂みを鉄の斧で切り落とし⋯⋯」とは、主の「斧」として用いられたアッシリア軍が、別の「斧」であるバビロン帝国によって滅ぼされることを示唆しています。

つまり、エルサレムにとって、滅びが迫っているような状況は、救いが近づいているしるしだというのです。目の前の危機が、神のさばきによるものならば、それが全うされることによって、新しい時代が出現するからです。

イエスの十字架は、神が私たちの罪に怒りを発しておられるしるしです。しかし、それを通して、死の力が打ち破られ、主の復活による新しい時代が実現することになりました。

自業自得で苦しむとしても、そこで主を見上げるなら、さばきは救いの始まりとなります。パウロは、「夜は深まり、昼は近づいてきました」(ローマ13:12)と記しました。暗闇が増し加わることは、光が近づいているしるしだからです。

3.救い主が実現する平和(シャローム)(11章)

11章では、驚くべきことに、クリスマス預言と「新しい天と新しい地」の預言がセットになっています。つまり、二千年前のキリストの降誕は、全世界が新しくされることの保証と見られているのです。

「エッサイの根株から新芽が生え」(1節) と記されますが、エッサイはダビデの父です。彼は羊飼いに過ぎませんでした。ダビデではなく、「エッサイの根株」と呼ぶ中に、救い主の誕生の貧しさが示唆されています。

ダビデ王家は堕落の一途をたどりバビロン捕囚で断絶したように見えましたが、その家系は守られ、ダビデに劣ることのない理想の王が、その同じ「根株」から、没落した家系から生まれるというのです。

救い主は、人々の注目を集めずひっそりと生まれますが、彼の上に「主 (ヤハウェ) の霊がとどまり」ます。それは、イエスがヨルダン川でバプテスマを受けたとき、「聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた」(ルカ3:22) ことで成就しました。

そして主は公の働きを、ユダヤ人の会堂で、「主の霊がわたしの上にある」(ルカ4:18、イザヤ61:1) を引用して宣言することから始められました。

そして、ここでは、その御霊が理想的な王としての働きを三つの観点から可能にしてくれると記されます。

「知恵と悟り」とは、3、4節にあるような、正しいさばき、公正な判決を下すためのものです。

「思慮と力」とは、4節にあるように、外の敵と、内側の敵に適正に対処する計画力と実行力を意味します。

そして、三番目は原文では「主 (ヤハウェ) を恐れる、知識の霊」と記されますが、「恐れる」とは自分ではなく主のみこころに徹底的に服従する姿勢を表し、「知識の霊」とは、客観的な知識というよりも主との生きた交わりを意味します。これは、理想の王が、主との豊かな交わりのうち、生涯を通して父なる神のみこころに従順である姿勢を現します。

そしてこの理想の王は、「正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる」(11:5) とあるように、帯をしっかりとしめて働きをまっとうし、正義と真実で世界を治め、この地に理想の世界をもたらすというのです。

11章6節からは「ダビデの子」の救い主が、ダビデが果たせなかった平和をエルサレムに実現し、エデンの園の調和を再興すると語られます。それが65章17節以降で「新しい天と新しい地」と呼ばれます。

その最初の「狼と小羊、豹と子やぎ、子牛と若獅子」とは食べる側と食べられる側の関係ですが、新しい世界では弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できると描かれます。

「小さな子どもがこれを追う(導く)」とは、エデンの園における神と動物との関係が回復されることです。人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たす植物がありましたから、「熊」も「獅子」も「牛」と同じように草を食べることで十分でしたが、アダムの罪によって「大地は⋯⋯のろわれ」ました (創3:17)。しかし「救い主」は、そのような原初の平和(シャローム)を回復してくださるというのです (11:7)。

また、「乳飲み子」や「乳離れした子」が、コブラやまむしのような毒蛇と遊ぶことができるとは (11:8)、「女の子孫」と「蛇の子孫」との間の敵意 (創3:15) が取り去られ「蛇」がサタンの手先になる以前の状態が回復することです。

さらに「わたしの聖なる山」(11:9) とは、エルサレム神殿のあるシオンの山を指しますが、それが全世界の平和の中心、栄光に満ちた理想の王が全世界を治めることの象徴的な町になるという意味です。

現在のエルサレムが争いの象徴的な町になっているのは、各民族が異なった神のイメージを作り上げているからですが、完成の日には、「主 (ヤハウェ) を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」ので、宗教戦争などはなくなります。

そして、「その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く」(11:10) とは、このような神の平和(シャローム)は、イエスが世界中で「全地の王」として崇められることによって実現するという意味です。

私たちはその世界に一歩足を踏み入れています。

また、「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られる⋯⋯主は⋯⋯イスラエルの散らされた者を⋯⋯地の四隅から集められる。エフライムのねたみは去り⋯⋯ユダもエフライムを敵としない」(11:11–13) とは、主ご自身がイスラエルを奴隷状態から解放するとともに、同族同士の間に平和をもたらしてくださることを意味します。

そればかりか、「主 (ヤハウェ) はエジプトの海の入り江を干上がらせ⋯⋯アッシリアから大路が備えられる」(11:15、16) と、出エジプトの際のような約束の地への道が開かれることを意味します。

それをもとにイエスは、人の子はご自身の使い(弟子たち)を大きなラッパの響きとともに遣わします。すると彼らは天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます」と言われました (マタイ24:31)。

これは今、「新しいイスラエル」としての神の民が、「天から降って来る」「新しいエルサレム」に集められることを指すと思われます。それはこの地ではなく、「新しい天と新しい地」で実現することです。

1963年8月28日のワシントン市のリンカーン記念堂において、マルティン・ルーサー・キングは、「」という有名な演説を行いました。

彼は、白人と黒人との平和を、「狼は子羊とともに⋯⋯」のレトリックを用いて表現して、「友よ⋯⋯今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでも私にはなお夢がある⋯⋯それはいつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくこと⋯⋯アラバマ州で、いつの日か幼い黒人の男の子と女の子が白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである⋯⋯」

その46年後のアメリカで黒人と白人との間に生まれた子が大統領になり、また59年後の英国では植民地支配下にあったインド人の子が首相になっています。

それはキング牧師の「夢」が、現実になっている一つのしるしです。主の再臨で実現する「夢」と、目の前の平和の夢は切り離せない関係にあります。

4.救いの完成を先取りした歌(12章)

12章は1–11章の結論部分で、礼拝の最後の頌栄に相当します。最初の「その日」とは、11章の神の救いが完成する日です。

神はイスラエルの罪に「怒られたのに⋯⋯怒りは去り⋯⋯慰めてくださった」と代表者としての「私」が告白します。私たち人生にも絶望する時があるかもしれませんが、それを通らされた後で、「神は私の救い」、「主 (ヤハウェ) は⋯⋯私のために救いとなられた」と心から告白できます (12:2)。

主の救いは、何よりも、「喜びながら水を汲む」こととして表現されます (12:3)。エルサレムは山の上にあり、城壁の中には泉がありませんでしたが、水がギホンの泉から城壁内のシロアムの池に地下トンネルを通して導き入れられました。

後の時代に、仮庵の祭りの最中、祭司たちは七日間の間、毎日、シロアムの池から水を汲み、約1㎞の道を上り、神殿の祭壇に水を注ぎましたが、その際、この箇所が全会衆によって朗誦されました。ここでは、「救いの泉から」(12:3) と追記されますが、それはイエスを示唆します。

という有名なフォークダンスがありますが、これはこの三節のみことばをそのまま歌ったものです。私たちは「イエスの泉から、喜びながら、水を汲む」者としてこれを踊ることができます。

「その日、あなたがたは言う」(12:4) とは、先の個人の告白が共同体の告白へと広がることです。そこで私たちは、主の救いの「みわざが国々の間で知られるように」と、「語り告げる」ことが求められていますが、その目的は、世界中で主 (ヤハウェ) の「御名があがめられるように」なることです。

それこそ、世界の完成のときです。その宣教の働きは、「歌え!主 (ヤハウェ) を」と記されるように、主への賛美を通してなされるのです。なぜなら、「主がなさったすばらしいことが全世界で知られるように」(12:5)、そのために、「歌え!」と命じられるからです。

つまり、賛美こそ宣教であり、また宣教の目的も、賛美の輪が世界に広がることなのです。その宣教の賛美は、「大声をあげて、喜び歌う」ことを通して伝わります (12:6)。

救い(イエス)の泉から生まれる「喜び」こそが、賛美による宣教の原動力です。喜びのない宣教は力のない教訓に過ぎません。

そして最後に、汚れた民の真ん中に住むことができない「聖なる方」が、「あなたの中におられる」と告白されます。全宇宙の創造主は、今、聖霊によってあなたの中に住んでおられます。それこそ、イエスが「生ける水の川が」、イエスを信じる者の「心の奥底から流れ出る」と言われたことでした (ヨハネ7:38)。

イエスを信じるすべての人の心の奥底には、この生ける水の川の泉が与えられています。私たちは、しばしば、この世的な恐れにとらわれ、この泉に自分でふたをして、流れ出ないようにはしていないでしょうか。

「それでも御怒りは収まらず」(9:12) という悲劇の後に、「ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る」(10:21) と描かれます。そこに救い主が誕生し、この世界を平和(シャローム)の完成に導きます。

私たちはその夢を先取りするようにして、「大声を上げて、喜び歌う」ことができます。主にある夢をともに歌いましょう。