「神のかたち」としての生き方〜Ⅰコリント9:24–27節

ほんの一瞬、95歳の母と会うために旭川空港を二日で往復しました。施設に住でいるために、このコロナ下で面会制限があります。それでも一日に20分間ずつ、二回会えるだけでもと思って、以前から予定していたのですが、今回は、前日に日曜日の朝に痙攣を起こして病院に運ばれました。軽い脳梗塞の症状だったようですが、検査の結果、異常がなくすぐに退院になりました。

入院したら面会制限がかかります。でも、今朝、施設の方が迎えに行く時間に合わせて、ほんの6,7分話すことができました。

この一瞬の会話のために東京と旭川を往復することになりました。本当に時代が変わりました。空港の迎えから宿泊、食事、最後の見送りまで、妹が全部助けてくれました。私たちの世代は、ほんとうに貧しい生活と、豊かな生活の両方を知っているから幸いなのかもしれない⋯⋯などと話しながら⋯⋯

帰りに空港で、面白い本を見つけ、すでに七割がた読んでしまいました。

以前、スマホの危なさを説いた「スマホ能」というベストセラーの本を書いたスウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセンが書いた「運動能」という本です。

その最初に次のように書いてあります

脳にとって最高のエクササイズとは何か?15年前にそう聞かれたら、たぶん私はクロスワードパズルなどを思い浮かべたことだろう。

ところが、多くの人が驚いたその答えは、身体を動かすことだという。身体を動かすと、気分がはれやかになることだけではなく、あらゆる認知機能が向上する。

記憶力が改善し、注意力が研ぎ澄まされ、創造性が高まる。それどころか知力にまで影響がおよぶという。

これぞまさに正解、脳にとって最高のエクササイズにちがいない

この精神科医は、神経科学の様々な実験の結果、不安障害や鬱病に対する最高の処方が「運動」にあると主張します。

今から20年余り前、いろんな意味での牧師としての限界を感じながら、夫婦でスイスに行き、ハンズ・ビュルキ先生の牧会者向けセミナーに参加し、霊性の分野においていろんな意味で革新的な示唆を受けることができました。

そのときに、自分の頭のかたさを思い知らされました。それから間もなくして、僕はスポーツクラブに入会し、週に二回から三回通い、筋トレと共に音楽に合わせて踊るスタジオプログラムに参加しています。

これが僕にとっては神経症に対する癒しの効果を持っているように、改めて思わされました。この「スマホ脳」によると、これが創造性や認知機能にまで効果を持っていたのかもしれないと思い、改めて嬉しくなりました。

音楽に合わせて踊ることを始めてから、十二冊の自筆の本を書くように導かれました。それは神経症的傾向を逆手に取った働き方でした。

振り返ってみると、運動をするようになってからいろんなことが改善して来ました。まさに「運動脳」の開発に役立ったのだと思います。

実は、人間の心も機能も、数千年間何も変わっていないのだと思います。ですから、私たちは今も、数千年前に記された聖書から生きる力と知恵を受けることができます。

いろんな意味で技術が進歩し、移動手段も革新的に進み、平均寿命も二倍にまでなっていますが、「神のかたち」としての健全な生き方は何も変わっていません。

それは親や兄弟を大切にする⋯⋯という当然の生き方ととともに、適度な運動をするということです。

数千年前からの家族愛や生活のリズム、身体を動かすなどという当然のことを行うことが大切なのだと思います。

使徒パウロは運動競技と信仰生活には似た面があることを次のように描いています

競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです (Ⅰコリント9:24–27)

これを見ると、使徒パウロ自身も走ることやボクシングなどの競技に参加していたのかもしれないと思わされます。

とにかく二千年前の人は、移動するためには歩くしかありませんでした。二日で北海道を往復して、ほんの少しだけ母と会話をして、また帰って来て、このようなメールを書くなどと言うことはまったくできませんでした。

でも、それで人間の何が変わったというのでしょう。

家族を愛し、身体を動かすという神のかたちとしての基本的な生き方をないがしろにして、スマホやパソコン画面に向きあっていることは、心の健康のためによくありません。そんなことをふと、思わされました。