中国のゼロ・コロナ政策やロシアでの言論統制のことが話題になりますが、日本もつい80年前は同じような統制下に置かれていたことを思えば、他人ごととは言えません。
イエスの時代のパリサイ人たちは当時の民衆からは尊敬されていましたが、同時に非常に煙たい存在でもありました。たとえば安息日の守り方や身体のきよめの手続きなど、事細かな規定によって人々の生活を縛っていたからです。
そのような中でイエスには、人々から・見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」(11:19) と嘲りを受けるほどに、当時の宗教指導者の枠を超えた自由な生き方が見られました。
ネヘミヤ記を丁寧に読むときに、イエスの時代のパリサイ主義、現代の律法主義的な生活指導の原点をここに見ることもできましょう。ネヘミヤが熱い思いで人々の信仰を正そうとする傍らで、次から次と権力者たちの不正が明らかになり、それに対する強権的な対応がなされます。
確かに、それは当時、必要なことでしたが、それは独裁国家に起きる矛盾と似ているかもしれません。人の心は権力では変えられないことを改めて思わされます。
イエスは私たちに、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(16:24) と言われました。それは問題のただ中に入って、人々の嘲りを受けながら使命を果たす生き方です。
しかし十字架の後には復活があります。そしてこの復活のゆえに、神の救いは人間の心の限界を超えることができるのです。私たちのうちには、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が住んでおられる」からです (ローマ8:11)。御霊はすべてを可能にする創造主ご自身です。
私たちはキリストの御霊によって自分を超えることができます。だからこそ忌み嫌われる十字架をさえ担うことができます。
それを体験するきっかけは、戦争や感染症に現れるようなこの世の「うめき」に合わせて、神の御前で「うめく」ことです。そのとき私たちの内側で御霊ご自身がともにうめき、そこに圧倒的な神の力が働きます (同8:22、23、26–28)。神ご自身が私たちの心を動かしてくださる、これこそ新約の福音です。
1.「あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら……」
13章1節では「その日、民が聞いているところでモーセの書が朗読され、その中に、アンモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった」と記されます。これは申命記23章3–5節に由来し、その理由がここでは「それは、かつて彼らが、パンと水をもってイスラエル人を迎えることをせず、かえってバラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとしたからであった。私たちの神はその呪いを祝福に変えられた」(13:2) と改めて記されます。
ただ、昔のモアブの女ルツの場合のように、その信仰のゆえに神の民へと加えられ、ダビデ王家の先祖となる者もいました。神は一人ひとりの信仰を見ておられます。
しかし、このときは「民はこの律法を聞くとすぐに、混血の者をみなイスラエルから切り離した」(13:3) と描かれます。これは厳しい措置とも思えますが、エズラの改革の基本が外国の女をすべて追い出すことでしたから、当然とも言えます。
彼らは神の民としての純粋さを保ち、それを後の子孫に受け次ぐ必要がありました。彼らは神の民としてようやく約束の地に戻され、これから再出発を図ろうとしています。小さな妥協が、神の民の存在価値自体を無に帰してしまう可能性があったのです。
エルサレム神殿がバビロン帝国に破壊されたのは紀元前586年、ペルシアがバビロンを滅ぼしユダヤ人の帰還を許したのはそれから約50年後の紀元前538年、神殿の再建はその約20年後の紀元前516年のことでした。
ネヘミヤの時代はそのさらに70年後のことです。ただこの時代にこそ、現代のユダヤ人の出発点があります。彼らはそのときからいつも大国の支配下で翻弄され続けてきたからです。
ネヘミヤは1章8、9節で、神に向かって敢えて「思い起こして(覚えて)ください」と訴えながら、申命記28、30章を要約し、神がイスラエルの民に「あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ……散らされた者が天の果てにいても……彼らをそこから集め、わたしの名を住ませるために……選んだ場所に連れて来る」との約束を引用しました。
そこには、さばきと同時に回復の約束が記されていました。そこでは、神の命令を再び守り行うなら、という条件が記されていました。それは先の律法の原点に立ち返ることを意味します。過去に守ることをできなかった命令を再び守るということは決して容易なことではありません。
イエスの時代の律法学者の中には、もしすべてのイスラエルの民がたった一日でも律法を守ることができていたなら、来るべき世界(神の国)は始まっていたであろうに、と宣言する人がいたとのことです。ネヘミヤも同じような気持ちを抱いていたのではないでしょうか。
ユダヤ人のエルサレム帰還から90年余りも進んでいなかったエルサレム城壁の再建工事が、52日間で完成した後、ユダヤ人たちは、ヨシュアに導かれて約束の地に入ってきて初めてとも言われる盛大な仮庵の祭りを祝いました。
そしてその後、祭司やレビ人たちはイスラエルの民全体の悔い改めを導きましたが、その結論として、主に向かって、「ご覧ください。私たちは今、奴隷です……私たちの罪のゆえに、この地の豊かな産物は、あなたが私たちの上に立てられた王たちのものとなっています。彼らは私たちのからだを支配し、家畜も彼らの思いのままです。私たちは大きな苦しみの中にいます」(9:36、37) と訴えながら、神がイスラエルの民を外国の支配から解放し、平和と喜びと栄光に満ちた新しい神の国に入れてくれるようにと嘆願しました。
その上でイスラエルの民は堅い盟約を結びましたが、その内容は10章30–39節に記されていました。それは第一に異教徒の外国人と婚姻関係を結ばないこと、第二は、安息日に異教徒との商取引をしないこと、第三は、「七年目には土地を休ませ、あらゆる負債を免除する」こと、
第四は「神の宮の礼拝のため」のささげ物、第五は「祭壇の上で燃やす」ための「薪のささげ物」に関しての約束、第六は「初なりの果実」を献げる約束、第七は十分の一を主のものとするという約束です。
収穫の十分の一は、神殿で奉仕をする人々の手に渡り、奉仕者の十分の一が神殿に直接ささげられました。このシステムが機能するとき、礼拝は常に祝福され、主への礼拝を中心として神の民が祝福を受けることができました。
2.「祭司エルヤシブは……トビヤのために一つの大きな部屋をあてがっていた」
ところが13章4節では、「これより以前、祭司エルヤシブは……神の宮の部屋を任されていて、トビヤと親しい関係にあった」と記されます。1節にあったようにアンモン人と距離を保つように命じられていたばかりか、彼らを治めていた役人のアンモン人トビヤはネヘミヤの仇敵でしたが (2:10、4:7)、彼はユダヤ人の指導者たちと裏で結びついて、裏からネヘミヤの改革運動を妨害し続けていました (6:17–19)。
そして、ネヘミヤが一時的にペルシアの首都スサに帰っている間にエルヤシブは、この敵である「トビヤのために一つの大きな部屋をあてがっていた」(13:5) というのです。しかも彼はネヘミヤに協力して城壁再建を率先して行ったユダヤの大祭司でした (3:1)。
そして「以前その部屋は、穀物のささげ物、乳香、器……穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一、さらに祭司のための奉納物を保管するところであった」と説明されます。つまり、礼拝を守る最高責任者であるはずの人が、10章の36–39節に記されていた非常に大切な宝物倉の部屋の一つをユダヤ人にとっての最大の敵のトビヤのために明け渡していたというのです。
それはネヘミヤが「バビロンの王アルタクセルクセスの32年に、王のところに行き、その後しばらくして王にいとまを乞い、エルサレムに帰って来た」(13:6、7) というときに起きました(総督としての12年目のとき5:14参照)。
この大祭司はネヘミヤがもうエルサレムには戻らないと思い込み、敵に便宜を図ることによって町を守ろうと思ったのかもしれませんし、またネヘミヤが貧しい民に味方して上流階級の人々に大きな犠牲を強いたことに反発していたのかもしれません。
しかしネヘミヤは意外に早くエルサレム戻ってきて、「エルヤシブがトビヤのために行った悪、すなわち、神の宮の庭にある一つの部屋を彼にあてがったことに気づい」て (13:7)、「トビヤ家の家財をすべてその部屋から外へ放り出し……その部屋をきよめさせ……神の宮の器を、穀物のささげ物や乳香と一緒に再びそこに納め」させたというのです (13:8、9)。
その宝物倉は、民から集めた十分の一を保管し、レビ人に分配するためにありました。しかしそこがユダヤ人の敵に使われたので、「務めに当たるレビ人と歌い手たちが、(生活に困り)それぞれ自分の農地に逃げ去って」いました (13:10)。
それでネヘミヤは代表者たちに「どうして神の宮が見捨てられているのか」と「詰問」し、「レビ人たちを集め、元の職務に就かせ」ました (13:11)。その結果、「ユダの人々はみな、穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一を貯蔵庫に持って来た」ということが再び実現します (13:12)。そして、ネヘミヤは信頼できる人に「貯蔵庫を管理させ」、祭司やレビ人に「分配する」ようにさせました。
このような働きの後ネヘミヤは、「覚えていてください私を、私の神よ、このことのゆえに。私の神の宮とその務めのためにした数々の誠実な行い(ヘセド)を、ぬぐい去らないでください」(13:14) と祈っています。
これは彼が城壁再建工事の間、大量の食糧を私財を投じて用意し、総督手当ても要求をしなかったという記述の後に、「覚えてください私を、私の神よ、私がこの民のためにしたすべてのことを。そして私をいつくしんでください」(5:19) と祈ったことと同じです。彼は自分の神だけを見上げて行動していました。
しばしば、何の報いも求めずに働くことが美徳とされますが、「自己満足……」という表現があるように、基本的に人は何かを達成すること自体に喜びを見出します。要は、自分で自分の褒めることを求めるのか、それとも神の評価を求めているのかという違いかもしれません。
案外、「私は何の報いも求めずに頑張っています」という人が、人を振り回し。結果的に、はた迷惑な行動を取っているなどということがあります。
正義感の前に人は沈黙せざるを得ませんが、大切なのは、人の正義よりも神の正義が実現されることです。しかもネヘミヤは、イスラエルの真の回復を願っていました。そして、そのためには、イスラエル全体が律法を守ることに熱心になる必要があると思われました。
彼は、個人的な報いを求めているようでありながら、いつも、神がイスラエルの民全体にあわれみを注いでくださることを待ち望んでいたのです。
3.「あなたがたが行っているこの悪事は何か。安息日を汚しているではないか」
13章15節で、ネヘミヤは「ユダのうちで安息日にぶどう踏みをしている者……ろばに荷物を負わせている者……ぶどう酒、ぶどうの実、いちじくなど、あらゆる品物を積んで、安息日にエルサレムに運び込んでいる者を見つけ……食物を売ったその日に、彼らを戒め」ました。
さらに、「そこに住んでいたツロの人々も、魚などあらゆる商品を運んで来て、安息日に、しかもエルサレムでユダの人々に売っていた」という状態がありました (13:16)。
そこでネヘミヤは、「ユダの有力者たちを詰問して」、「あなたがたが行っているこの悪事は何か。安息日を汚しているではないか」と言いました (13:17)。
そして、かつてエルサレムがバビロン帝国によって廃墟とされた理由を、「あなたがたの先祖も、このようなことをしたので、私たちの神はこのすべてのわざわいを、私たちとこの都の上にもたらされたのではないか。それなのに、あなたがたは安息日を汚して、イスラエルの上にまたも御怒りを招こうとしている」と断罪しました (13:18)。
エレミヤ17章24、25節では、「安息日を聖なるもの」とすることがイスラエル王家の継続と繁栄の基となり、「この都はとこしえに人の住むところとなる」と約束されます。それに反する場合は「火はエルサレムの宮殿をなめ尽くし、消えることがない」とまで警告されていました (同17:27)。
しかしエレミヤの時代の人々は、安息日を守ることよりも、目先の利益や外交によって国の繁栄や安全を保とうとしていました。
それでネヘミヤは、強制力によって安息日を守らせようと、「安息日の前、エルサレムの門に夕闇が迫ると……扉を閉めさせ、安息日が終わるまでは開いてはならないと命じ……若い者の何人かを門の見張りに立て、安息日に荷物が持ち込まれないようにし」ました (13:19)。
その結果、最初は「商人やあらゆる品物を売る者たちは、一、二度エルサレムの外で夜を過ごした」(13:20) という事態が生じました。しかしそれに対しネヘミヤが「もう一度このようなことをすれば、私はあなたがたを処罰する」と厳しく警告すると、「その時から、彼らはもう安息日には来なく」なりました (13:21)。
そして彼は、「レビ人に、安息日を聖なるものとするために、彼らが身をきよめ、門の見張りとして来るように命じた」と記されます (13:22)。
その後で、再び同じ趣旨の祈りを、「覚えていてください私を、私の神よ、このことにおいても。そして、あなたの豊かな恵み(ヘセド)にしたがって私をあわれんでください」とささげます (13:22)。これも彼が自分自身の祝福を求める以上に、イスラエルが真に神の国として復興することを望んだ言葉です。
4.「異国人の女を妻とし……神の信頼を裏切るという、大きな悪が行われている」
13章23節でネヘミヤは、「そのころまた私は、アシュドデ人、アンモン人、モアブ人の女を妻にしているユダヤ人たちに気がついた」と記します。これも、かつて堅く誓った盟約を破る行為でした。
エズラの宗教改革の中心は異教徒との結婚を排除することにありましたが、数十年もたたないうちに、また同じことが起きていました。
しかもそこでは「彼らの子どもの半分はアシュドデのことばか、あるいはそれぞれほかのことばを話して、ユダヤのことばがわからなかった」(13:24) という事態になっていました。それは当時、聖書の教えを聞くことも、神に向かって祈ることもできない、信仰を捨てたと同じ意味を持ちました。
そこでネヘミヤは再び「彼らを詰問し」ます (13:25)。このことばは三度目ですが、ここでは「ののしり、そのうちの数人を打って毛を引き抜き、神にかけて誓わせ」るということまでして、「あなたがたの娘を彼らの息子に嫁がせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子、あるいはあなたがた自身の妻としてはならない」と厳しく迫りました。
そしてその理由を、「イスラエルの王ソロモンも、このことで罪を犯したではないか。多くの国の中で彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、その彼にさえ異国人の女たちが罪を犯させてしまった」という歴史を思い起させます (13:26)。
それを前提に彼は、「あなたがたについても、異国人の女を妻とし、私たちの神の信頼を裏切るという、大きな悪が行われていることを聞かなければならないのか」(13:27) と「詰問し」ました。
そして28節では再び、トビヤに便宜を図った大祭司エルヤシブのスキャンダルが、その孫の一人がトビヤの親玉のユダヤ人の仇敵「ホロン人サンバラテ」(2:10、19、4:1) の「婿」となっていたと記されます。
イスラエルの復興を願っているときに、大祭司がエルサレム城壁の再建を徹底的に妨害し続けたトビヤとサンバラテと通じ合っていたというのは、何とも恐ろしいことです。ネヘミヤは断固として、この大祭司の孫をエルサレムから追い出しました (13:28)。
先に記したようにエルヤシブはかつてネヘミヤの呼びかけにすぐに呼応して、城壁再建のために動き出した人でもありました (3:1)。人の心は何と変わりやすいことでしょう。
これでは、ネヘミヤの改革は、まるでもぐらたたきのようなことになってしまいます。ひとつの問題を解決したと思って安心していたら、その背後で次の問題の種が育ち、より大きな問題に育ってゆきました。残念ながら、ネヘミヤからイエスの時代に至る450年余りはそのようなことの繰り返しでした。
そのような中でネヘミヤは29節で、「覚えていてください彼らを、私の神よ」と訴えます。「彼ら」を除いてこの表現は14、22節と同じです。そこで「彼らは祭司職を汚し、祭司職とレビ人たちの契約を汚したのです」と訴えます。
宗教指導者たちに対する彼の落胆は、驚くほど深かったことでしょう。彼は、改革における人間の力の限界を、ひしひしと感じていました。そして、必死に神のさばきを求めたのです。
最後にネヘミヤは自分の働きを、「私は異教的なもの一切から彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めに従って職務に就かせ、定められた時に行う薪のささげ物と、初物についても規程も定めた」(13:30、31) と描きます。
彼は総督として最善を尽くしていましたが、それもやがて民の不従順によってないがしろにされることを予感していたのかもしれません。彼は大祭司の裏切りに耐えながら、改革を進めていましたが、深い孤独を味わっていたことでしょう。
そのような中で、神ご自身からの慰めを求めました。その祈りが、この章で四度目の「覚えてください」ということばとともに、「私を、私の神よ」と祈られます。
ネヘミヤの改革は一進一退を繰り返します。それは旧約の限界を示すものでもあります。人々は非常に熱心に神に立ち返りますが、その傍らで何と大祭司自らがそれを台無しにします。
そのような中でネヘミヤはますます強権的に、人々に律法を守らせるような動きをします。これは、後のパリサイ主義に結びつく面があります。
しかし彼は、イスラエル全体が主の律法を熱心に守ることによって、神のあわれみに訴えることができると考えていました。その祈りが、「どうか……覚えてください」ということばとして繰り返されます。彼はイスラエルに神の国が実現することを待ち望んで改革運動を勧めました。
彼のそのような祈りを真の意味で実現したのがイエス・キリストです。ネヘミヤは絶対的な政治権力を持つ立場で改革を行いましたが、イエスは社会的には何の資格もないまま、父なる神の全面的な委託を受けて、人々を神の国へと招き入れました。
それは上からの改革ではなく、人々の心の底に神への愛と人への愛を生み出し、この世界を根本から変革する神の働きでした。この世と調和するのでもなく、この世をさばくのでもなく、この世の痛みやうめきを担いながら、神のみわざに身をゆだねました。
イエスはそのため私たちのすべての罪を負って十字架にかかりましたが、神は三日目にこの方を死人の中からよみがえらせました。私たちも十字架を負うことによって、復活への道を歩むことができます。
ただ現実には、そこで私たちは自分の不信仰と無力さに悩みますが、神はご自身の御霊を与えてくださいました。私たちは自分の情熱や仕組みを作ることによって神の国を実現するのではなく、御霊によって神の国の民とされ、そして、この社会に神の国を広げてゆくのです。
この社会の矛盾を上から見下ろすのではなく、社会の矛盾のただ中に入って、そこでうめきながら、神のみわざを待ち望むのです。人間の限界を超えたことを創造主である御霊は可能にしてくださいます。それこそ真の新約の福音です。