詩篇145篇「神のご支配を感謝しつつ生きる」

2022年1月9日

幼稚科の暗唱聖句にこの詩篇の17–19節、「主 (ヤハウェ) はご自分のすべての道において正しく そのすべてのみわざにおいて恵み深い方。 主を呼び求める者すべて まことをもって主を呼び求める者すべてに 主 (ヤハウェ) は近くあられます。また 主を恐れる者の願いをかなえ 彼らの叫びを聞いて 救われます」を選びました。

少し難しかったという感想もありましたが、幼児に暗唱してもらう聖句を選ぶことには注意が必要です。文脈を理解しないとみことばが信仰のつまずきになる場合があるからです。

たとえば、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイ5:39) ということばを子どもが実践すると、人に踏みつけられ自分の道を開けないようになるかもしれません。その点で、この詩篇のことばはどの部分をとっても誤解を与える心配はありません。

ユダヤ人の Berakhot 4b–16 には、Anyone who recites: “A Psalm of David (Psalms 145) three times every day is assured of a place in the World-to-Come.詩篇145篇を毎日三度唱える者は皆、来たるべき世での場を保証される」と記されます。

それは「この詩篇を唱えることで、自分が神の慈しみに頼っていることを毎日三回認識するようになるから」とのことです。

この詩篇は各節の最初の文字が、ヘブル語の の順番になっています。1節の始まりは、アレフ (א‎) から始まる「崇(あが)めます」ということば、2節の始まりは、ベート (ב) で「日ごとに」の「に」に相当する前置詞、3節の最初はギンメル (ג) で「偉大な」を意味することばから始まります。

ただ、21節で終わるということは、22のアルファベットのうちの一つが欠けているという意味で、それは13節と14節の間に「ヌン (נ)」から始まる文章があったとも解釈されます。しかし、聖書のアルファベット歌は「不完全とも言えるもの」が多数ありますので、欠けた文章があるはずと考える必要もありません。

とにかくアルファベットの順番を生かした詩で、神が全世界の真の支配者であることが人々の心に焼き付くように構成されているとも言えましょう。

この世には様々な自然災害ばかりか不条理な犯罪が起きます。そのたびに、「神が全能なら、なぜこのようなことが起きることを神が許されるのか……」という疑問を覚えます。しかし、人間の歴史を見ると、様々なわざわいは起き続けているという現実が、変わることなく存在します。

それ以上に不思議なのは、そこで、神のご支配を信じて誠実を全うした人々が必ずいるということです。 というユダヤ人哲学者は、「ヒトラーの民族絶滅計画——それは千五百年にわたって福音が宣布されたはずのヨーロッパに生まれた——を経験したあと、ユダヤ教はその原点に向かった……ヒトラー経験は多くのユダヤ人にとって、個人としてのキリスト教徒たちとの友愛のふれあいの経験でもあったからだ。それらのキリスト教徒たちは、ユダヤ人に対してその真心を示し、ユダヤ人のために、すべてを危険にさらしてくれたのである」と言って、ユダヤ人とキリスト教徒の間には、相互補完的な共通言語があることを再発見する必要を訴えています。

そしてこの詩篇こそ、「すべての肉なる者」(21節) を結びつける鍵の歌になるとも言えるように思われます。

1.「代(よ)は代へとあなたのみわざを ほめたたえ」

1、2節では「崇めます」「ほめたたえ(祝福し)ます」「賛美します」という神への賛美の類語が用いられます。「ほめたたえる」とは、英語では bless(祝福、歓迎)と訳されることが多いことばです。

しかもここでは「私の神」と呼びかけながら、同時にその方を「王(統治者)」とも呼びます。それこそ、この詩篇のテーマであり、主 (ヤハウェ) こそが、王たちの王として、この世界を「治めておられる」ということが示唆されています。

また、1、2節と21節の終わりでは「世々限りなく」ということばが繰り返され、主への賛美の永遠性が強調されます。

3節は、「偉大なるは主 (ヤハウェ)」ということばから始まり、この方を「大いに賛美されるべき方」と呼びながら、「偉大 (great) なる」の名詞形で、主の「偉大さ (greatness)」が「測り知ることができない」と描写されます。

4節では「ほめ歌う」(誇る)という、これまでとは違った賛美の類語が用いられ、それが「一つの世代」から「次の世代へ」と受け継がれると言われます。

さらにこの「世代」ということばを主語にして、主の「大能」の働きを「告げ知らせる」とも描かれます。「大能」とは、軍事的な力を指すことばで、11、12節では再びこのことばが用いられ、目に見えない「主の王国」が、この世の様々な王国を支配していると描かれます。

さらに5節では英語で majesty と訳される神の「威厳」の「栄光の輝き」が描かれ、その主の「奇しいみわざ (wondrous works) の数々を 私は思い巡らします」と記されます。

これは英語で meditate とも訳され、この作者が、出エジプトなどの歴史に現わされた神の「みわざの数々を私は思い巡らします」と描かれます。

6節では「人々は(三人称複数形の動詞形)」と「私は」という対比が見られます。多くの人々が「神の恐ろしいみわざ (awesome deeds) の力を述べる」一方で、「私は」神の「偉大さ (greatness)」を語るというのです。

その「偉大さ」は、3節で「測り知ることもできません」と述べられました。この詩篇では「偉大」が三度 (3、6節)、また「大能」ということばも三度登場します (4、11、12節)。そこには神の測り知れないご性質と「が描かれています。

つまり、ここでは人々が神の数々の「恐ろしいみわざの力」を描写する中で、著者はそれを「神の本質」に結び付けて解説しているのです。著者は、世の「人々」の神への思いを導いているとも言えます。

その結果として7節では、彼らが神の「豊かないつくしみの思い出を溢れさせ」、神の「」を「高らかに歌う」ようになるというのです。「いつくしみ」と訳されたことばはヘブル語のトーブの訳で、最も一般的な「善」を意味します。

つまり、人々は歴史上の神の「恐ろしいみわざの力」を神の豊かないつくしみの「思い出」へと変化させたというのです。

それは、たとえば、神がイスラエルの民をエジプトの追手から守り、逃がすために、海を二つに分けて民を通らせ、その後でエジプト軍を海の中に沈めたようなものです。エジプト人にとっては恐怖の記憶ですが、それが世界中の人々にとっても、神の「いつくしみの思い出」へと変えられたのです。

そして、今や世界中の人々がイスラエルの神の「いつくしみ」と「義(正しさ)」を歌うようになっています。ここでの「義 (righteousness)」とは、「いつくしみ」と似た(並行法)、「公正さ」や「信頼性」を意味します。

17節では再び「義」の形容詞形が登場し、それが神の「誠実」という性質と並行されて描かれます。現代ヘブル語ではこの同じ語根からツェダカー(慈善、痛みへ共感)ということばが生まれています。

1–7節では、「私」から始まった主への賛美が世代を超えて人々に受け継がれ、全世界で神の「いつくしみ」(トーブ) と「義」(ツェダカー)が歌われるようになると描かれています。それは、神の御子がこの賛美をご自身の賛美とされ、ご自身の十字架と復活によって、世界中の人々の心を創造主への賛美へと導いたからです。

エペソ人への手紙1章9、10節では、「みこころの奥義」が実行に移された結果「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって一つに集められる」と記されていました。これは英語で recapitulation(再統合)と呼ばれる大切な救いのみわざです。

イスラエルの神が全世界の民にとっての神となるというのが、旧約から新約へとつながる神の「救い」のみわざで、それはすでにこの詩篇にもまた様々な旧約の預言書にも記されています。

イスラエルは本来、宣教師となる民として選ばれていたからです。

2.「あなたの統治は 代々に及びます」

8節のみことばは出エジプト記33、34章の記事を背景にしたものです。主 (ヤハウェ) はイスラエルの民の頑なさを耐えがたく思われ、ご自身が彼らとともに歩み、約束の地に導くことはできないと言われます。それに対しモーセは、「もしあなたのご臨在がともに行かないなら、私たちをここから導き上らないでください」とすがり、さらに「どうか、あなたの栄光を私に見させてください」と驚くべきことを願います (33:15、18)。

それに対する答えとして、主はモーセをシナイ山に上らせ、岩の裂け目に入れながら、「彼の前を通り過ぎ」ます。

そのときに主 (ヤハウェ) はご自身のことを、「主 (ヤハウェ) は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵み(ヘセド)とまこと(エメット)に富み、恵み(ヘセド)を千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である」と紹介されます (34:6、7)。

そこには、ヘブル語でヘセドと表現される契約の愛が千代にまで及び、最終的にはイスラエルの子孫の「咎と背きと罪を赦し」て神の民として回復させると約束される一方で、短期的には、イスラエルの罪への「さばき」としての七十年のバビロン捕囚が示唆されています。

これこそイスラエルの歴史の要約のような表現です。それを導く性質が「あわれみ (mercy)」「情け深さ (gracious)」「恵み(慈愛:ヘセド)」「まこと(エメット)」です。

ここではその前半の若干の語順の違いや「まこと」ということばの省略などがあるものの、そのまま引用され、「主 (ヤハウェ) は情け深く あわれみ深く 怒るのに遅く 慈愛(ヘセド)に富んでおられます」(8節) と記されます。

さらにここで特に不思議なのは、続く9節では、「主 (ヤハウェ) はすべてのものに いつくしみ深い(善であられる)。そのあわれみ (mercy) は造られたすべてのものの上にあります」と記されることです。

これは、主 (ヤハウェ) の「あわれみ」がイスラエルの民の枠を超え、「造られたすべてのものの上にある」と記されていることです。これも、イスラエルの神が、全世界の民ばかりかすべての被造物の神となるという流れです。

イエスの時代のユダヤ人が旧約の教えを「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と理解していたことに対し、イエスは、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われ、その理由として、主の「あわれみ」を、「天におられるあなたがたの父は……ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と描写します (マタイ5:43–45)。その背後にはこの詩篇があったと思われます。

なお9節の「いつくしみ深い」ということばは、7節と同じヘブル語のトーブ(善)の訳です。そこで「いつくしみの思い出」が語られましたが、それは「造られたすべてのもの」対する「あわれみ」として現わされ、それが「造られたすべてのもの」による神への「感謝」につながるというのです (10節)。

人間ばかりか、全被造物の「感謝」のようすが、「主 (ヤハウェ)……に造られたすべてのものが、(主に)感謝すると描かれていることは、詩篇96篇10節では、「主 (ヤハウェ) は王である。まことに 世界は堅く据えられ揺るがない。主は公正をもって諸国の民をさばかれる」と記された後で、「天は喜び 地は小躍りし……野とそこに満ちているものは 喜び踊れ そのとき 森の木々もみな喜び歌う」(11、12節) と記されていました。

皮肉にも、主のご支配が明らかになるとき、人間以前に、「野の獣」の方が「喜び踊る」というのです。

10節後半では「あなたに誠実な者たちは ほめたたえています」と記されますが、「誠実(敬虔)な者たち」と訳されたことばは、先のヘブル語のヘセド(恵み、慈愛)の形容詞形のハシドゥです。

そしてその「誠実な者たち」は、「あなたの王国の栄光を 述べ あなたの大能を 語る」(11節) と記されます。つまり、主の慈愛(恵み)を理解する者こそが「誠実な者」であり、主のご支配の現実を語ることができるというのです。

しかも、その目的は「アダムの子らに」、主の「大能」と、主の「王国の輝かしい栄光」を「知らせるため」であると描かれます (12節)。まさに「誠実な者」こそが、アダムの罪を受け継いで神を忘れるすべての人々に、「主の王国の輝かしい栄光」を「知らせる」ことができると描かれているのです。

そして13節では、主が全世界を治めておられるという現実が「あなたの王国は 永遠にわたる王国 あなたの統治は 代々に及びます」と歌われます。

11–13節で「王国」ということばが四度も繰り返されることは極めて異例です。ダニエル書4章では、エルサレム神殿を滅ぼしたバビロンの王ネブカドネツァルが自分の王権の威光を誇っているときに、神のさばきを受け、牛のように草を食べる状態に身も心を落とされますが、再び神が彼の理性を戻したときに、イスラエルの神の主権を「永遠の主権、その国は代々限りなく続く」と告白したと記されます (34節)。

つまり、栄華を誇る異教徒の支配者に、世の王国の上に、真の神の王国の支配があると明らかになったのです。

讃美歌90番に「ここも神の御国なれば (This is my Father’s world)」という歌があります。そこでは、この目に見える世界全体が「神の国」であると歌われます。

ただ教会の伝統では、「神の国」は神の民の支配領域の中に既に実現しており、それが全世界に広がって神の平和が全世界に満ちるシャロームの世界が完成すると言われます。それは誤ってはいませんが、明確に区別がつけられない面があることがこの詩篇に記されます。

なお、この3番では「よこしま暫しは、ときを得とも 主の御旨の ややに成りて 天(あめ)地(つち) 遂には 一つとならん」と歌われます。これは、「この世界に神の支配の見えない不条理が支配しているように見えるときがあっても、神の支配を忘れさせないでください。神のご計画は進んでおり、天と地は最終的に、神の支配のもとに一つにまとまるのだから……」という希望を語った名曲です。

3.「主 (ヤハウェ) は近くあられます 主を呼び求める者すべてに」

14節では、主 (ヤハウェ) のご支配の現われが、「倒れる者を みな支え かがんでいる者を みな起こされます」と描かれます。これは、人間の王国の支配が、格差社会を生み出し、必然的に社会的弱者を生み出してしまうことと対照的です。

そして15節では「すべての目は あなたを待ち望んでいます」と記されながら、その根拠が「あなたこそは 時にかなって彼らに食物を与えられます」と描かれます。ここでは「あなた」ということばが強調されながら、世の権力者ではなく、創造主である神こそが、全世界の人々のいのちを支えている方であると告白されます。

そして16節では、「御手をあなたは開き」ということばからはじまり、主ご自身の御手が開かれることで、「生けるものすべての願いを満たされます」と告白されます。

私たちはあまりにも人間の知恵と力が達成したものに目が向かい過ぎてはいないでしょうか。この世界に空気が存在し、大地に太陽の光が届き、そこに適度な雨が降るという前提がなければ、人間の技術は何の豊かさも生み出せません。天空の城ラピュタが滅びるように、大地から離れた生活は空しいものです。

そして17節からは、「主 (ヤハウェ) はご自分のすべての道において義(ただ)しく そのすべてのみわざにおいて 誠実(ハシドゥ)であられる」と、改めて神の「義」と「誠実さ(ヘセドの形容詞形)」で神のご支配が信頼できるものであることが強調されます。

そして18節では「近くあられます 主 (ヤハウェ) は」という表現から始まり、「主を呼び求める者すべてに」と描かれます。これは単純に、主 (ヤハウェ) を遠く感じる方は、主を「呼び求める」ことをしていない結果とも言えるかもしれません。

ですから、「真実(エメット)をもって主を呼び求める者すべてに」という解説が追加されます。このことばは「アーメン」と同じ語根のことばです。私たちが祈りの最後に「アーメン」と付け加えるのは、「この祈りは私の真実な思いです」ということを意味しています。

子供の賛美に「祈ってごらんよ わかるから」という楽しい歌があります。その歌詞は、「君は神さまにネ 話したことあるかい?心にあるままを うち明けて 天の神さまはネ 君のこと何でも わかっておられるんだ 何でもね だから空 仰いで 「神さま」と一言 祈ってごらんよ わかるから 小川のほとりでも 人ごみの中でも 広い世界の どこにいても 本当の神さまは いまも生きておられ お祈りに答えてくださる」というものです (新聖歌481番)。

ここには正直に真実に心を打ち明けて、神を呼び求められる自由が描かれています。確かに、「祈っても、何も変わらない……」と思える現実もありますが、そこではどこまで「真実をもって」という動機が問われています。

しかも、「(主を)呼び求める」ということばは「(主に)出会う」という意味も込められています。あなたの願いがかなうという以前に、「神との出会い」自体に意味があるからです。

多くの人は「主のみこころ」は何かと問いますが、主は私たちとの交わり自体を何よりも喜んでくださいます。ですから、右に進むべきか左に進むべきかと迷いながら「祈っている」こと自体が、神のみこころに従っていることです。

それと反対に、神に対して自分の心を閉ざしてしまうことから、恐ろしい悲劇が生まれます。

ただし、私たちはそれ以前に、自分の「願い」が「かなえ」られ、不条理な苦しみの中から救い出されることを願っています。

それに対しての答えが19、20節で、「主を恐れる者の 願いをかなえ 彼らの叫びを聞いて 救ってくださいます。 主 (ヤハウェ) は守られます すべて主を愛する者を」と記されます。

ここには「主を恐れる」こと、「主を愛する」ことがほとんど同じ意味で用いられています。神との人格的な出会いと、自分の「願い」が「かなえ」られ、「いのちが守られる」という体験は、車の両輪のように進むものです。

ただ同時に「しかし、すべての悪しき者を 主は滅ぼされます」ということも知る必要があります。それは、主を呼び求めようとしない者、主を軽んじ、愛そうとしなかった者に対してのさばきは必ずあるからです。

21節では1、2節のように「私」による主への賛美が、「主 (ヤハウェ) への賛歌を 私の口が語ります」と記されながら、同時にそれとともに期待されることが、「すべての肉なる者が 聖なる御名をほめたたえ(祝福、歓迎し)ますように 世々限りなく」と記されます。

著者は、すべての造られたものばかりか「すべての肉なる者」という全人類が、(ヤハウェ) の前にひざまずき、ほめたたえ(祝福する)ようになることを願っているのです。

この詩篇に続く148篇では、「日よ 月よ 主をほめたたえよ 主をほめたたえよ すべての輝く星よ」(3節) などと、全宇宙に対する讃美への招きが記されます。

そして全詩篇の結末は、「息のあるものはみな 主をほめたたえよ ハレルヤ」です。これはラテン語では「Omnis spiritus laudet Dominum ! Alleluja」で、これをもとに多くの歌が生まれています。それこそが歴史のゴールです。

実は、主への個人的な賛美は、同時に全被造物に対する宣教であり、賛美の呼びかけなのです。この世界が完成する時、全被造物が主を賛美します。その賛美の輪に、身近な人々をお招きする必要があります。

私たちはしばしば、神の救いの物語を人々に「説得するように」話しがちですが、神の存在は理屈で証明できるものではありません。理屈で神が分かるなら、神は知恵のある人々にとっての神となります。

神はご自身をこの世の貧しい人、蔑まれている人、無力さを味わっている人々に現わされます。神はご自身のことを、命をかけて主を愛し、状況に関係なく主を賛美する人を通して、証しし続けておられます。

この世に「なぜ不条理があるのか?」と問う以前に、神はこの不条理に満ちた世界で、「私に何を期待しているのか?」をこそ問うべきでしょう。