いじめを無くすための涙ぐましい努力〜詩篇71篇

今朝、NHKニュースを見ていたら、ある学校で、先生が生徒たちにワクチン接種を受けたかどうかを尋ね、挙手によって応答を求めたことが大問題とされていました。学校側は、いじめの原因になるようなことをしてしまったと、深く謝罪し、保護者全員に丁寧な文書を配らざるを得なくなったとのことです。また報道している側も、そのような問いかけはあってはならないことと、問いかけ自体が間違っていたというコメントがなされていました。その先生は、軽い気持ちで生徒に聞いたに過ぎないことが、全国放送で対応を非難されるはめになりました。その先生は大丈夫か……と心配になりました。その理由として、そのような問いかけは、「いじめの原因となる」ということと、日本的な同調圧力が働いて、ワクチン接種を強制する力になるとのことでした。

今年の初めにも、子どもが感染した場合、教師はそれを他の生徒には伝えない、また感染した子どもも、自分の感染を発表してはならないと、先生から注意されるという話を聞いたことがあります。それが子どもにとっては、自分のことを正直に話してはいけないという恐れにつながっているとも聞いています。

学校におけるいじめの原因をなくすように努力することは当然、考えて欲しいことではあります。しかし、同時に、自分と違った人を批判的に見るという人間の性質はどこにでも存在します。

ですから、この社会では、いじめは永遠になくなることはないということも、厳しい現実として認める必要があると思います。大切なのは、「いじめは必ず起きる」ということを前提に、それが起きたときの対応を透明化することではないでしょうか。

または「いじめのレベルをいかに小さく抑えるか」という対処法の方が大切かもしれません。また、いじめを受けた人が、いかに助けを受けやすくするかということの方がずっと大切とも言えます。

実は、いじめの原因をなくそうとする、学校側の涙ぐましい努力が、先生たちを追い詰めているのかもしれません。そればかりか、「いじめが起きるのは、学校の配慮不足、怠慢のせい」という理屈になり、今度は、いじめが起きた時に、学校側がそれを正直に認められなくなるという悪循環を生みます。

今回のコロナもそうですが、それを防ぐことはできない……ということを前提に、みんなに訴えかける必要があります。

ドイツのメルケル首相は、今回の感染爆発が起きた時に、「私たちは感染を止めることはできません」と言い切りました。そして目標を、「感染速度を遅らせて、医療体制を守る」と国民に明確にしました。そして、陸続きのヨーロッパ全体で、医療崩壊が起きる中で、ドイツの医療体制は守られ続けています。

ちなみに、ドイツの高速道路にはいまだに制限時速がありません。僕も昔、ほんの一瞬だけ時速200㎞を超えてBMWを運転したことがありました。交通事故撲滅を考える日本では絶対にあり得ないことです。しかし、みんな互いの意識で、安全運転に落ち着きます。

ところが日本では、どこでも「管理者責任」ばかりが問われます。ですから僕も、緊急事態下で礼拝堂を空け続けることには冷や汗をかき続けています。

詩篇71篇では次のようにダビデが主に祈っています。それは自分がまさに社会的な「いじめ」から守られるようにという祈りです。祈りの中心は、「恥をみないようにしてください」というもので、日本的に言うと、「村八分にされないように守ってください」というようなものです。

私たちはみな互いに人とは違います。それがいじめの原因となります。しかし、自分が神の奇跡の作品としてユニークに創造されたと信じられるとき、すべてが変わります。もちろんそれでも問題が消えることはあり得ません。大切なのは、そこで神に祈り、神にある解決を期待できることです。

詩篇71篇1–7節

主 (ヤハウェ) よ あなたに私は身を避けています。
とこしえに(決して) 私が恥を見ることがありませんように!
あなたの義によって私を引き上げ 助け出してください。
おん耳を私に傾け お救いください。
私のために避け所の岩となってください。
いつでもそこに入ることができるための。
あなたは私の救いを定めてくださいました。
あなたこそ私の巌、私の砦です。

私の神よ 悪者の手から助け出してください。
不正を行う者や残虐な者の手のひらから。
それは あなたこそが私の望みだからです。
主 (アドナイ) ヤハウェは 若いころからの私の拠り所。
あなたに 胎内にいるときから私はいだかれています。
あなたは 母の胎から私を取り上げてくださった方
私の賛美はいつもあなたに向けられています。
私は多くの人にとって奇跡と思われました。
あなたが 私の力強い避け所だからです。