敬老の日の祝福

明日は各礼拝で「敬老の日」の祝福を覚えます。主 (ヤハウェ) は希望を失ったバビロン捕囚の民に向かって次のように語られました。

イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
わたしは運ぶ。背負って救い出す。
イザヤ 46:3、4

幼子とご老人には、無力さを心の底から自覚できるという共通の恵みがあります。社会の中で、ご自分はもう役に立つことができないという痛みを味わっておられる場合がありますが、主 (ヤハウェ) は常に社会で弱さを覚える人の救い主です。

ただ、幼子はそれを言語化できませんが、ご老人は弱い自分を支えて下さる主の恵みを分かりやすく語ることができます。

お年を召された方のお話しを聴く機会を大切にしたいと思います。

以下は、ジェームス・フーストン先生が「キリストのうちにある生活」の第六章で、日本の「敬老の日」に関して記しておられる文章です。2017年に当教会の姉妹の助けを得てこの本を翻訳させていただきました。

欧米の「高齢者への差別」 対 日本の高齢者への敬意

人口学上の日本社会の高齢化は、外国人労働者や移民の制限に伴い、国の深刻な問題となりました。現代の人々は昔に比べると長生きする傾向にあるため、日本のような高齢化が進む社会に苛立ちを引き起こしています。

しかし日本の場合、この問題は国家予算に深い影響を及ぼしているのです。心理学者のカール・フリードリッヒ・フォン・デュルクハイム(訳者注:ドイツ人の学者で日本に精通し、鈴木大拙に知己を得る。日本や仏教に関する著書が多数ある。1896–1988年)は、日本人の学者に対して、「日本の最高の宝は何ですか」と尋ねたことがありました。

すると、「私たちの国のお年寄りの人々です」という答えが返ってきました。生理学では、人間の寿命は最も長くて125年と考えられています。それだけ長く生きた人が日本にいたという記録があるのは、おそらくこのような社会的背景が理由なのでしょう。

今日でも日本には「敬老の日」という国の祝日があり、この日には年配の人々に感謝を表し、長寿を願い、お祝いするほどです!

欧米の文化は、人口統計においては日本よりも活性化していますが、「高齢者差別」の偏見によって、文化的な遺産と知恵を大きく損なう経験をしています。これは欧米社会にとっても、クリスチャンの教会生活においても、深刻な損失です。

社会や教会にとって、素晴らしい潜在的な資源であるはずの成熟した高齢者の知恵が、理不尽に捨て置かれているのです。そのことによって欧米の高齢の人々は自分には価値がないと感じ、社会の中で見えない存在になってしまうという危機に直面していることが多くあります。それはまるで、死ぬ前に「煉獄という名の病院の外来科」にいるかのようです。

ここにおいて、欧米のクリスチャンは日本人のクリスチャンの家族からたくさんのことを学ぶことができます。日本人のクリスチャンの間では、若い人々が年配の人々を尊敬し、高齢の人たちが長い人生を通して体得した「キリストにある」成熟した知恵を得たいと願っています。

しかし老年学に関する新しい職業や産業が、溢れるほどに多量の本を生み出してしまい、その結果として老齢化(エイジング)に関するすべての研究領域が今までにないほどに曖昧なものとなっています。

そうしている間に、東洋においても西洋においても、テクノロジーの発展の影響によって「年齢を重ねることを通して得られる知恵」は脅威にさらされ、価値を失くしてしまい、その代わりに科学技術がとって代わっています。