詩篇73篇「神に近くあることの幸い」

2021年9月5日

「神との交わりを第一にしたら、日々の必要も満たされる」という言い方は、神との交わりを目的達成の手段とすることかもしれません。

旧約聖書でのシャローム(平和、平安、繁栄)を強調する米国のブルッゲマン教授は、「詩篇73篇は詩篇の構造の中でほぼ真ん中にあるばかりか、神学的なまた聖典的な意味においても、聖書全体の中で中心的な意味を持っている」と記しています。

まさにこの詩篇は聖書全体の臍(へそ)に位置すると言えましょう。それは、聖書の神のご支配を否定する者がこの世でシャロームを享受しているように見える中で、「神の近くにある」ことこそが最もすばらしいこと (good) であるという告白です。

1.「悪しき者たちの繁栄 (シャローム) をそのとき私は見ていた」

標題に「アサフの賛歌」と記されますが、彼はダビデが任命した聖歌隊の指導者の一人ですが (Ⅰ歴代16:5)、詩篇50篇の後、この詩篇73篇から83篇にも登場します。ただ、アサフという名は、彼の子孫の聖歌隊の指揮者にも用いられるもので、詩篇79篇などは明確にバビロン捕囚後の嘆きの歌となっています。ですからこの詩篇の時代背景も不明と言えます。

なお1節最初の「確かに(新改訳:まことに)」と訳されたヘブル語は、13節では「何と(ただ)」、18節「確かに(まことに)」と訳される言葉で登場し、この詩篇を三つに分ける鍵となります。それは目に見える現実とは異なった霊的な現実を指す言葉とも言えましょう。

1節では、「確かに神はすばらしい (good) イスラエルに対して、心の清らかな人たちに対して」と歌われますが、新改訳で「いつくしみ深い」と訳されたのはヘブル語のトーブで、好ましいことなど善いこと一般を指す日常用語ですが、このことばが28節の終わりにも登場し、新改訳では「幸せです」と訳されています。ただ、最初と最後に登場する大切な言葉なので「すばらしい」で統一しました。

ただここには、本来、神は、神に信頼する自分にも「善い」方であるはずなのに、そうはなっていないという現実を前提としての表現となっています。

それが2節で、「しかし、この私は 足がつまずきそうで、歩みも流され(滑り)かけていた」と自分には神の「すばらしさ」が届いていないという現実を語ります。

そして自分の心の葛藤が、3節で、「それは私が誇り高ぶる者をねたんだから。悪しき者たちの繁栄 (シャローム) をそのとき私は見ていた」と記されます。著者は、神の御前に遜ることのない「誇り高ぶる者」が「シャローム(繁栄、平安)」を味わっているのを見て「ねたみ」を覚え、自分が必死に神に従おうとする「足がつまずきそうになり」、また「歩み」も安易な方向に「流されそうに」になるのを感じています。

神の救いのゴールはシャロームであるのに、それを神に向かって高ぶるような人間が、今ここで体験していることに腹立たしい思いを抱いているのです。

さらに4、5節では「誇り高ぶる者」たちが体験しているシャロームが「まことに死に際しても彼らには苦痛がないばかりか、その身体もいたって健やかだ。 人が苦役のうちにいても 彼らはそうではない。ほかの人 (アダム) のように 打たれることもない」と描かれます。

この世界の道徳基準を人々が守る際の心の動機に、「悪しき者の家には、主 (ヤハウェ) ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される」(箴言3:33) と記されるような、この地上での公平なさばきが見られることが大切です。「正直者がバカを見る」ような社会では、人々が誠実に生きようと願う善意に水が差されてしまいます。

ところが現実には、悪人が大往生を遂げ、誠実に生きてきた人に無実の罪が着せられ「打たれる」という不条理がどこにも見られます。しかも、多くの人々は、良い成果を出せたという結果ばかりを見て、人の価値を測ろうとします。そのような中で、目的のためには手段を選ばないような乱暴な生き方が是認されることになってしまいます。

そのような中で彼らに起きることが、「それゆえ高慢が彼らの首飾りとなった。 暴虐が彼らを衣のようにおおっている」(6節) と描かれます。それは「高慢さ」「暴虐」がこの世の成功をもたらした美徳かのように見られる価値観の逆転が起きている状態です。

さらに「彼らの目は脂肪で膨らんでおり」(7節) と記されますが、これはその眼差しから憐みが消えているというイメージで、フランシスコ会訳では、「彼らの目は冷ややかに光り」と記されています。この百年余りの独裁者たちの写真にはそのような特徴が見られることでしょう。

さらに「その心で想像することがあふれ出ている」とは、自分の「心で想像すること」を偶像のように絶対化するという意味です。最近の中国では習近平思想を子どもたちに教える姿に似ています。

また「彼らは嘲り 悪意をもって語っており、 高い所から虐げを語っている」(8節) と描かれる姿は、ネブカドネツァル王が自分に似せた「金の像」を作らせて人々に拝ませ、それを拝まない者を「燃える火の炉」に投げ込ませるようなことを指しています。

さらに「彼らはその口を天に置いた」(9節) とは自分のことばを天の神の立場に置くという傲慢な姿です。現在の中国でも昔の日本でも、聖書の教えで国の体制に矛盾すると思われるものは教えることが禁じられました。

続く「またその舌は地を行き巡っている」とは、高ぶる者の思想が人々の行動を変えるようすを示しています。

そして、その結果が、「それゆえ この民はここに帰っており、 豊かな水は彼らに汲み尽くされている」(10節) と描かれます。これはたとえば、黙示録13章14–17節で、獣の像を拝まない者が社会の経済活動から締め出されたような状態を現わします。第二次大戦下の日本でも、天皇の肖像を拝まない者は非国民とされました。現在のアフガニスタンでのタリバンの支配下で、彼らのイスラム教理解に反する者は生きて行けない状態に追い込まれそうです。

11節に「そして彼らは、『どうして、神が知るだろうか』と言っている。『いと高き方に知識があるだろうか』などと」と描かれますが、これは聖書の神の支配を否定する考え方が広がるようすです。

たとえばバビロン捕囚から帰還した神の民でさえ、「悪を行う者もみな主 (ヤハウェ) の目にかなっている……いったいさばきの神はどこにいるのか」(マラキ2:17) などと言いながら、神がこの世の悪を見過ごし、ご自身のさばきを明らかにしないことを非難したようすが記されています。

そして、12節はこれら一連の結論として、「見よ。これが悪しき者、彼らはいつまでも安らかで 富を増している」と描かれています。残念ながら、創造主のご支配を否定し、自分を神の立場に置くような者が、この世界で成功しているように見える現実があります。

2.「ただそれは、神の聖所に入るまでであった。そこで私は彼らの最後を悟ることになった」

13節では、「何と空しく 私はこの心をきよめたことか。 また潔白のしるしに この手を洗ったことか」という作者の嘆きの告白が記されます。これは創造主に向かって自分の心を透明な純粋な状態に保つために努力し続けたこと、また自分が潔白であることを示すために「手を洗う」ようなことを指します。

詩篇24篇3–5節では、「だれが 聖なる御前に立てるのか。手がきよく 心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人。その人は 主 (ヤハウェ) から祝福を受け 自分の救いの神から義を受ける」と約束されています。

しかし、その約束が「空しく」感じられるというのが著者の気持ちです。

それは現実に、「一日中 私は打たれるようになったばかりか、朝ごとに責められ続けている」(14節) という不当なことがまかり通っているからからです。それは5節で記された「悪しき者たち」が「ほかの人 (アダム) のように打たれることもない」という現実と対照的です。

そして15節ではそのような不条理を前提に、「もし私が『このままを話そう』と言ったなら、見よ、あなたの子らの世代を裏切ることになっただろう」と告白されます。それは、神の前に誠実を尽くしても、それが報われなかったという証しを正直に話すことによって「神の子らの世代」の信仰につまずきを与え、「裏切る」ことになるという恐れを告白したものです。

16節では、「そしてこれらのことを理解しようと思い巡らしたが、それは私の目には苦役であった」と告白されます。ここでの「苦役」とは5節と同じことばで、多くの人が苦役を負わされるような状況下にあっても、「悪しき者たち」は苦役と無縁に生きていられるという現実を描いた際のことばです。

つまり、著者はただでさえ「一日中……打たれ 朝ごとに責められ続けている」という苦難の中に置かれている状況下で、そこで人生の不条理の理由をさらに「思い巡らして」みても、それが単に「苦役」を増し加えるだけになるという皮肉です。しかし人には、この世の不条理の理由を考えずには生きられないという現実もあります。

それと対照的に17節では、「神の聖所に入る」という礼拝を守る恵みの中で、そのような不条理に対する神の視点が見られるという霊的な希望が描かれます。

そのことが、「ただそれは、神の聖所に入るまでであった。そこで私は彼らの最後を悟ることになった」と描かれます。昔から、どのような宗教でも、この人生の不条理に対する答えを人々に明らかにしようと様々な解釈を生み出してきました。ときに新興宗教などでは、「あなたがこのような不幸に会っているのは、十代前の先祖が、恐ろしい罪を犯したからで、その償いが今のあなたに課せられている」などと言いながら、多額の供え物を要求されることさえあります。

それに対して私たちがキリストを通して見せていただいている神秘は、イザヤ53章の「苦難のしもべ」の姿に現されています。

そこでは、「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主 (ヤハウェ) の御腕はだれに現れたか……彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った……彼への懲らしめが私たちに平安 (シャローム) をもたらし、その打ち傷のゆえに私たちは癒された」(1、3–5節) と、私たちの病や痛みを担ってくださる苦難のしもべとしての救い主の姿が描かれています。

ここで興味深いのは、救い主への「懲らしめ」が、私たちにシャロームをもたらすことになったという驚くべき逆説です。

私たちもこの世で不当な苦しみに会い、不条理の中で、神に従うことの「空しさ」を感じることがあるかもしれません。しかし、私たちはキリストの苦難が私たちにとってのシャロームになったことを覚えるとき、私たちがこの世で出会う不当な苦しみにも、同じような創造的な意味があることを信じることができます。

私たちはこの世での苦難の理由を、何らかの原因に遡って理解しようとしますが、大切なのは、その不当な苦しみを神の視点から捉えなおし、そこに創造的な意味を見出すことができるようになることです。

3.「ただ私には 神に近くあることこそがすばらしいこと (good) です」

著者の何よりの葛藤は、悪しき者たちのシャロームでした。しかし、神は彼らを非常に危ない状態に置いておられました。

そのことが18節で、「確かにあなたは彼らを滑りやすい所に置いておられ、彼らを滅びに突き落とされます」と描かれます。彼らのシャロームは、実は、すぐにも失われる危険の中での束の間のものだったのです。

この「滑りやすい所」ということばは、2節とは異なったことばが用いられていますが、外面的な現実としては著者の歩みが不安定に見える一方、悪しき者の生活の方がずっと安定しているように見えます。

しかし、実は、「誇り高ぶる」権力者自体が、歴史上の独裁者たちの終わり方をだれよりもよく知って、秘密警察の手などを用いて民衆の反抗を抑えようと必死になっています。彼らは外面的にはシャロームのうちにあるように見えて、彼らの心は不安でいっぱいになっていると言えましょう。

そして、19、20節では彼らの最後が、「ああ 彼らは瞬く間に滅ぼされ、突然の恐怖で滅び失せることになります。それは目覚めのときの夢のようなものです。 主よ、あなたが起き上がるとき 彼らの姿を蔑まれます」と描かれます。

ここでは悪しき者のシャロームの儚さが、「目覚めのときの夢のよう」と例えられます。実際、「目覚めのときの夢」は、驚くほどはかなく、すぐに消えてしまいます。

そして、その彼らの一時的なシャロームを立ちどころに滅ぼす際のことが、主ご自身が「起き上がるとき」と描かれます。それは私たちの目には、詩篇44篇23節に描かれるように、「起きてください。主よ なぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください」と祈りたくなるような現実があるからです。

そして、21、22節で著者は、自分の過去を振り返りながら、「この心が苦しみに満ちていたとき、 また内なる思いが突き刺されていたとき、この私は愚かでわきまえもなく、あなたの前で 獣のようになっていました」と告白しています。

それは、自分が悪しき者のシャロームを見て、妬みを覚え、また神の前に「心をきよめ」ようと務めたことが、「空しく」思えていたときの心の状態を指します。

詩篇49篇20節でも、「人は栄華のうちにあっても 悟ることがなければ 滅び失せる獣に等しい」と記されますが、「獣」は自分がどのような状態に置かれているかを認識しないまま「滅び」に向かっているのです。

星野富弘さんの詩画集に、親豚と子豚の絵を描きながら、次のような詩が記されていました。

何だってそんなに あわてるんだ
早く大きくなって 何が待っていると いうんだ

子豚よ
そんなに急いで 食うなよ
そんなに楽しそうに 食うなよ

これは、自分がどこに向かっているかも知らず、この世の成功を一日も早くつかみ取ろうとあくせく生きている人間に対する警告のことばとも言えましょう。それが「愚かでわきまえもない」状態の心を指しています。

つまり、はかない夢のようなシャロームを今喜んでいる人も、そのような誇り高ぶる人のシャロームを今妬んでいる人も、餌をあわてて食べている愚かな豚に似ているというのです。

それに対し23、24節では、「しかし 私は絶えずあなたとともにいました。 あなたはこの右の手をしっかりとつかんでくださいました。 あなたは私を諭しながら 導き続け、 後には栄光のうちに受け入れてくださいます」と告白されます。

これは私たちがときに「愚かでわきまえのない獣」のような状態にあったとしても、神との交わりの中にいるということ自体の恵みを描いたものです。私たちは自分の不信仰や罪深さに対し自己嫌悪を覚えるようなときがあります。しかし、礼拝に出席し、また日々主の前に静まるときを持っていること自体が何よりも大きな恵みなのです。

その関係の中で、主ご自身が私の「右の手をしっかりとつかんで」くださっています。そして、主は私たちのみことばを用いて「諭しながら導き続け」、「後には」復活の「栄光のうちに入れてくださいます」。

イエスご自身がこの世で不当な苦しみに耐えながら、栄光の復活にあずかりました。キリストの復活は私たちの復活の「初穂」(Ⅰコリント15:20)、先駆けなのですから。

そして25、26節では、「あなたのほかに 天では だれが私にいるでしょう。 地では 私はだれをも望みません。この身も心も衰え果てることでしょう。 しかし 神はとこしえに 私の心の岩 割り当ての地です」と告白されます。

私たちはこの世界で、目に見えるシャロームに憧れます。しかし、大切なのは、そのシャロームを与えてくださる主ご自身との交わりです。聖書の神は、ことば一つで、太陽も地球も創造された方です。私たちが憧れる天の祝福の核心は、主との交わりに他なりません。

この地のすべてのものもやがて過ぎ去って行きます。イエスは終わりの日の苦難を語りながら、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マタイ24:35) と言われました。私たちは消え去るものに目を向けるのではなく、消え去ることのない現実に目を向ける必要があります。

私たちは今、主を礼拝するためにこの場に集まっています。そして、歴史のゴールとは、この礼拝の場が完成するところにあります。この世の仕事も楽しみも「消え去り」ますが、主への礼拝は完成に向かっていることを忘れてはなりません。

なお、「この身も心も衰え果てることでしょう」という現実は、自分の身体も心も、心がけ次第で健康に保ち続けることができるようなものではないという冷酷な現実を指します。どれほど身体を鍛え、栄養補給に気を使ったとしても、それが無益になるときが来ます。

「しかし 神はとこしえに 私の心の岩 割り当ての地です」とあるように、創造主ご自身が私たちの「心の岩」として私たちを守り、また「割り当ての地」として、私たちの生活の土台となってくださいます。この身や心よりも、主ご自身に私たちの望みを置くべきです。

27節では「誇り高ぶる者」「悪しき者」の人生の定めが、「まことに見よ あなたから遠ざかる者は滅びます。 あなたに不実を行う者すべてを あなたは絶ち滅ぼされます」と描かれます。

神のさばきが見えないときがあっても、私たちはいつもこの厳粛な霊的な事実をいつも心の目にしっかりと焼き付けている必要があります。それこそが「神を恐れる」生活の基本です。

そして、神から遠ざかることとの対比で、「ただ私には 神に近くあることこそがすばらしいこと (good) です」(28節) と告白されます。これによって、確かに「神はすばらしい」から始まった賛美が完結します。

「神に近くある(神のみそばにいる)」とは、修道院に入るとか、伝道者になるとかいうようなことではなく、日々の主との交わりの生活自体を指します。

主はいつも私たちとともにいてくださいますが、主との交わりを体験するためには、時間とか場所を聖別することが大切です。神の御前に自分の葛藤や悩みを注ぎ出したあとに、主にある平安を味わえることがあります。そのような中で、神からの一方的な恵みとして体験できる「神に近くある」という主の臨在の体験を指しているとも理解できます。ただそれは意外に、電車の中や雑踏の中でも体験できることとも言えます。

そしてそのことが最後に、「主ヤハウェを 私の避け所としました、それはすべてのみわざを語り告げるためです」と告白されます。私たちにシャロームをもたらすのは、富や権力や人からの信頼である前に、主ご自身を自分の「避け所」とする主との交わりの中に生きることです。

そして、この世界のゴールは、すべての人が聖書の神ヤハウェを自分の主と告白し、主のご支配がすべての人に明らかになることですから、私たちはこの地では、主の恵みのみわざを一つ一つ数え上げ、それを証しする必要があります。

詩篇作者は、「誇り高ぶる者をねたんだ」中で「何と空しく 私はこの心をきよめたことか」と告白しました。しかし、イエスは「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」(マタイ5:8) と言われました。

「神の近くにある」こと、心の目で「神を見る」こと自体が何よりも「すばらしいこと(幸せです)」。詩篇27篇でも、「一つのことを 私は主 (ヤハウェ) に願った……私のいのちの日の限り、主 (ヤハウェ) に家に住み、主 (ヤハウェ) の麗しさを見つめ、その宮で深く静まることを……あなたの御顔を、主 (ヤハウェ) よ。私は慕い求めます」(4、8節) と告白されています。

私たちはそのように「神の近くにある」という体験を求めるべきではないでしょうか。