ルカ1章26〜56節、2章1〜20節「貧しい処女から生まれた救い主」

2020年12月20日

現在の日本の株式市場は30年ぶりの活況を呈しており、新型コロナ蔓延によって記録的な収益をあげる企業が登場しています。一方、多くの飲食業等のサービス産業が倒産の憂き目にあっており、自殺者が急増しています。

たとえば7-11月の自殺者数の合計は9,566人(前年同期比1,353人増)、同じ期間の新型コロナ死者数は1,178人です。日本の自殺者数はコロナ死者数の10倍に近いことが世界の話題になっていますが、この傾向は来年にかけてますます進むことでしょう。

そしてそこに私たちキリスト教会が果たすことができる役割があります。クリスマスは貧しく孤独な人への福音だからです。

1.「あなたのおことばどおりこの身になりますように」

あるとき御使いガブリエルが処女マリアに現われ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と呼びかけます。カトリック教会では、これが聖母マリアに、罪人である私たちのために祈ってくださいと嘆願する祈りの最初のことばになっています。

ただ、アヴェ・マリアとは、「おめでとう、マリア」という御使いの挨拶のことばであり、それに続く言葉も、御使いとエリサベツのことばすから、アヴェ・マリアという曲自体をマリア崇拝として退ける必要もないと思われます。

ただ、後半2行の歌詞だけは、「お祈りください、私たち罪人のため、私たちが死を迎える時にも」という、地獄のさばきを受けないようにマリアにすがるものですからプロテスタントの教会でこの歌詞を歌うことはないと思われます。

ただ、これを最初に聞いたマリアにはそう言われる理由が分からずに戸惑っていると、御使いは続けて、「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。あなたは身ごもって、男の子を産みます」(30、31節) と告げます。これを恐がらないでいられましょうか?彼女はヨセフと婚約していましたから、妊娠は、石打の刑に相当する罪を犯した結果と見られます。

ところが彼女は、ただ御使いが語る言葉にじっと耳を傾け続けます。すると御使いはさらに、「その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません」(31-33節) と言います。

イエスとはイスラエルを約束の地に導きれたヨシュアのギリシャ語名であり、この子は「いと高き方の子」と呼ばれ、ダビデの王位に就いてイスラエルを治め、その支配は永遠であると途方もないことが言われます。とにかく、待ち望まれた救い主は、ダビデ王国を再興して下さる方なのです。

マリアは、自分たちの国の現状に心を痛めていました。外国人が自分たちを支配し、暴力と不正がまかり通り、人々は貧困にあえいでいました。ですから、彼女は当然ながら、救い主が来られるのを待ち望んでいました。

しかし、その救い主が、自分の身を通して生まれるということに関しては、あり得ないことと思われ、「どうしてそうなるのでしょう。私はまだ男の人を知りませんのに」(34節) と答えます。これは、拒絶でも不信仰でもなく、「どのように」という疑問です。彼女の関心は、自分の身の安全を守ろうとすることではなく、まだ処女である自分から、どのように子が生まれ得るのかということでした。

そこで御使いは、聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(35節) と答えました。つまり、全能の神の霊、聖霊が彼女の上に下ることによって、彼女は、何と、処女のまま子供を生むことになるというのです。そして、「それゆえ生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」とあるように、生まれる子の本当の父は、神ご自身なのです。

その上で、彼女の信仰の応答を引き出した決定的なことばこそ、「神が語られるすべてに不可能はあり得ない」(37節脚注参照) です。もし、真実に、このことばを腹の底で受けとめるなら、私たちの人生は決定的に変わるのではないでしょうか。

多くの人々の真の問題は、自分の身の安全を優先するあまり、神のご計画に対して自分の心を閉ざしてしまうことにあると言えましょう。神が無力なのではなく、あなた自身の応答が問われます。

マリアの応答の最初は、「ご覧ください。私は主のはしため(奴隷)です」(38節) でした。私たちは、自分の願望をかなえてくれる神を求めてしまいがちですが、それは自分を主人の立場において、神を奴隷のように動かそうとする態度に結びつく危険があります。

ただ、それは自分の願いを訴えてはならないという意味ではありません。神に、問題の解決の方法を指定するのではなく、自分が味わっている不安や孤独という感情を、そのまま正直に打ち明け、へりくだって助けを求める姿勢こそが大切です。

そしてここでマリアが述べた、「あなたのおことばどおりこの身になりますように (Let it be to me according to your word)」こそ究極の祈りの模範です。これは能動的受身形とも呼ばれます。それは自分の心と身体を大胆に明け渡して、神のみこころが自分を通して実現するように任せることです。

キリストは、この祈りの応答を通して、人となられました。そして、六か月前に妊娠していたエリサベツはマリアを、「あなたは女の中で最も祝福された方」(42節) と称賛したばかりか、「私の主の母」(43節) と呼びました。

ここから歴史的な信条で、マリアを「神の母」と呼ぶことになります。それにしてもマリアは、自分を主のはしためとして差し出した結果、主の母となることができたとも言えましょう。

主の祈りでは、「御名があがめられますように……みこころが行なわれますように」という三人称単数の受動命令形という特殊な形が用いられています。これは、「私に、御名をあがめさせてください。私に、みこころを行なわせて下さい」という願いでも、「あなたが、ご栄光を表わしてください。あなたが、みこころを行なって下さい」という願いでもありません。

つまり、「私が、私が」という能動態でも、「あなたまかせ」の受動態でもありません。「私が……」にとらわれると、自分を常に何かの働きに駆り立てて休むことができず、また周りの人をも振り回します。反対に、「あなたがなさってくださらなければ……」という姿勢に流れすぎる人は、怠惰に逃げ込み、神のかたちに造られた自分をさげすむ結果になります。

この祈りの形は、能動性と受動性を包括するもので、能動的な受動性を表わします。

主の祈りの第三は、「あなたの御意思が、私たちのうちに行なわれるように」という願いです。たとえば、あなたがまわりの「うめき」(ローマ8:22) の声に心の耳を開き、福音書にあるイエスの姿を黙想します。すると「イエスは、今、私のからだを用いてご自身のみわざをなしたいと願っておられる……」と、心に迫ってくるかも知れません。

それに身を委ねるとき、感謝されたいという思いに動かされるのでも、「私なんか何もできない」という思いに縛られるのでもなく、神のみこころに動かされた、神の愛のわざがなされるのではないでしょうか。それこそ、私たちのあらゆる能力と個性がフルに生かされる生き方です。

2.すべてを逆転させる神の力

46-55節はマリアによる賛歌ですが、その初めのことばはラテン語で、Magnificat(あがめる)なので、マニフィカートと呼ばれる賛美の模範です。原文の語順では、「あがめます、わがたましいは主を。喜びたたえます、わが霊はわが救い主である神を」(46、47節) と記されています。それぞれ文章の初めと終わりのことばが強調され、「わがたましい」「わが霊」ということばは文の真ん中に控えめに記されます。

マリアは全身全霊で神をあがめているのですが、そこで自分の存在を隠そうとしています。そこには自分が救い主の母になるという気負いではなく、神をわが救い主として、心から「喜んで」いるのです。

さらに彼女は、「主がこの貧しいはしために目を留めてくださった」(48節) という点に何よりも心を向けます。

そして、その後の人生に起こり得る様々な困難を覚悟しながらも、最終的な祝福を信じ、「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私を祝福されたと見るでしょう」という希望を告白します。

その根拠は、「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」(49節) という点にあります。私たちの信仰は、「神が私に目を留めてくださった」という一点から始まります。自分の信仰や自分の能力、自分の性格を見る前に、神の眼差しに心を向けることからすべてが始まるのです。

神があなた一人に個人的に目を留め、あなた一人に語りかけ、あなたのうちに、神への愛、イエスへの信頼を起こして下さいました。それこそ、神の再創造のわざでした。既にあなたのうちに神の奇跡が始まったのです。

そして、御名は聖であられます」とは、 (ヤハウェ) がこの地上のいかなる概念も超えた方であることを描いたものです。そして、「あわれみ」ということばは旧約の「真実の愛」(ヘブル語のヘセド)に対応するということが新改訳の脚注に記されています。

そしてここでは、「主のあわれみは、代々にわたって及びます、主を恐れる者に対して」と付け加えられます。バビロン捕囚以降の歴史の中で、「主を恐れ」、誠実を全うすることが何の益にもならなかったという時代が長く続いたように思えましたが、そのような不条理がまかり通る時代が過ぎ去り、神のあわれみ、神の真実の愛が再び明らかにされるのです。

そして、51-53節で三つの観点から、主がもたらしてくださる逆転が描かれます。

第一は、主はご自身の「御腕で力強いわざを行い」ます。それはたとえば、主がイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放したことを指します。そのとき、自分を神と「思い高ぶるファラオを海の水で「追い散らされ」ました。

同じように「主は……権力ある者を王位から引き下ろし、低い者を高く引き上げられ」とは、たとえばエルサレムを滅ぼしたバビロンの王ネブカドネツァルが一時期、人間の中から追い出され、牛のように草を食べる獣に引き下げられ、その後、王位に戻されたこと、それを捕囚とされたダニエルが告げ、彼がバビロン帝国からペルシャ帝国に移る時代にも最高の高官として国を治めたことに現わされます。

さらに、第三の「飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返される」とは、預言者エリヤが地中海岸の貿易都市シドンのツァレファテの一人のやもめを養い、その息子を生き返らせた一方で、アハブを迫害した女王イゼベルは、その遺体が犬に食べられることになったことなどに現わされています。

主は、自分の知恵や力を誇る権力者や富む者の横暴をさばくとともに、貧しく弱くとも、主を恐れて誠実に生きる者を引き上げてくださいます。それこそが聖書の物語の核心です。

さらに、「主はそのしもべイスラエルを助けてくださいました、そのあわれみを思い起こしながら」と記されます。ここでの「しもべ」にはご自身の所有物という意味があり、「助ける」というのもしっかりと捉えているという意味があります。

そして、「あわれみ」とは先と同じように「真実の愛」とも訳すことができることばです。これは、一見、イスラエルがバビロン捕囚以降、外国の支配下に置かれてはいても、主がご自身の契約の愛のゆえに、ご自分の大切な宝として守り通してくださるという意味です。

そして55節では、その契約は「アブラハムとその子孫」と結ばれたものです。聖書の核心の物語とは、主がアブラハムを世界の祝福の基とすると約束されたことが一つ一つ成就して行くことに他なりません。

マリアは心から自分の弱さを自覚していました。しかし、主は人間的には誰からも評価される有能な使徒パウロの力を砕き、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」(Ⅱコリント12:9) と言われました。そして驚くほどひ弱な一人の処女マリアを通して神の圧倒的な力が現わされることになります。

私たちの問題は、自己満足に浸りながら、全宇宙の創造主が、この人間的な強さや弱さの枠組みを乗り越えて、ご自身の「あわれみと」「その御腕」を示しておられることを受け止めることと言えましょう。

3.皇帝アウグストと嬰児イエスー栄光と貧しさの対比ー

2章の最初に登場する「ローマ皇帝アウグスト」とは、戦いに明け暮れた古代ヨーロッパ、中東、アフリカに渡る地に四百年間もの平和の基礎を築いた、歴史上最も偉大な政治指導者の一人です。

その皇帝の命令によって、「人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行」(3節) かざるを得なくなりました。そして、ヨセフも臨月を迎えるマリアを伴って、イスラエルの北部の町ナザレから南部の町ベツレヘムまで、ヨルダン川東経由で徒歩で1週間余りもの距離を、しかも、高低差が千二百メートルもある険しい道を、ただ、「登録するため」(5節) だけのために歩かなければなりませんでした。

その上で、預言されたダビデの子であるイエスの誕生という重大事が、驚くほど簡潔に次のように記されます。

ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで、飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(6、7節)

救い主の誕生の様子は、これしか描かれていません。たとえば、聖誕劇では、ヨセフとマリアがベツレヘムに着いてすぐに宿屋を捜したけれどもどこも満室でどうにか馬小屋に入れてもらったかのように描かれますが、そのようなことは何も記されていません。

ただ、「彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて……」(6節) と記されているだけです。それは、彼らがベツレヘムに既に一定の期間滞在していながら、誰からも助けてもらえなかったことを示唆しています。

しかも、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(7節) のは、マリア自身です。出産を助けてくれる人が誰もいなかったのです。ヨセフの様子は描かれていませんが、ただおろおろとしていたのかも知れません。

また、「飼い葉桶」が、「家畜小屋」の中にあったとも記されていません。昔の人は、それは町はずれの洞穴の中だった推測していました。

実は、何よりもここで強調されているのは、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(7節) という一点なのです。なお、当時の宿屋は極めて粗末、かつ危険であり、豊かな人々は、親類や紹介された家に泊めてもらうのが普通でした。

ところが、ヨセフはダビデの家系だというのに、誰の紹介も受けられませんでした。つまり、彼らは「貧しい人が泊まる宿屋にさえ、居場所がなかった」と言われているのです。

マリアは誰の目にも出産間近と見えたことでしょう。それなのに、何日もの間、その粗末な宿にさえ入れてもらえませんでした。これは、彼らが誰からも相手にされなかったことを示唆しています。

暖かい宮殿で、多くの人にかしずかれながら出された皇帝の命令が、マリアをこのような惨めな出産に追いやりました。しかし、それを導いておられたのは、天の王である神様でした。

それは、イエスが、世界の創造主で、すべてを支配しておられる方なのに、「いる場所がない」という人の仲間になってくださったということを意味します。自分の居場所がないということで悩むのは、ホームレスの方々ばかりではありません。今年の10月の日本での女性の自殺者数は前年同月比82.6%増の851人でした。何と多くの方々が孤独感に苛まれ、「誰も私に注意を向けてくれない。心の痛みを聞いてくれない」と悩んでいることでしょう。

多くの人々は、自分の居場所を作ろうと、他人の顔色ばかりを伺いながら生きています。しかし、救い主は敢えて、「居場所のない人の友」となるために、飼い葉桶に生れ落ちてくださったのです。ですからイエスは、あなたの心の奥底の寂しさを本当に理解することがおできになります。そして、そこに、この世の人間関係が与えることのできないような慰めと希望を与えてくださるのです。

しかも2章8節からの記事では、イエスが誕生したまさにそのとき、その近隣の野原で、羊飼いを恐れさせるほどの、「主の栄光が回りを照らした」と描かれます (9節)。当時の人々は、ローマ帝国の支配のもとで苦しみながら、この「主の栄光」が戻って来るときを待ち焦がれていました。

ところが、それは、信仰の中心のエルサレム神殿ではなく、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っている、貧しい日雇い労務者のような羊飼いに現れたのです。

そして、御使いは彼らにこの民全体に与えられる、大きな喜び告げ知らせます(10節) と、彼らに民全体のためのメッセージを託すと言います。彼らがそのような名誉ある働きに召されたのは、彼らが貧しかったからだと思われます。

それこそ、「低い者を高く引き上げられ」というマリアの賛歌の成就と言えましょう。しばしば、豊かな人はスケジュールが忙しく組まれ、予定外のことが起こると、それがどんなにすばらしいことでも柔軟に対応できなくなりがちです。

そればかりか、この羊飼いたちに示された、救い主の「しるし」とは、まばゆい光ではなく、何と、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている」(12節) という貧しさそのものだったのです。飼い葉桶に寝ている赤ちゃんなどあり得ないからこそ、それが「しるし」となるのですが、同じ「しるし」でも、もっと美しく輝くしるしであって欲しいと思います。

そして、原文では、「飼い葉桶」ということばに続いて、「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて」(13節) と、地の貧しさと対照的な、天の栄光が垣間見せられます。これは、歴史上のどんな偉大な預言者も聞けなかったような天の軍勢による最高の賛美でした。

いと高き所に、栄光が、神にあるように」とは、多くのクリスマスキャロルの原型です。また、続けて、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と歌われましたが、「御心にかなう人々」とは、エルサレム神殿の宗教指導者ではなく、毎日の糧をやっとの思いで手に入れている社会の最下層の人々、羊飼いたちのことだったというのが何とも驚きです。

これは、「御心が向けられた人」とも訳され、神があわれみをかけてご自身のまなざしを向けてくださった人を意味します。

イエスは、「心の貧しい者は幸いです」と不思議なことをおっしゃいましたが、しばしば、人は、それまでの心の葛藤が大きければ大きいほど、神の御心に触れた感動も深くなるのだと思われます。

そして残念ながら、人は徹底的に自分の弱さ、頼りなさを味わうということがなければ、自分に神の御心が向けられ、自分が神の愛に包まれ、支えられてきたということを、知ることもできないものです。

「飼い葉桶の傍らに」は、パウル・ゲルハルトが1656年に発表した作品で、それはドイツの多くの地域の人口が半減した三十年戦争直後の歌です。

そこでは、この世界の創造主が、私たち罪人を救うために、驚くほど貧しくひ弱な姿になり、飼い葉桶に伏している神秘が歌われています。