アイ・キャン・オンリー・イマジン〜詩篇27篇

昨日米国で大好評を博したという伝道的な 「アイ・キャン・オンリー・イマジンー明日へつなぐ歌」を見てきました。

意外に多くの方々が親子関係で傷ついています。時には、せっかくイエスのお父様に向かって、「アバ・父(お父様!)」と呼びかることができるというのが福音の核心だと教えられても、天の父なる神に向かって、「お父様!」と呼ぼうとすると、肉の父のイメージが重なりすぎて、福音が福音として届かなくなるという悲劇があります。

この映画は、何よりも、現実の父や母との関係で傷を負ってきた方々にとっての希望を生み出す映画となることでしょう。

この映画の由来は、米国で2001年に大ヒットした I can only imagine という Bart Millard 作詞作曲の歌が、どのように生まれたかを描くことにありました。以下でお聞きいただくことができます。

英語の歌詞も紹介します

I can only imagine what it will be like When I walk by Your side

僕は想像するしかない。あなたの御そばに置かれて歩むのはどのようなことかを

I can only imagine what my eyes will see When Your face is before me

僕は想像するしかない。あなたの御顔が僕の前にあり、僕の目が御顔を拝するときを

I can only imagine

Surrounded by Your glory What will my heart feel

あなたの栄光に包まれて 僕の心はどう感じるだろう

Will I dance for you, Jesus Or in awe of You be still

イエス様 あなたの御前で僕は踊るのでしょうか、恐れをもってたたずむのでしょうか

Will I stand in Your presence Or to my knees will I fall

あなたの臨在の前で立っていられるのでしょうか、それともひざまずくのでしょうか

Will I sing hallelujah Will I be able to speak at all

ハレルヤと歌うのでしょうか それとも何かを話すことができるのでしょうか

I can only imagine

思い浮かべることしかできません

I can only imagine

I can only imagine

when that day comes And I find myself standing in the Son

僕はただ思い浮かべることができる その日が来ると、僕は御子に包まれて立っていることを

I can only imagine

when all I will do Is forever, forever worship You

僕はただ思い浮かべることができる 永遠にあなたを礼拝していることを

I can only imagine

I can only imagine

それを聞きながら、詩篇27篇を思いました。その4節で次のように歌われます。

一つのことを、私は主に願った。それを私は慕い求めている。

私のいのちの日の限り、主 (ヤハウェ) の家に住むことを。

主の麗しさを見つめ その宮で深く静まることを。

この曲の作者は、父と和解できて初めて、「主の麗しさを見つめ」という感覚が、心の底から納得できて、それを I can only imagine(僕は想像するしかできないが……)と何度も繰り返しながら、回心して息を引き取った父が、栄光の主をほめたたえ喜んでいる場面を思い浮かべることができました。

そして、それが現在の自分の父なる神との関係を表していると信じられるようになりました。

まさに、天国の喜びが、今ここから始まっていることを歌にできたのです。それはたとえば、あの米国を代表する福音歌手エイミー・グラントが、落ち込んでいた時、この歌を何度も聞きながら、深い神の慰めを体験し、この曲の最大の理解者、宣伝者になったことにも現わされています。そのこともこの映画で描かれています。

私たちはときに、過去に受けた傷を、神と人との前に隠し続けることで、神との関係も妨げられ、主の麗しさを見つめるということができなくなります。

「麗しさ」とは、「ここちよさ」とか「魅力」「愛しさ」などとも訳されることばで、英語では、「sweetness」とさえ訳されています。それは「主を恐れる」という概念と一見矛盾するようですが、決してそうではありません。主はご自分の愛を軽蔑し、ご自身に逆らう者に怒りを発しますが、へりくだってご自分の懐に飛び込んで来る者には、その愛と慈しみを余すところなく示してくださるからです。

そして、「その宮で、深く静まることを」とは、心の目を神の臨在にただ向けるという教会の伝統的な祈りの原点を示していると思われます。

聖書はこの世界の完成の状態を、「そのしもべたちは神に仕え(礼拝し)、神の御顔を仰ぎ見る……神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない」(黙示22:3-5) と述べています。

私たちも今この時から、様々な罪を示されながらも、その自分が「光」に優しく包まれていることが分かります。心の中に誰にも見せられないような暗やみがあっても、「主は私の光、また救い」と大胆に言えるのです。

ダビデは、それほどに主との親密な交わりを求める理由を、「それは、悩みの日に、主が私を隠れ場に隠してくださるから」(5節) と説明し、またそれを、「幕屋の奥深くにかくまい」「岩の上に上げてくださるからだ」と言い換えます。このふたつの表現とも、主 (ヤハウェ) こそが、自分を敵の手の届かないところに守ることができる方であることを表したものです。

ただ、ダビデの心は、いつも「この心は恐れない……私は信頼している」(3節) と言えたわけではありません。彼は、しばしば、神が自分を見捨てておられるかのような恐怖を味わっていました。それで彼は、「聞いてください。主よ。呼んでいるこの声を……御顔を私から隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、退けないでください……見放さないでください。見捨てないでください」(7、9節) と必死に叫んでいます。私たちの信仰生活においては、神の圧倒的な臨在を体験するときと、神の不在、または神の沈黙を体験することは、切り離すことのできない、コインの裏表のような体験です。

そのような神の臨在と不在の体験の繰り返しのただ中で、自分の心が自分に向かって、神ご自身が「わたしの顔を慕い求めよ」と招いておられるみことばを、ささやきます (8節)。そして、それに応じて、「あなたの御顔を、主 (ヤハウェ) よ。私は慕い求めます。」と告白します。この「慕い求める」ということばは、先の、「ひとつのことを……私は慕い求めている」と告白したことばと同じです。

ですから、神の御顔を慕い求めるとは、自分の理性や知性で必死に神を探求することではありません。それは「主 (ヤハウェ) の麗しさを見つめ」、ただ沈黙のうちに、神の光が自分を照らすことに身を任せることです。そして、そこで「主 (ヤハウェ) の真実の愛 (ヘセッド)」、つまり、私に対して、神がいかにご真実であられたかを思い起こすのです。

現在、マインドフルネスという黙想の教えが、ビジネスマンの間にも流行っています。その原点がここにあります。

その上で、神の愛は、両親の愛に勝るということが10節で「たとい、私の父、私の母が、私を見捨てようとも、主は私を引き寄せてくださる」(10節) と告白されます。

私たちの心が不安的なのは、幼児期に自分の父や母から見捨てられるような気持ちを味わった結果であると言われます。幼児にとっては、しばしば、ほんの一時的に保育園にあずけられるという体験すら、この見捨てられ不安のきっかけになると言われます。

私も自分自身の幼児期を振り返り、父母が一生懸命だったことを理解しながらも、自分が様々な心の傷を受けてきたことを思い起こしていたことがありました。そのときふと、上記のみことばが心に響いてきたのです。それは涙が止まらなくなるほどの不思議な体験でした。そして、私にこの父と母を与え、私を大雪山のふもとで育んできたのは、慈しみに満ちた主ご自身の計画であると分かったのです。

続いてダビデは再び、自分をおとしめる者や偽りの証人たちの存在を主に訴えながら、主の助けを求めます (11、12節)。彼の正直な気持ちは、波乱に満ちた人生ではなく「平穏な小道」に導かれることです。「自分には苦労が足りないのでは……」などと思うとき、これは慰めになります。

そして、最後に、「ああ、もし私がこれを信じられなかったとしたら……」(13節) という不思議な仮定法の表現が出てきます。それは「主のいつくしみを、この生ける者の地で、私は見る」ということを信じられなかったとしたら、自分は生きていることができなかったはずだという告白です。

ダビデは、私たちが想像も出来ないほどの絶望的な状況を何度も潜り抜けてきました。それは、神が自分を見捨てていると感じられるような中でも、おびえ退くことなく、またあきらめることなく、そこにとどまっているなら、主が必ずご自身の慈しみを見せてくださると待ち望んでいたからです。

「主の御顔を慕い求める」とは、神の恵みの光が降り注ぐ場に自分を置くことを意味します。それは、自分の知性やイメージを働かせて神を思い浮かべることでは決してありません。それは自分の願望を神にすることになりかねません。

その基本は、自分の人生を、神からの贈り物として見直すことに始まります。自分の生涯に神の恵みが迫ってきた体験を思い起こし、それを蓄え、そして、苦しみのときには、ただ黙って神の御前で沈黙し続けることではないでしょうか。恵みを必死に掴み取ろうとする生き方ではなく、忙しさのただ中で、ただ、力を抜いて、神の恵みが自分に迫ってくるのに身を任せるときを聖別するという優先順位を定めてみたいと思います。