創世記2章4節~3章24節「神のようになることの悲劇」

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2020年7月19日

「神がいるなら、なぜ世界にこのような混乱があるのか?」という疑問を多くの人が抱いています。今回の箇所はそれに対する答えが記されます。ただ、そこには更なる疑問として、「神はなぜ禁断の木の実をエデンの園に置いたのか?」が湧いて来ることでしょう。しかし、それこそ私たちの発想が、神のようになったアダムと一体化したしるしとも言えましょう。

何よりも大切なのは、聖書の物語設定の中から、この世界の現実を見ることです。これは過去の御伽噺ではなく、私たち自身の人生の生きた物語でもあります。

なお、2章3節までは「 (エロヒーム)」という普通名詞が35回、2章4節以降3章末までに「神である主 (ヤハウェ・エロヒーム)」という表現が20回、4章では「 (ヤハウェ) 」が10回繰り返されており、その構成に明らかな意図が見られます。

1章では、神が創造主であることに目が向けられる一方で、2章4節以降ではパーソナル(人格的)な交わりが強調されるという主題の違いにこそ目を留めるべきでしょう。ここでは神がご自身の名を紹介しつつ、人に個人的に語りかけながら、そこに神の痛みの気持ちまでが描かれています。

1.エデンの園での祝福とそれを失う可能性 箇所

2章4節の「経緯」とは、ギリシャ語七十人訳で Genesis と記されますが、それこそ英語の書名の由来です。これは「歴史」とも訳され、創世記に11回登場し、これをもとに本書を十二に区分けできます(次は5章1節)。

4節後半では、「神である主 (ヤハウェ・エロヒーム) が地と天を造られたとき」と、の創造に焦点が向けられ、初めの状態が、「地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も目を出していなかった。それは、神である主 (ヤハウェ・エロヒーム) が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである」(2:5) と記されます。ここでは不思議に、植物が生える前に、人の創造の計画があったと描かれています。

1章27、28節には、「神のかたち」としての人の創造の目的が、「地を満たせ。地を従えよ……すべての生き物を支配せよ」と記されていました。この地の祝福の鍵は、人が「神のかたち」として生きることにあり、地の様々な問題は、人が「神のかたち」として生きることを止めた結果と言えます。

だからこそ、「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます」と記されます (ローマ8:19)。これは人が「神のかたち」として生き方を完全に回復することが世界全体の祝福につながるという意味です。

7節では人の創造が、「神である主 (ヤハウェ・エロヒーム) は、土地 (アダマー) から、ちりとしての人 (アダム) を形造り (the man of dust from the ground)」と描かれ(私訳)、土地 (アダマー) と (アダム) との密接な関係が強調されます。これは1章24節で、「地が、種類に従って、生き物を生ぜよ」と記されたように、人が土地に由来し、土地に依存しているとともに、個体としての人は「ちり」に過ぎないことを描いたものです。

しかし同時に、「神である主」が「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」とも記されます (2:7)。まさに、主の御顔が人に触れ、そこにご自身の息が吹き込まれたとイメージできます。まさに、人のすばらしさは、個体としてよりは、神と顔と顔とを合わせる関係にあるということが強調されているのです。

そして、「神である主」は、エデン(喜び)にを設けますが (2:8)、不思議にも人の創造の後に、「その土地に、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた」と記されます (2:9)。この二つの木が、後の人間に大きな意味を持ちますが、ここでは単に、「見るからに好ましい」木々の代表として描かれています。

さらに2章10-14節では、エデンの園から世界を潤す四つの大河の水が湧き出て流れ出ると描かれますが、終わりの日には、エルサレム神殿から湧き水が流れ出て、世界を潤し、癒すことになるとエゼキエル47章、ゼカリヤ14章に記されます。

神の目から見た世界の歴史は、「エデンの園」から始まって、新しいエルサレム」で完結するのです。そしてエデンの園において、人はその地を管理するというすばらしい働きが委ねられました (2:15)。しかも、そこには耕す前から「食べるのに良いすべての木」(2:9) が生えていました。人はそこで、神との交わりを喜び、世界を喜ぶことができていました。

私たちは心の奥底で、「この世界は本来のあるべき姿ではない……」と思っています。それは失われたエデンの園への憧れが、人の心の奥底に刻まれているからでしょう。

(ヤハウェ) はそこで「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良いという祝福とセットで、「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬという限界を設けられました (2:16、17)。

しばしば、「なぜ神はそんな危ないものを園の真ん中に置いたのか?」と言われますが、ここでは思いのまま食べて良いという祝福が強調され、それを意識できるためにそれを失う可能性が述べられています。空気のありがたさは、空気がない状態があって初めて理解できるとの同じです。

またこれは結婚指輪にもたとえられます。そこには祝福と合わせて「浮気をしない」という誓約が込められています。この木は、神の祝福を意識化できる象徴であるとともに、神の愛の誓約のしるしとも言えます。

2.エデンの園の調和のシンボル 互いを恥じない

主は、「土からあらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造られ」ますが、人をそれらすべての生き物の名付け親にしてくださいました (2:19)。それは、人が「すべての生き物を支配する」(1:29) ことの象徴です。

この直後に、人は「善悪の知識の木」を「賢くしてくれそうで好ましかった」(3:6) と見てしまいますが、人は創造された状態のままで、すべての生き物に名をつけるほどに創造的な知性が与えられていました。

ところで、 (ヤハウェ) は、「人がひとりでいるのは良くない……ふさわしい助け手を造ろう」(2:18) と言われ、女をアダムの「あばら骨」から造られました。「助け手」とは、神を指す場合もありますし、また「あばら骨」という素材は「」よりも上等ですから、ここに女が男に劣っているという響きを読み取る必要はありません。

それよりもここは、女は男と一体になる者として創造されたという関係が強調されています。ですから、人はこの時、女を見て「私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから」(2:23) と言いました。

はヘブル語で「イシャー」と呼ばれ、「神のかたち」に創造された「イーシュ」の女性形であり、男は女を自分と同じ骨と肉を持つかけがえのないパートナーとして喜んでいたのです。

その上で、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」(2:24) という人類一般におよぶ記述がなされます。すべての夫婦関係は、この初めの男と女の創造の原点に立ち帰るからです。

人の始まりは、一組の夫婦であり、夫婦関係は親子関係に優先します。実際、多くの夫婦関係の亀裂は、親離れができていないことから始まっています。今も、「自分の家に嫁を迎える」という発想で結婚する人がいますが、結婚とは、ふたりでまったく新しい家庭を築くことであると説かれているのです。

しかも、「そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」(2:25) と描かれ、これこそがエデンの園での平和を描いた象徴的な表現と言えます。彼らは互いの弱さを隠す必要がありませんでした。世界は調和に満ちた一組の夫婦から始まりました。

今もキリストにある救いは何よりも夫婦関係に現わされると記され (エペソ5:21-33)、それは「新しいエルサレム」での完成に向かいます。人の素材は「ちり」に過ぎず、息を吹き込んでくださった主との交わりなしにこの地を治めることはできません。

また人は「ひとりでいるのは良くない」者として創造され、動物は「助け手」にはなり得ません。ですから、結婚に限らず、人は、互いに愛し合い、助け合う者として創造されたという原点を忘れてはなりません。

3.善悪の知識の木の実を取って食べることの意味 続く

3章の初めのことばは、「さて、蛇がいた。それは神である主が造られた野の獣のうちで最も賢かった」と記されます。「」は最も「賢い」獣ではありましたが、人が名づけ、治めることができるはずの「野の獣」でした。私たちは「サタンが女を誘惑した」と理解しますが、ここではそのようには記されてはいません。それは人が、自分をサタンの犠牲者として、被害者意識に流され、自分に責任があるということを忘れないためです。

しかも、この構図は現代も続いています。すべての偶像礼拝の基本は、神との対話を避けて、神の被造物と対話をすることに始まります。それは、神社で狐にお伺いを立てることから、 での「宇宙との対話」に至るまで、すべての原則は同じです。

しかも、蛇の最初の話し相手は、神の命令を直接聞いた男ではなく、後に造られた女でした。そしてその上で、女が男を誘い、男は神に背きます。ですから、ここで描かれていることの中心は、何よりも創造の秩序が崩されたということにあるのです。

蛇は、明らかに間違いと分かる質問を、「ほんとうに神は言われたのですか、園のどんな木からも食べてはならないなどと」(3:1私訳) と投げかけて警戒心を解きながら、神のことばを自由に解釈する誘惑の中に女を招き入れました。

女がいい気になって蛇に答えた時点で、神の命令は、過保護な母親のことばのように変えられています。まず、園の中央には「いのちの木」と「善悪の知識の木」が置かれていたのにその区別が不明確にされたまま、「それを食べてはならない」とだけ引用されます。また主は、「それに触れてもいけない」などとは言っておられませんし、「死ぬといけないから」ではなく、必ず死ぬ」と断言しておれました。

今も、聖書のことばを、文脈を無視して読んだあげく、あいまいな記憶のままで思い巡らし、「神は、人を束縛する意地悪な方!」という勝手なイメージを作り上げる人が後を断ちません。蛇との対話に夢中になった女は、神のみことばを直接に聞いた男に相談しようとも思いませんでした。

また、男も傍観しているだけで、この異常な構図を止めようともしませんでした。これが「アダムの沈黙」と呼ばれます。

とにかく、蛇は女を自分の土俵に招き入れることに成功しました。その上で蛇は、「あなたがたは決して死にません」(3:4) と断言して神のことばを覆し、その上で「神は知っているのです」と、神の気持ちを勝手に想像させ、「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって、善悪を知る者とようになることをと言います。

これは、新興宗教のマインドコントロールに足をすくわれる知的能力の高い人のパターンかも知れません。しかも、これは完全な嘘ではありません。それは神ご自身が後に、「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった」(3:22) と認めておられるからです。

続いて、「そこで女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった」と記されますが、ここでの「賢くする」という言葉以外は、2章9節で「見るからに好ましく、食べるのに良い」という園の中の「すべての木」に相当する表現です。

つまり、女の目には、すべての好ましい木は視界から外れ、「食べてはならない」と言われた木だけが見えたのです。私たちの場合も、すぐに手に入る祝福は、無価値に見え、禁止されたことばかりに欲望が湧くということがあります。

このときに女に必要だったのは、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」(2:16) という神の愛の語りかけを思い起こすことでした。禁止命令ではなく、祝福の教えにこそ目が向けられる必要があったのです。

その後、「それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた」と記され、その結果が「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った」と描かれます (3:7)。つまり、彼らは確かに、その実を食べたことで「目が開け……知る」ようになったのですが、現実に起きたことは、「賢くなる」ことではなく、「裸であることを知る」ということでした。

そして「彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った」という状態に至ります。それは、「裸を恥ずかしいとは思わなかった者」が、「裸を恥ずかしいと思うようになった」という変化です。

これは、かつて彼らは、互いの裸に表された「弱さ」を知ることが、互いに助け合うということの始まりとなっていたのに、今は「弱みを見せたら、つけ込まれる……」というような関係になってしまったとも解釈できます。彼らが作った腰のおおい」は、衣服の始まりですが、私たちも様々な肩書きや経歴を着ることによって自分を装ってはいないでしょうか。

しかも、彼らは創造主に対しても、「自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています」(3:10) と言いました。不思議にも、神に創造されたままの姿を、神に対して恥じているのです。それは、裸には、自分の弱さを明るみに出すという意味があるからです。

しばしば誤解されますが、アダムは、「私は罪を犯したので、恐れて、隠れました……」と言ったわけではありません。良心の呵責に悩んだのではなく、自分の弱さが顕わになっていることに恐怖を覚えているのです。恥の感覚は罪の意識より根源的なものです。

多くの日本人は、良心の呵責以前に、恥じることや辱められることを恐れますが、その始まりが記されています。私は聖書と無縁の世界で育ち、「そんなことをしては恥ずかしい!」という教育を受けてきました。そのため、罪責感から神の赦しを求めるという感覚は心の底に落ちにくく、クリスチャンになっても「自分は罪意識が希薄だから十字架の赦しが腹の底に落ちない」などと悩んでいました。

しかし、この創世記の記事が分かったとき、恥の感覚から人間の堕落と救いを理解できるようになり、福音がもっと身近に感じられました。

4.「神のかたちの喪失とエデンの園からの追放」

(ヤハウェ) は、彼らのすべての行動を見ておられましたが、そよ風の吹く夕方まで待っておられました。しかも、「彼らは、神である主 (ヤハウェ・エロヒーム) が園を歩き回られる音を聞いた」とは、主がわざと音を出しながら、彼らの応答を待つかのように近づいてくださったという意味です。

主はその上で、「あなたは……食べたのか?」と事実のみを尋ねられました。それらすべての意味は、人が自分の犯した罪を認めて、自分の方から告白する機会を与えるためでした。

ところが人は、自分の罪を認める代わりに、「私とともにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が……」と、女とその創造主である神を非難しました (3:11、12)。

なお、「責任」は、英語で Responsibility と表現されますが、これは Response(応答)する ability(能力)を意味します。これこそ「神のかたち」の基本です。ところがアダムは、神の問いかけに正面から答える代わりに、自分を「無力な被害者」に仕立て上げました。

神は、過ちを犯すことも、弱さも恥じる必要もない方ですが、皮肉にも、神のようになった人間は、それによって自分の過ちも弱さも認めることができなくなったのです。

つまり、「神のようになり、善悪を知る」とは、自分を世界の中心、善悪の基準に置いて、周りを非難する生き方の始まりでした。そこにおいて、最初に創造された男と女は、エデンの園における「神のかたち」として調和を自分で壊してしまいました。

そして、アダムとエバが互いを非難し合う関係から最初に生まれた長男のカインが、弟のアベルを殺してしまいました。そしてカインから乱暴な子孫が育ちます。

とにかく、恥の感覚は、神でない者が自分を神のようにしたことの結果に他なりません。それは、いのちの根源から離れてしまったことの不安から生まれています。それは自立できない子供が、自分から親を捨てて不安に陥ることに似ています。

園の木が人を堕落させたのではなく、善悪の知識の木」から取って食べるという行為自体が、人を害してしまったのです。それは、創造主からの愚かな独立宣言でした。

その後、主は、土から造られた (アダム) に対しては、その源である「土地 (アダマー) があなたのゆえにのろわれる……一生の間、苦しんでそこから食を得……顔に汗を流して糧を得、ついには土 (アダマー) に帰る」と宣告されます (3:17-19)。仕事に苦しみと空しさが入ったのは、アダムが自分を神のようにした結果です。

最後に「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」と言われます。これは非常に冷たい響きです。人は「ちり」として創造されましたが、神の息を受けて「生きもの」になりました。しかし、「神のかたち」として神との交わりを捨てた人間は「ちり」のような無価値な「生けるしかばね」のような存在になったのです。

最後に主 (ヤハウェ) は、御心を痛めながら、人間をエデンの園から追い出しました。主は、かつて「その木から食べるとき(その日)、あなたは必ず死ぬと言われましたが、それが成就したのです。今、エデンの園の外に住むすべての者は「必ず死ぬ」ように定められています。

なお、ちり」に過ぎない人間が永遠に生きる可能性があったのは「いのちの木」が園の中にあって、それを食べることが許されていたからでしょうが、今、その道は塞がれています。

恥の感覚は、人間がその根源から引き離されていることを覚える、分離の痛みです。それに対しイエスは、見捨てられた罪人の代表者となり、十字架で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(詩篇22:1) と叫ばれ、三日目に死人の中から復活し、御父のみもとに引き上げられました。

今、私たちはその復活のキリストによって捕らえられ、キリストのうちに生きる者とされています。恥の感覚は、「見捨てられ不安」とも表現されますが、イエスは私たちすべてに、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20) と保証してくださいました。

アダムは「神のようになり」、自分を善悪の基準として、この世界に死をもたらしました。しかし、イエス・キリストは、「神の御姿である方なので、神と等しくあることを奪い取るべきこととは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿を取り、人間と同じようになられ」ました (ピリピ2:6、7私訳)。

イエスは神の御姿であるからこそ、その奪い取る」生き方とは正反対の、「仕える」生き方によって、「神のかたち」としての模範となり、救いの道を開いてくださいました。

この生き方に習った代表者が19世紀末の です。彼は単身でハンセン病者が隔離されているハワイのモロカイ島に入り、病者の世話をしました。当時の島の中は希望を失った人々が、密造酒や淫乱に走っている無法地帯でもありました。しかも島の人々は彼をよそ者としか見ませんでした。

それで彼は徹底的に彼らのひとりのようになり、同じ病になることさえ受け入れました。そこから人々にも希望が芽生え始めました。彼が自分の感染に気づいたとき、それを「神からの勲章」と呼び、「病者の気持ちが分かる」と喜びました。

しかも、彼の発症を契機に、次から次と彼の働きを助ける人々が与えられ、絶望の島は世界中の人々にとっての希望の源の島へと変えられました。