ヨエル書「主 (ヤハウェ) の大いなる恐るべき日が来る前に」

2020年5月10日

コロナ対策でのニューヨークのクオモ知事の毎日の会見が多くの人に感動を与えています。人の感情に寄り添ったすばらしい発言が多いのですが、4月13日のCNNのインタビューで、「我々の行動がウィルスの広がりを止めたのだ。神がウィルスの広がりを止めたのではない。我々が何をしてどのように行動するかが、ウィルスがどのように広がるかを定めるのだ」と発言しました。

さらに4月21日の会見では、「感染者数が減少した。それは我々が数字を下げたのだ。神がしたのではない。信仰がしたのでもない。運命がしたのではない。多くの痛みと苦難がそれを成し遂げたのだ」と発言しました。

彼は社会的弱者に寄り添う人格者でカトリック信者ですが、過去の離婚とか中絶や同性婚の賛成などを巡ってカトリックの保守派から非難されるとともに、共和党を支持する福音派のクリスチャンとは深い対立関係にあるようです。

それと対照的な形で国民に語りかけているのがドイツのメルケル首相です。彼女は3月11の会見で、まず、「残念ながらウィルスはドイツに広がり始めている。私たちにはそれに対する対抗手段がない。たぶん国民の6割から7割が感染することになるだろう。私たちができることは、ただ、ウィルスの拡散の速度を遅らせ、医療崩壊が起こるのを防ぎ、一人ひとりの尊厳が守られ、治療を受けることができる体制を守ることだ。本当にこのような指示を出さざるを得ないことに深く心が痛んでいる。どうか不要不急の人との出会いの機会を減らしてほしい」と言いました。

またイースターの前には、「この大切な時期に、キリスト教会に集会を止めるように言わざるを得ないことに心が痛む。どうかネット配信とかの手段によって、互いに支え合うという方法を創造的に考えて欲しい」というようなことを丁寧に発言していました。

彼女は最初から現代の科学の限界を認めながら、安易な希望を最初から捨てさせ、厳しい現実に長期にわたって向き合う覚悟を人々に求めて行きました。クオモ知事は「私たちはできる!」という趣旨で語る一方、メルケルさんは、「感染を制御することは難しい、だから危険に目を開いて、互いに助け合おう」と勧めています。

どちらの政治家も日本から見たら素晴らしいですが、背後にある信仰が現れているような気がします。一昨年、ユバル・ノア・ハラリが「ホモ・デウス」という大著を記しベストセラーになりました。そこでは「飢饉と疫病と戦争は……もはや、無力な人類の理解と制御の及ばない不可避の悲劇ではない。すでに対処可能な課題になった……人類は次に不死と幸福と神性を標的とする可能性が高い……今度は人間を神にアップグレードし、ホモ・サピエンスをホモ・デウス(神)に変えることを目指すだろう」と記していました。

今回のコロナウィルスは、そのようにすべてを制御できると誇る人間に対する神のさばきと言えるかもしれません。

1.「心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ」

ヨエル書が記された時代がいつかは永遠の謎です。それだからこそ、時代を超えたメッセージをここから読み取ることが大切ではないでしょうか。この書には、いなごの来襲によってイスラエルが壊滅的な打撃を受けたことが語られます。それが前代未聞のことであると強調されながら、「これを……その子供たちは後の世代に伝えよ」と記されます (1:3)。この悲劇が、子々孫々まで伝えられる必要があるというのです。これは日本で言えば、広島、長崎の原爆悲劇、東日本大震災、福島第一原発の悲劇、今回のコロナ蔓延を子々孫々まで伝え続けることを意味します。

そして4節には「いなご」に関する四種類の呼び名が記され、第一の「噛みいなご」は「ガザム」、第二の「いなご」とのみ記されるのは「アルベ」で、最も一般的な呼び名です。第三の「バッタ」は「イェレク」で「飛びいなご」とも訳されます。第四の「若虫(食い荒らすいなご)」は「ハシール」です。これは同じいなごの成長段階によって呼び名がイェレク、ハシール、ガザムと変わるとも言われます。

ですからここは、「ガザムが残した物はアルベが食い、アルベが残した物はイェレクが食い、イェレクが残した物はハシールが食った」と記されています。現在のコロナウィルスも感染しながら形を変えているとも言われますが、それはすべての災いに共通の原則のようです。

2章25節ではこの四種類のいなごの順番が変えられながら、神がご自身によって、「わたしがあなたがたの間に送った大軍勢」と描かれています (2:25)。どちらにしても、ここでは「いなご」が少しずつ姿を変えながら、四回に渡ってイスラエルの民の育てた作物を絶滅させる様子が描かれています。

ソロモンは神殿奉献の際、「この地に飢饉が起こり、疫病や立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫が発生したとき……それぞれ自分の疫病や痛みを思い知らされて、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら……あなたご自身が……天から聞いて、赦し、一人ひとりに、そのすべての生き方に従って報いてください」と祈っています (Ⅱ歴代6:29、30)。

それはいなご」の発生の背後に、悔い改めを迫る神の招きを見るという意味です。

よく自然災害ということばが使われますが、詩篇148篇8節には、「火よ、雹よ、雪よ、煙よ、あらしよ。それはみことばを成就する」(私訳)という表現があるように、この地を襲うすべて災害は「自然?」というより、神のことばによって起こされていると解釈すべきです。

ただそれを根拠に、今回のコロナ感染を因果応報的に「何が神の怒りを買ったのか……」と分析し、誰か特定の人々の責任を問うようなことになっては本末転倒です。なぜなら、神は私たちが謙遜になることを求めておられるのですから、人を非難しはじめたとたん、その人は自分を神の立場に置いていることになるからです。

何かの原因というより、「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている」(ローマ1:18) という普遍的な真理を理解すべきです。「天からの啓示」ですから、私たちは神の怒りの理由ではなく、それを前提に行動すべきなのです。それはメルケルさんが「ウィルスはすでに来ている」と訴えたのと同じです。

そしてヨエル2章11節では、「 (ヤハウェ) はご自分の軍隊の先頭に立って声を上げられる……主 (ヤハウェ) の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられるだろう」と、いなごの来襲に神の御手を認め、そこに神のさばきを見るようにと勧められます。

ただ、そこで神のご性質を感情にまかせて怒りを爆発させる方のように誤解されることがないようにと、「しかし、今でも (ヤハウェ) のことば心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとへ帰れ」(2:12) という訴えがなされます。命令の中心は「帰れ」で、回心を訴える一般的な動詞ですが、その際「心のすべてをもって」と描かれるように、自分の心が神から離れていたことを何より反省する必要があります。

それは「心を入れ替え、立派な行いをする」という以前に「私は神のあわれみなしには一瞬たりとも生きることができない」という自己認識です。それは、意志を強く持って行動を変えるという以前に、無力さを認め、泣きながら必死に神にすがって行く心の姿です。

それがさらに「衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主 (ヤハウェ) 立ち返れと命じられます (2:13)。それは愚かなプライドを捨てて、乞食のような気持で主にすがることの勧めです。

そして、その理由が、「主は情け深く、あわれみ深い、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる」と描かれます。主はかつて、金の子牛を造って拝んだ民を滅ぼす代わりに、「その民に下すと言ったわざわいを思い直され」ました (出エジ32:14)。私たちはいつでもどこでも、神に立ち返ることができます。

2.「主 (ヤハウェ) はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民を深くあわれまれた」

そしてそこでの期待が「もしかすると主が思い直してあわれみ、祝福を後に残してくださるかもしれない。あなたがたの神、主 (ヤハウェ) への穀物と注ぎのささげ物を」(2:14) と記されます。驚くことに、主ご自身が「思い直してくださる」と期待することは無理ではないと言われるのです。

主のさばきは、人の行いに応じて自動的に下されるものではありません。主はご自身に向かって遜り、すがって来る者に対し、豊かなあわれみを注ぎ、のろい」を「祝福に変えてくださる方なのです。それは「主のあわれみは尽きない」(哀歌3:22) と記されているとおりです。神は繰り返しご自身のさばきの決断を「思い直し」て来られました。

そして2章18節では突然、「 (ヤハウェ) はご自分の地をねたみ、ご自分の民をあわれまれた」と記されます(私訳)。「ねたみ」は、主がご自身に属するものに対して抱かれる排他的な熱い情熱で、」と表裏一体の感情です。それはイスラエルの「ゆずりの地」が、「国々のそしりの的」「物笑いの種」とされていたからです (2:17)。

そして、「ご自分の民をあわれまれた」とは、主がイスラエルの民の痛みや悲しみに徹底的に共鳴して、彼らの問題をすみやかに解決してくださるという強いご意志の現れとして表現されています。

それで「 (ヤハウェ) は民に答えられ」、「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油をあなたがたに送る。あなたがたはそれで満ち足りる(2:19) と、主が、泣きわめいていた民に満足を与えると描かれます。

2章21-23節は「恐れるな」ということばが文頭で二回繰り返され、「楽しみ喜べ」が「」に対してと同時に「シオンの子ら」に向けて重ねて語りかけられ、次のように訳すことができます。

恐れるな、地よ。楽しめ、喜べ、 (ヤハウェ) が大いなることをされたからだ。 恐れるな、野の獣たちよ。荒野の牧草はもえ出る……

シオンの子らよ、楽しめ。あなたがたの神、主 (ヤハウェ) にあって喜べ。 主は、あなたがたを義とするために初めの雨を与え、以前のように、初めの雨後の雨という大雨を降らせてくださるからだ

イスラエルには短い二度の雨季の他にはほとんど雨が降りません。「初めの雨」は10月末から12月初めの間に降り、夏の日照りを潤します。また「後の雨」は3月から4月にかけて降り、蒔かれた種が渇くことがないようにします。

主はかつて、「(ヤハウェ) を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えよという命令に、あなたがたが確かに聞き従うなら……初めの雨後の雨をもたらす」と言われる一方で、「ほかの神々に仕え、それを拝む」ときには、「 (ヤハウェ) の怒りが……燃え上がり、主が天を閉ざし……雨は降らず……あなたがたは……その良い地から、たちまち滅び去ることになる」(申命記11:13-17) と警告しておられました。

つまり、神の「のろい」と「祝福」は、この二回の短い雨季に最も分かりやすく現されていたのです。

そして2章24-26節では、神がいなごを追いやり、雨を降らせるという祝福の回復が約束されます。原文では25節の冒頭で、主ご自身による「わたしはあなたがたに償うという約束が記され、四種類のいなごの攻撃によって失われた「穀物、ぶどう酒、油」に関して、主ご自身による回復が保障されます。

なお、「償う」とはシャローム(平和、平安)の動詞形で、完成の状態を創造するという意味があります。神が「いなご」を送ったのはイスラエルの罪をさばくためでしたが、終わりの日には、ご自身が、まるで彼らに悪い事をしたかのように、彼らの苦しみに対する「償い」をしてくださるというのです。

同じように、あなたが神に立ち返り続けるなら、あなたの人生は、一時的に不幸な状態に陥ったとしても、必ず帳尻があった状態へと回復されるというのです。

そしてそれを受けて、「わたしの民は永遠に恥を見ることはない」(2:26、27) ということばが二度繰り返されながら、それに挟まれるようにして、「あなたがたは知る、イスラエルの真ん中にわたしがいることを、また、わたしがあなたがたの神、主 (ヤハウェ) であり、ほかにはないことを」と記されます。

つまり、「いなご」の被害は「神の怒りのさばき」の現れだったのですが、それは私たちが神に立ち返るようにと願う、燃えるような「」の現れでもあったのです。だからこそ、神は、イスラエルの民がご自身に立ち返ってきたとき、ご自身がもたらした「悲惨」に対して「償う」と言われるのです。

それは現代的には、コロナ蔓延は、神のさばきでもあるけれども、同時に、人々が神に立ち返ることを促す、燃えるような愛の現れでもあるのです。神のさばきの背後に、私たちの平和と祝福を願う神の燃える愛を見るべきです。

3.「しかし、主 (ヤハウェ) の御名を呼び求める者はみな救われる」

2章28~32節は使徒ペテロがペンテコステの日に引用し、「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」という不思議な現象が、ヨエル書の預言の成就であると語りました (使徒2:1-21)。キリスト教会の誕生は、この書を抜きに語ることはできないのです。

旧約と新約の違いは何よりも聖霊が与えられることです。それがここで「その後、わたしは、すべての肉なる者にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ」と描かれます。

旧約では、初代の王サウルの上に「神の霊が……激しく下り……預言した」(Ⅰサムエル10:10) という記述があるように、神がある特定の人を選んで、聖霊を注ぎ、ご自身の働きに用いられることがありましたが、約束の地の祝福の回復の「その後」という「終わりの日」(使徒2:17) には、老若男女ばりか奴隷を含めたすべての種類の人々に聖霊を注いでくださるというのです。

しかも、「息子、娘が預言する」とは、子供たちが親の教育を超えて、主がどのようなお方であるかを心の底から知ることを意味します。「老人は夢を見、青年は幻を見る」とありますが、も、主が人間の歴史全てを支配しておられることを腹の底から理解させるものですが、夢は眠っているときに与えられる一方で、幻は目覚めているときに与えられるということです。

説教の最中に居眠りしてしまうことがあっても、主がご老人には主のを見させ、意気消沈してしまうことがある若者には、が見させられます。

ヘブル語の並行法の原則からすれば、預言も夢も幻も基本的に、すべて神の救いのご計画の全体像が把握できるという意味と解釈すべきでしょう。

後にパウロは、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3) と記しましたが、それこそ聖霊の働きの核心です。その聖霊は、恐怖に満ちた主の日のさばきから、人々を救うために与えられるという意味で、「わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。主 (ヤハウェ) の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、(ヤハウェ) の御名を呼び求める者はみな救われる」と記されます(2:30-32)。

つまり、主の最後の審判から救い出されるのは、私たちが主の一方的な恵みによる聖霊を受けて主の名を呼び求めることによるのですが、ヨエルが「 (ヤハウェ) の御名を呼び求める者はみな救われる」と言ったことを使徒パウロは、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と言い換えました (ローマ10:9、10、13)。

そこで「イエスを主と告白する」とは、イエスを、旧約の主 (ヤハウェ) の現れと告白するという途方もないことだったのです。

2章32節では、「 (ヤハウェ) が言ったように、シオンの山、エルサレムには、逃れの者がいるからだ。生き残った者のうちに、(ヤハウェ) が呼び出す者がいる」と記されます。使徒パウロはイスラエルの救いに関して、「今この時にも、恵みの選びによって残された者がいます」(ローマ11:5) と語っています。

(ヤハウェ) が呼び出す」とは、聖霊が私たちの心のうちに語りかけてくださることを意味します。私たちは、「主に呼ばれ」て、「主を呼ぶ者」となったのです。

しかも私たちはみな、外からの強制によってではなく、自分の意志で主を礼拝するために集まっていますが、その私たちの意志に働きかけるのが聖霊です。そして、私たちが聖書を読んで感動し、主の教会の一部として奉仕に加わっているのは、神の霊が注がれた結果です。

さらに3章14節では、「判決の谷には、群集また群集。(ヤハウェ) の日判決の谷に近づくからだ」と記されますが、これは機が熟した結果として、神の民の敵たちが皮肉にも、自分から進んで主の「判決の谷」に近づいてくるという意味です。

黙示録では、終わりの日に、悪霊どもは全世界の王たちを、愚かにも神との戦いに動員すると描かれ、その最後の戦いの場がハルマゲドンと呼ばれます (16:13-16)。しかし、そこに「王の王、主の主」であるキリストが白い馬に乗って天の軍勢と共に下って来られ、たちどころに神の民の敵を滅ぼしてくださるというのです (19:11-21)。

つまり、一時的には、神の敵が全世界を支配するように見える中で、神の民に求められることは、富にも権力にも惑わされずに、キリストに忠誠を誓い、主を賛美し、礼拝し続けることだけなのです。私たちはそのときに決して、武器を手に取る必要はありません。

3章17、18節では、イスラエルの民の希望が、「エルサレムは聖なる所となり……その日には、山に甘いぶどう酒が滴り、丘には乳が流れ、ユダの谷川のすべてに水が流れ、泉が主  (ヤハウェ) の宮から湧き出て、シティムの渓流を潤す」と記されます。

シティム」とはアカシヤの木で、契約の箱を作る材料に用いられました (出25:10)。この「シティムの渓流」は、終わりの日にエルサレム神殿から水が湧き出て死海に注ぎ、その川岸にはあらゆる果樹が実をならせるというエゼキエル47章、黙示録22章の記述に結びつきます。

最後に神の民に敵対した国々へのさばきが告げられます。いなごの大量発生から始まった本書は神の民の敵に対する「血の復讐」(3:21) で終わるかのようで、最後のことばは「 (ヤハウェ) はシオンに住む」です。これこそ「諸国の民の間で」、「彼らの神はどこにいるのか」(2:17) と嘲られたことに対する答えです。

本書のテーマは「 (ヤハウェ) の日」(1:15、2:1、11、31、3:14)で、新約ではキリストの再臨の日に繋がります。ペテロ第二の手紙3章3-13節では、不敬虔な人にとっての「主の日」が、世界が火で焼かれる日として描かれ、同時にイエスにすがる者にとっての「主の日」は、「義の宿る新しい天と新しい地」に復活の身体で入れていただく希望の日と描かれます。信仰とは主のあわれみにすがりながら生きることです。

最近、米国ヒトゲノム研究所の所長であったフランシス・コリンズという大統領自由勲章を受章した科学者が、どうしてイエスを自分の救い主と信じるようになったかの証しを聞きました。

彼はDNAの研究が大好きな無神論者の研修医でしたが、多くのクリスチャンが不治の病にかかりながら、平安のうちに人生を終えられることに驚いていました。あるとき死を目前にした若い女性の証しを聞き、その後、彼女が「ところで、先生は何を信じていらっしゃるのですか?」と聞かれました。

彼は、「神がおられるか?」「その神は私に関心を持っておられるのか?」「自分は死んだ後どうなるのか?」などという基本的な問いを回避してきたことに気づかされます。

そして、C.S.ルイスの「キリスト教の精髄」を読んで、無神論であることの不合理性に気づかされ、さらにイエスが私の罪のために死んでくださったということが心の迫ってきたとのことです。

現在のコロナに関し、「神のさばきの現れ」と単純に言っては誤解を生むだけかもしれません。しかし、感染症の広がりの中、人間の知恵の限界と死の可能性が誰の前にも身近な問題になっているということは確かです。

ヨエル書は、いなごの多量発生から、最後の審判に私たちの目を向けさせます。コリンズさんが瀕死の患者の単純な質問を受けて回心したように、この世の多くの人に神の問いかけがあります。