詩篇91篇「疫病と伝染病からあなたを守ることができる神」

2020年5月3日

感染爆発と戦っているニューヨークのクオモ州知事が最近の会見で自分が恐れた二つの悪夢を語りました。それは1900万の州民に史上初めての自宅待機命令を出したときに、その強権発動で感染者数が減らなかったら何が起こるかという恐怖、もう一つは、それでも生活を維持するための流通関係者、医療関係者、警察と消防、電力関係者等が、今度は逆に自分たちの身の安全のために仕事に出てこなかったらどうなるかという恐怖でした。

しかし、社会を守るために身の危険を冒してくれる人々が圧倒的に多かったというのです。彼はその人達への感謝の意を伝えるためもあって、ニューヨーク州北部のシラキュース大学病院を訪問して、そこからの会見をしていました。

彼らはどうしてそのように命がけで戦ってくれるのでしょう。その不思議を、事故で首から下が動かなくなった星野富弘さんは、以下のような詩を、きびしい自然の中で育つ美しい紫色の花を咲かせる高山植物の「おだまき」の絵とともに記しています。

いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った日
生きているのが嬉しかった

詩篇91篇はその前の詩篇90篇と関係が深いと言われます。両方とも、主を自分の「住まい」と告白しているからです。多くのキリスト葬儀の際、詩篇90篇が読まれます。そこでは、「あなたは人をちりに帰らせて言われます」と記されながら、人生のはかなさが描かれています。

そして、その後、詩篇91篇を読むと、とっても嘘っぽく感じられることがあります。なぜなら、そこでは、主が私たちをあらゆる災いから守ってくださると書いてあるのに、実際は、みな最終的には守ってもらえなくて死んだとも思えるからです。しかしそれこそ、サタンの誘惑です。

イエスは、ヨルダン川でバプテスマを受けられた後の公生涯の始まりにサタンの誘惑を受けられました。そのうちの一つは、悪魔がイエスをエルサレム神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい」と言うものでした。その際サタンは、詩篇91篇11、12節のことばを用いて、「神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする」と書いてあるから、と言いました。

それに対しイエスは「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてあると、申命記6章16節のみことばをもって応答し、その誘惑を退けました。

今も、多くの人は、自分が災いに会ったり、また、身近な人が悲惨な死を迎えたような時、「神がおられるなら、なぜ……」と問いたくなります。しかし、私たちに求められていることは、何よりも、今ここで、主が与えて下った使命を生きることです。

星野富弘さんも言うように、自分の人生を自分で守ろうとしていると、生きることが苦しくなってしまいます。しかし、いのちよりも大切なものがあると知って、神が与えてくださった使命のために自分の命を差し出すときに、生きているのが嬉しくなります。

私たちのいのちは、神のみ許しがなければ決して失われることはありません。あなたのいのちを守るのは神の責任であられ、あなたの責任は、神のみこころであるならば、いのちの危険をも冒すことです。

少なくともキリスト教の結婚式では、夫は妻に対して、「あなたを守るためなら、命も賭けます」という趣旨の約束が求められています。実際、いざとなったら、自分を捨てて逃げそうな人と、誰が結婚したいと思うでしょう。

しかし、そうは言っても、みな、わざわいに会うのは、怖いですし、会いたくないのが人情です。だからこそ、神の徹底的な守りを保障しているこの詩篇は、かけがえのない歌になるのです。

1.「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる」

1節は「いと高き方の保護 (shelter) のもとに座る者は、全能者 (シャダイ) の陰に宿っている」と訳すことができます。「いと高き方」とは、神がこの地のはるか高くから、全地の王としてこの世界を治めていることを示す呼び名です。

私たちがこの方を自分の保護者として拠り頼むとき、その人は不可能を可能にすることができる「全能の神」(エル・シャダイ) の御守りの中に生きていることを告白していることになります。

そのような中で詩篇作者は、「 (ヤハウェ) 」向かい「私の避け所、また、とりで、信頼している私の神」(2節) と告白します。私たちは自分で自分の身を守るように小さいときから訓練をされていますが、最も核心的な部分では無意識的な信頼感がなければ電車に乗ることも、飛行機に乗ることもできませんし、人ごみの中に出ることもできません。私たちは基本的に、いつも何かに信頼しながら生きています。

たとえばゆうちょ銀行になけなしのお金を預けることだって同じです。国家財政はいつ破綻しても不思議ではない状態なのに、預けられたお金のかなりの部分は国の借金の穴埋めに用いられています。私たちは、もっと自分がどなたに信頼するかを意識する必要があります。みんなと一緒であれば沈没の可能性が高い船にさえも乗ることができるかもしれませんが、そこにある安心感は幻想に過ぎません。

私たちは、「光があれ」という一言で (創世記1:3)、光を創造された全能の神に信頼するように召されているのです。

その上で作者は、自分の体験から隣人に向かって、「まことにこの方が、あなたを救い出してくださる」と、「私の神」のことを紹介します (3節)。

そして、その救いを具体的に、「仕掛けられた罠から、また、恐ろしい疫病から……」と付け加えます。この社会で私たちが何か積極的な働きを始めようとするときに、必ずと言って良いほど、足を引っ張って、罠を仕掛け、その人を追い落とそうとする人が出てきます。私たちはそれに注意を払う必要がありますが、あまりそれを気にし過ぎても、人との協力関係を築くことはできません。

私たちはそこでは、何よりも、そのような罠を無効にしてくださる神に信頼するのです。

そして、「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。その翼の下にあなたは身を避けている」(4節) と約束されますが、これは親鳥が嵐や火災の中で自分の羽を広げてヒナを守っている姿です。たとえば昔、丸焼けになった親鳥の羽の下からヒナが飛び出てくるというようなことがありました。

またルツ記で、ボアズは呪われた民モアブの娘のルツに向かって、「あなたがその翼の下に避け所を求めてきたイスラエルの神、主 (ヤハウェ) から、豊かな報いがあるように」(ルツ2:12) と語り、また、ルツはナオミの指示に従って、夜ひそかにボアズの寝床を訪ね、「あなたのおおい(翼)を広げて、このはしためをおおってください」(同3:9) と願います。ルツはイスラエルの神の保護を求める資格のない女と見られていましたが、主はご自身の翼の下に救いを求めてきた者を退けることはないというのです。

罪の根本は、自分を神とし神の競争者になろうとすることです。主は、あなたがご自身の御翼の陰に身を避けてくるのを待っておられます。

その上で、主の真実は、大盾であり、丸盾である」と告白されます。「大盾」とは体全体を覆うことができるような防具であり、その陰に隠れる時に矢を恐れる必要はありません。しかし、敵に囲まれているような中では、もっと身動きに手軽な「丸盾」が有効です。

主の真実」は、そのようなあらゆる敵の攻撃からあなたを守る盾なのです。英語の有名な讃美歌に、「Great is Thy faithfulness」(父の神の真実は)という歌がありますが、私たちは朝毎に、父の神の真実をほめたたえ、世の荒波に向かうことができます。

2.「あなたは恐れない。また、暗やみを歩く疫病(ペスト)も、真昼に襲う滅びをも」

そのような中で、この著者は、「夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も、あなたは恐れない。また、暗やみを歩く疫病(ペスト)も、真昼に襲う滅びをも」(5、6節) と告白します。多くの人は最近まで「疫病」などを恐れる必要はないと思っていましたが、これが毎日の話題になっています。

この疫病はペストとも訳されることがありますが、戦後に流行ったアルベール・カミュのペストという小説が最近読まれています。そこで、人助けをしてペストに感染した人に関し、それが勲章のように言われていることに、あるお年寄りに、「だが、いったい何かね、ペストなんて?つまりそれが人生ってもんで、それだけのことでさ」と言わせています。

カミュは「疫病」のような不条理を、人生の一部として、あるがままに受け入れるように勧めます。彼は無神論者のようではありましたが、人生の不条理に理由付けをしようとする代わりに、「そこでは、私たちの生き方が問われている……」と言っていた点では間違ってはいません。

6節の終わりは「真昼の悪魔」と訳されることもあります。それは何とも言えない真昼の倦怠感として現れます。私たちが「こんなことを続けていて何になるのだろう……自分の働きなどあってもなくても同じだ……」と思えてしまうような気持ちです。人によってはそのために、新たな興奮を求めて放蕩に走ったり、また、反対に自殺を考えたりします。

結果が出ても出なくても、目の前の課題に誠実に取り組むためには、「主の真実」を、繰り返し思い起こす必要があります。その際に大切なのは、しばしば、主の前に少しの間でも静まって、心と身体を休めることです。五分でも全身の力を抜いて休むことができたら、再び気力が湧いてくるということもあります。

千人があなたのかたわらに、万人が右手に倒れても、あなたに、それは近づかない」(7節) とは、先の「疫病」や「滅び」の犠牲者となる人が回りに満ちるようなことがあっても、「あなた」に関する限りは、それらの攻撃から守られているという意味です。ここでは「あなたに」ということばが強調されています。

そして、「ただ、あなたの目でそれを眺めるだけだ」(8節) とは、あなた自身に対する攻撃に対して、神が盾となってくださることを、あなたがその目で見るという意味です。攻撃は見えても、被害を受けることはないのです。

なお続く、「悪者への報いをあなたは見る」とは、神に信頼することを知らず、神に守っていただけない人の悲劇を、軽蔑する代わりに、悲しみつつ見るという意味合いとも考えられます。

それと対照的に、あなたが守られている理由が、「それはあなたが、私の避け所である主 (ヤハウェ) を、いと高き方を、住まいとしたからである」(9節) と告白されます。

この主を「住まいとする」と言う表現は、詩篇90篇1節にもある表現です。それは私たちの地上のいのち、日々の生活が、神の御手の中に守られていることを覚える生き方です。そこにはこの肉体の命の終わりをも指す概念でもありますが、パウロが、「私たちは、神の中に生き、動き、存在しているのです」(使徒17:28) と言ったような生き方でもあります。

さらに、「わざわいは、あなたにふりかからず、伝染病も、あなたの天幕に迫りはしない」(10節) とは、6、7節を言い換えたものです。「疫病」「滅び」「わざわい」「伝染病」はそれぞれ異なった原文ですが、基本的な意味は同じで、人間のコントロールを超えたあらゆる種類のわざわいを指します。

確かに、津波も伝染病も人を選ばずに襲って来ますが、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:29、30) とあるように、私たち一人ひとりは、神の前に「十把一絡げ」のような存在ではなく、個別にその名を持って呼ばれている高価で尊い存在です。

仏教的な運命論的な諦めで自分の人生を見てはなりません。

実際、先にあったように、一万人の人が死ぬ中で、一人が助かるということもあります。その時、「たまたま運が良かった……」というのではなく、神によって守っていただいたと考えるべきなのです。

もちろんそれを反対に、「わざわいに会ったのは、神の罰を受けたから……」などと判断することは差し控えなければなりません。神は、どんな大天災の中でも、あなた一人のいのちに関心を持っておられます。

3.「主は御使いたちに命じ、すべての道で、あなたを守るようにしてくださる」

そのことが、「なぜなら、あなたのために主は御使いたちに命じ、すべての道で、あなたを守るようにしてくださるから。その手の平で、彼らはあなたを支え、あなたの足が石に打ち当たらないようにする」(11、12節) と記されます。

これはイエスが荒野の誘惑でサタンから投げかけられたみことばです。そして、イエスは何の罪も犯していないのに、死刑判決を受け、忌まわしい十字架にかけられて殺されました。しかもイエスは、十字架上で、「わが神、わが神。どうして、わたしをお見捨てになったのですか」と、沈黙しておられるように見える神に訴えました。それから考えると、この約束は嘘のようにも見えます。

しかしサタンは、肝心の部分を省いて引用しました。それは「主は……すべての道で、あなたを守るようにしてくださる」という部分です。

事実、イエスがゲッセマネの園で、苦しみ悶えて祈っておられた時、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた」(ルカ22:43) と記されています。またイエスが捕えられた時、ペテロは剣を取って大祭司のしもべに打ちかかりましたが、そのとき主は「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それともわたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」(マタイ26:52、53) と言われました。

すべての道で あなたを守る」ことができる神が敢えてわざわい」が起きるのを許すことがあるのです。

なお、「獅子とコブラをあなたは踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう」(13節) とは、詩的な表現で、私たちが、攻撃をしかけてくる恐ろしい獣を、完全に服従させることができるという意味です。

イザヤ11章では、救い主が実現してくださる平和の世界を、「小さい子供がこれ(若獅子)を追って行く」「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」と描いています (6、8節)。

そして、私たちは今既に、「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのこと(患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣)の中にあっても、圧倒的な勝利者とされている(ローマ8:37私訳) と言えるからです。

人生に危険や苦しみはつきものですから、被害者意識や自己憐憫に流れることを注意しなければなりません。

14節からは神の語りかけに変わります。そこではまず「彼がわたしを恋い慕っているから、彼を助け出そう。彼を高く上げよう。わたしの名を知っているから……」と記されます。

この「恋い慕う」とは、「 (ヤハウェ) があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは……」(申命記7:7、拙著のタイトル) などと言われるときの言葉で、感情的な結びつきを伴った愛情の表現です。

これと似た表現では「すがる」ということばもあります。これは「私はあなたなしには生きて行けない」と言うような意味です。私たちは心の底で、いつでもどこでも、神と人の助けを必要としない自律した人間になることに憧れてはいないでしょうか。

そのように神を恋い慕い、神にすがる人に対して、「わたしを呼び求めれば、彼に答えよう。わたしは、苦しみのときに彼とともにいる」(15節) と約束してくださいます。

ここでは、私たちが苦しみに会うということが前提とされています。多くの人は、「神がおられるならなぜ、このような悲惨が起きるのか……」と問いますが、その答えは分かりません。ただ、はるかに大切なことは、神が私たちの祈りを待っておられ、神がこの私一人の人生に深い関心を持っておられ、私と共に歩んでくださっていることを知ることです。

私たちが自分の決断で選ぶことができる分野というのは驚くほど少ない領域に過ぎません。親は子どもを育てる時、すべての環境を整えてあげた上で、そこで子どもができた些細なことを大げさにほめて自信を持たせるというプロセスを経ます。子どもは世界を自分でコントロールできたような気になっています。

それに対し、大人になるとは、自分が決して自分の力で生きているわけではないということを心の底から悟り、神と人とに感謝できるようになることです。

それにしても、神は私たちの些細な祈りを聞いてくださることによって、私たちのすべてのいのちが神の御手の中にあることを知らせようとしておられます。

最後に、「わたしは彼を救助し、誉れを与えよう。長いいのちで彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見させよう」(16節) と記されます。

この詩篇では、同じ概念が様々な異なったことばで表現されますが、神はそれによってご自身が私たちの歩みに目を留めておられることを知らせようとしておられます。

「神について知る」ことと、「神を知る」ことは決定的に違います。信仰の基本は、神との個人的な関係です。神がこの私一人に目を留めておられるということを知ることです。

もちろん祈りは、アラジンの魔法のランプのようなものではありません。信仰生活が長くなるにつれ、自分の祈りがまったく届かないと思える現実は多くなるものです。しかし、そのようなとき支えになるのが、「あの苦しみの中で、神は私を助けてくださった」という生きた記憶です。

そして、「私の願いはかなわなくて、かえってよかった」と思えることさえ出てきます。そのとき、私たちは神との生きた交わりの中で、自分の願いではなく、神の願いが何かを知るように導かれているのです。この詩篇は、私たちが困難の中に自分を差し出すときの祈りです。

アメリカの軍隊では、希望者に聖書全巻が無料で配布されますが、その第一ページ目は、創世記ではなく、驚くことにこの詩篇91篇でした。軍人は国や家族を守るために自分の身体を危険の中に差し出すことが求められています。

それはとっても恐ろしいことです。戦争は絶対に避けるべきだと言っても、歴史を見るとわかるように、国を守るために戦わざるを得ないときが起きて来ました。そこで何よりも励ましになるのがこの詩篇です。人生の荒波に向かう人に必要な励ましと慰めが、ここに記されています。

クオモ知事の祖父は貧しいイタリア移民でした。どうにか食品店を持てるようになった時、1929年の大恐慌に襲われます。彼は餓死者を見たくないと言って食品をただで配って破産しました。しかし、その息子ばかりかその孫もニューヨーク州知事となり、人々を励ましています。主は私たちが払った犠牲に確かに報いてくださいます。

昨日の会見では、4月の感染者数が激減し、潜在的な入院患者を10万人も減らすことができたのは、皆の努力のおかげと感謝していました。

ただ同時に、4月になって家庭内暴力が3割も増えたとを報告し、それに対し州政府がカウンセラーに給与を支払い、無料相談を受け付けていると紹介していました。

さらにこの苦難の時期がだからこそ生まれる新しい動きの一例として自分の22歳の娘と一緒に過ごす時間が増えたことを紹介していました。

そこで Socially distanced, Spiritually Connected(社会的に離れ、霊的に結びつく)ということばを掲げながら、州民が互いに支え合っている美しさを讃えていました。

私たちの交わりの中にも危険を冒して働きに出ざるを得ない方々が何人もいらっしゃいます。私たちが互いのためにどのような霊的な支援ができるか、それは祈りから始まります。