鹿のように〜詩篇42篇

昨日、私たちはインターネット配信によって礼拝を守りましたが、多くの方々は、いつになったら皆がそろって集まって、ともに主を礼拝できるのか……と思っておられることと思います。詩篇42篇は、そのような「うなだれ、思い乱れている」気持ちを表現しつつ、神が臨在する礼拝を待ち望む歌です。

この詩篇から生まれたワーシップソングに「谷川の流れを慕う鹿のように」があります。以下はその黙想バージョンの歌です。

実は、この曲は安田諭先生が訳されたもので、3番までの歌詞があり、この詩篇に記された「心の渇き」とその「満たし」はこの全体を見る必要があります(最後に紹介)。

まず、ごく簡単にこの詩篇の背景を解説します。

作者は、自分の心の中に、「鹿が深い谷底の水を慕いあえぐ」ような、激しい「渇き」があると告白します (1節私訳)。当地での日照りでは、「青草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる」(エレミヤ14:5) ほどに、鹿の渇きは切実でした。そして、その水は深い谷底にあり、鹿はそれを遠くに見て、「慕いあえぐ」ことしかできません。同じように作者は、「生ける神」を遠く感じて、「渇いて」います (2節)。

2、3節の、「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」という嘆きは、彼がエルサレム神殿とその礼拝の交わりから遠ざけられ、異教徒たちの間に住み、一日中「おまえの神はどこにいるのか」とあざけられていたことを前提に記されています。

その中で、かつて自分がエルサレム神殿での礼拝をリードし、「喜びと感謝の」賛美の中を先頭に立って歩んでいた体験を、遠い昔のことのように感じ、たましいを注ぎだして祈っています (4節)。その際、著者は、「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか(新改訳第二版では「絶望しているのか」)」(5節) と、自分のたましいの現実を正面から受けとめようとしています。多くの人々は、絶望を意識化できないからこそ、無意識に閉じ込められた絶望感に駆立てられ、目標もなく走り回り、この世の成功や快楽によって心を満たそうとしているのかも知れません。

この詩篇の第二部は、「私のたましいはうなだれています」(6節) との告白から始まります。彼は、神の神殿があるエルサレムから遠く離れた当地の北の果て、ヘルモン山のふもとに置かれているのですが、そのような絶望の中だからこそ、「それゆえ……私はあなたを思い起こします」と敢えて表現します。その際、かつて水のない渇きを感じた彼は、反対に、水が多すぎること、大滝に呑み込まれる恐怖を味わいながら、それを「あなたの波」と呼び、神のさばきと受け止めています (7節)。

そこで突然、「昼には、主 (ヤハウェ) が「恵み(変わらぬ愛)を施し、夜には、その歌が私とともにあります」(8節) と不思議な感謝へと百八十度転換します。そして、「私のいのち」はこの神との交わり自体、「祈り」にあると告白しています。つまり、「もう駄目だ!」と思ったその時、神を身近に体験できたというのです。それは、絶望と神の臨在の体験は、しばしば隣り合わせにあることを示しています。

さらに、その時こそ、「なぜ……私をお忘れになったのですか。なぜ、私は敵のしいたげに嘆いて歩くのですか」(9節) と自分の気持ちを正直に訴えることができます。私たちもこの詩に自分の思いを潜め、心の底にある絶望感に耳を傾け、それを告白するとき、不思議が起こります。イエスがこれを祈られ、十字架でその気持ちを味わい尽くされたからです。そのとき、あなたはイエスと一体化しているのです。

そして、暗闇の中でイエスに出会うとき、そこには反対に喜びと希望があふれてきます。その結果、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を」(11節) という告白が生まれます。ですから私たちは、この世の悲惨に目を閉じることなく、絶望的な状況にも立ち向かって向かって行くことができます。

祈り

主よ、あなたが私たちの心の奥底にある絶望感をやさしく受け止めてくださることを感謝します。自分の気持ちを正直に受け止め、それを祈りに変えられますように。


以下はこの詩篇の私訳交読文です(三行詩)。そのリズムを味わっていただければ幸いです。

指揮者のために。コラの子たちのマスキール

鹿が深い谷底の水を慕いあえぐように、 (1)

神よ。私のたましいは、あなたを慕いあえぎます。

私のたましいは、神に、生ける神に、渇いています。 (2)

いつになったら私は行って、神の御顔を仰ぐことができるでしょう?

昼も夜も、私の食べ物は、涙ばかりです。 (3)

「おまえの神はどこにいるのか?」と、一日中言われながら。

私は昔を思い起こしては、たましいを私の前で注ぎ出しています。 (4)

神の家へと、私は人々の先頭に立って歩んだものでした。

祭りを祝う群集の、喜びと感謝の、その声の中を……。

私のたましいよ。なぜ、うちしおれて(絶望して)いるのか? (5)

私の前で、うめいて(思い乱れて)いるのか?

神を、待ち望め。私はなおもたたえよう。御顔の救い、私の神を。

私のたましいは、私の前で、うちしおれて(絶望して)います。 (6)

それゆえ、あなたを私は思い起こします。

遠いヨルダンの地から、ヘルモンとミツァルの山から。

あなたの大滝のとどろきに (7)

深淵は、深淵を 呼び起こし

砕け散るあなたの波は みな、私を呑み込みました。

しかし、昼には、主 (ヤハウェ) が、慈愛 (ヘセド) を 施してくださいます。 (8)

夜には、主の歌が、私とともにあります。

私のいのち、神への、祈りが。

それゆえ、私の岩であられる神に申し上げます。 (9)

「なぜ、私をお忘れになったのですか?

なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩かなければならないのですか?」

私に敵対する者どもは、骨を砕くほどに、私をそしり、 (10)

一日中、私に向かって言っています。

「おまえの神はどこにいるのか?」と。

私のたましいよ。なぜ、うちしおれて(絶望して)いるのか?  (11)

なぜ、私の前でうめいて(思い乱れて)いるのか?

神を、待ち望め。私はなおもたたえよう。私の顔の救い、私の神を。

「鹿のように」安田 諭 訳詞
リビングプレイズ 69番
Words & Music Martin Nystrom谷川の流れを慕う 鹿のように
主よわがたましい あなたを慕う
あなたこそ わがたて
あなたこそ わが力
あなたこそ わがのぞみ
われは 主を仰ぐわが友わが王なる わがすべての主
心から何よりも あなたを愛す
あなたこそ わがたて
あなたこそ わが力
あなたこそ わがのぞみ
われは 主を仰ぐ

金銀よりわたしを 満たす望みの主
あなたこそわが瞳 よろこび与える
あなたこそ わがたて
あなたこそ わが力
あなたこそ わがのぞみ
われは 主を仰ぐ