ヨハネ20章19〜29節「イエスに遣わされて恐れの中に生きる」

2020年4月12日

ニューヨークの病院の集中治療室で自主的に看護師として援助に就かれた信仰者の先週のお証しです。

「その日、30床の病棟で、私の12時間勤務内で7人の方が亡くなりました。そのうち2人は私の患者さんでした。彼らはみな重篤で、助かる見込みが無く、責任者の指示のもと自らの手で2人の人工呼吸器のスイッチを切らざるを得ませんでした。2週間前にも、人工呼吸器のスイッチを切ったことがあったのですが、その時は家族と離れて一人ぼっちで孤独に死を迎える患者さんの手を握って患者さんの息が途切れるまで一緒にいて、お見送りをしました。

しかし、2日前はあまりにも他にも多くの重篤な患者さんがいたので、人工呼吸器のスイッチを切っても、看取る時間もなく、死を迎える患者さんを置いて、私は泣きながら次の患者さんの所かなくてはいけませんでした。本当に悲しいことです。もう、ここは戦場で人間の尊厳なんてものはありません。戦争中もそうやってみんな、孤独に死んでいったのでしょうね」

しかし、この地上でのどのような死も、イエスの十字架ほどに孤独で悲惨なものではありません。徹底的に父なる神に従っておられたのに、その方に向かって、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばざるを得ない状況にまで追いやられたからです。しかし、それは、この世界のすべての見捨てられた人と一体となられたという意味でもありました。

私たちは絶望感のただ中で神の御子イエスがともにいてくださることが分かります。そして、イエスが死人の中から三日目によみがえられたように、私たちもどのような暗闇の中にも希望の光を見ることができるようになりました。

実は、キリストの復活こそが世界を変えたのです。イエスにつながる者は、剣の脅しからも、感染症の恐れからも解放されて、今神から与えられた使命に生きられるようになりました。困難のただ中に向かう勇気こそ、信仰の実です。

1.恐れる弟子たちご自身の傷跡を示しながら与えられた「平安」

ヨハネ福音書の20章は、「さて、週の初めの日」ということばから始まり、イエスがご自身の復活の身体をマグダラのマリアに現わされ、彼女に弟子たちへのメッセージを伝えたという記事から始まります。

イエスはその際、臆病に逃げ惑っていた弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」 (17節) と呼んでくださいました。そして19節は再び、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」ということばから始まります。それは、「新しい時代の初めの日」であり、また世界の「新しい創造 (New Creation)」が始まった日とも呼ぶことができます。イエスは、既にマグダラのマリアばかりか少なくとも他の二人の女たちに (ルカ24:10)、またエマオ途上の二人の弟子とペテロとに、既にご自身を現しておられました (ルカ24:13-34)。

つまり、復活の知らせが、弟子たちの間を駆け巡った結果、「その日の夕方」、彼らは一つの場所に集ることができていました。ただ、それにも関わらず、彼らはなお、「ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた」(20:19) と描かれています。

マタイの記事によると、当時のユダヤ人の宗教指導者たちが恐れたことは、イエスの弟子たちが主の身体を盗み出し、主が「死人の中からよみがえった」と民衆を「惑わす」ということでした。それでローマ総督ピラトにイエスの墓に番兵をつけてもらいました (27:64、65)。

その後、復活の朝、「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と描かれます (同28:4)。番兵たちは気を取り戻すと、イエスの墓を封印していた石が取り除けられたことを報告したはずです。その話を聞いたユダヤ人の宗教指導者は、とにかくイエスの弟子たちがイエスの身体を盗んだというように解釈したことでしょう。

ですから今、イエスの弟子たちに探索の手が向かう可能性が高くなりました。私たちの目からはイエスの復活は、喜びでしかありません。しかしこのときの弟子たちは、イエスを十字架にかけるように画策したユダヤ人指導者の手が、自分たちにも及んで来ることにどう対処できるかという不安で一杯でした。

先日、政府が緊急事態宣言を発令するという報道がなされたとき、日経平均株価が五日間で約8.5%も急騰しました。多くの人がこれから一カ月も自宅待機を迫られると怯えているときに、「これで収束の方向が見えた……」と楽観視した人が多くいたからです。

人は置かれた立場で視点が大きく変わるものです。キリストの復活は弟子たちの世界を変える決定的な物語のはずです。ところが、それが弟子たち自身の人生の物語にまではなっていなかったため、彼らはなおも恐れに囚われていたとも言えましょう。

ところがイエスは、そんな弟子たちの真中に突然立って、彼らの不信仰や臆病さを責める代わりに、「平安があなたがたにあるように(ヘブル語では:「シャローム・アレヘム」)」と言われました。恐れに囚われて、戸に鍵がかけられていた」も関わらず、復活のイエスは入って来ることができたというのです。それは、イエスの復活のからだが、それまでとは全く異なる性質のからだに変えられていたからです。

そして、主は、心を閉ざしていたあなたのうちにも入って、平安 (シャローム) を与えて下さいました。確かに「あなたが心を開こうとしないから、イエスのことが分からないのだ……」と言いたくなるような人も、ときにはいるでしよう。しかしイエスは、恐れに満ちて心を閉ざしている人の中にも、その壁を越えて入って来てくださる方なのです。

その際イエスは、「手と脇腹を彼らに示され」(20節) ました。手には大きな釘の跡わき腹には手を差し入れられるほどのの穴がありました。本来、栄光のからだは「聖なる、傷のないもの」(エペソ5:22) のはずですが、不思議にも、主は敢えてその傷跡を残しておられました。弟子たちは、さらなるユダヤ人の攻撃を恐れていましたが、その傷跡は、槍の力も剣の力もイエスの前には何の意味もないことのしるしとなっていました。

そこで「弟子たちは主を見て喜んだ」(20節) と描かれます。それは目の前にいるイエスが、真実に十字架にかかられ、死の力に打ち勝たれた方であることの何よりの証拠となったからです。弟子たちは、もう自分を守るために戸を堅く閉ざす必要がなくなったという意味での「平安」が与えられたのです。

主はかつて弟子たちにご自身の死を予告された際、「あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」 (16:22) と言われました。

イエスの復活はその新しい時代の始まりを意味しました。私たちの人生に痛みや悲しみはあっても、それはごく短い間奏曲に過ぎません。それは喜びこそが人生を貫くテーマに変えられたからです。弟子たちに与えられた「平安 (シャローム)」とは、もう自分を守るために、心の戸を堅く閉ざす必要がなくなったという意味での「平安」とも言えましょう。

先日、英国のエリザベス女王がこの難局に対して、「後の世代の人々は、このときの英国人は、困難の中で良く自分の尊厳を保ち、ユーモアを忘れることなく問題解決に向き合い、仲間意識を深めることができたと賞賛することになるでしょう」という希望を語り、国民を励ましていました。

それは彼女が第二次大戦開始間もなくの1940年に、王女として同胞の子どもたちに忍耐と協力を訴えた記憶から語られた説得力あることばでした。私たちはそのような長期的な視点から現在を見る必要があります。

2.弟子たちを矛盾に満ちた世に「遣わす」ための「平安」

イエスは再び彼らに」、「平安があなたがたにあるように (シャローム・アレヘム)」と言われました (21節)。この二つ目の「平安」は、患難に満ちた世に「派遣」されるための「平安」です。その前提としてイエスは、「父がわたしを遣わされたように」と言われました。

この「遣わす」(原文:アポストロー、大使として)を、イエスはこの書でご自分を神から遣わされた者として繰り返し紹介する際に用いており (17回)、たとえば、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため」(3:17) と言われました。

しかもイエスを信じるとは、主が父なる神から遣わされた方であると信じることに他なりません。たとえば、ラザロをよみがえらせたとき、主は御父に向かい、「この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるため」(11:42) と祈っておられます。御子を御父との関係で理解するのが信仰の核心です。

その上でイエスは、「わたしもあなたがたを遣わします(原文:ペンポー、先のことばより一般的)」と言われました。主はこの動詞を用いて、父なる神を「わたしを遣わされた方」と繰り返し紹介し (25回)、たとえば、「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行なうためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行なうためです」(6:38)、またイエスは「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです」(12:45) と言われました。

イエスと御父は一体なので、イエスを見る者は、御父を見たことになると言われたのです。

さらにイエスは、「わたしが遣わす者(キリスト者)を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」(13:20) と言われました。

イエスが私たちを世に遣わされるのは、世の人々が私たちを通してご自身を見るようになるためであり、また、それを通してイエスを受け入れる者は、御父をも受け入れることになるのです。

この福音書に関する限り、この二つの「遣わす」という原語のギリシャ語、アポストローとペンポーに特に際立った意味の違いは認められませんが、これらこそ、この福音書のキーワードです(合わせて42回)。たとえば「愛する」という動詞は16回登場しますが(御父または御子が主語のケース)、それよりもはるかに多く用いられています。

イエスの生涯の秘訣は、父なる神から遣わされた者としての生き方にあります。同じように、キリスト者の生涯は、キリストにより遣わされた者としての生き方に他なりません。その点で、すべてのキリスト者は、例外なく、広い意味でのキリストの「使徒」(アポストロス)、または大使とされているのです。

それは恐ろしいことかもしれませんが、遣わしたイエスご自身が責任を持ってくださいます。ただそのためには、人々の前で、自分はキリストの弟子であることを公言する必要があるということも忘れてはありません。

その際、イエスは、「彼らに息を吹きかけて」、「聖霊を受けなさい」(22節) と言われました。これは、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創世記2:7) という創造のみわざを思い起こさせます。

彼らは今、聖霊によって新しく生まれ、再創造された者として、この地でイエスの代理としての使命を果たすように召されたのです。ところでイエスは、「あなたがたを」という複数形で語っています。

つまり、私たちは一人で世に遣わされるのではなく、交わりのうちに生きる者として遣わされるのです。なお、イエスは、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」(13:35) と言われましたが、私たちはイエスのすばらしさを、個人の働きによってではなく、愛の交わりで証しするのです。

その上でイエスは、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら……」(23節) と、ご自身の教会に「罪の赦し」を与える権威を委ねました。「教会の外に救いはない」と言われる場合がありますが、これは教会の秘蹟というより、福音を宣べ伝え、信じるように導き、交わりに受け入れるという働きを指します。

つまり、現実の教会が、罪人を受け入れなければ、それぞれの「罪は……そのまま残り」、彼らは神のさばきに会うのです。だれも教会を素通りしては神の子どもとされません。何という重大な使命を担っていることでしょうか。

神は、罪に満ちた世を愛されたために、ご自分の御子を世に遣わされました。そしてイエスは、閉ざされた私たちの心に「平安」を与えてくださいました。「平安」とは「平和」とも訳され、ヘブル語では同じ「シャローム」ということばです。

イエスが私たちをこの地に遣わされるのは、正義の戦いのためというより、この罪に満ちた世に、神の平和を実現するためなのです。その際、求められるのは、自分自身を主張することではなく、私たちを通して、私たちを遣わされたイエスご自身の姿が見られるようになることです。

3.「トマス、十二弟子のひとりなのだが……」

ところで、復活のイエスが弟子たちにご自身を現された時、トマスはその場にいませんでした。そのことを記す24節は、原文で、「トマス、十二弟子のひとりなのだが……」という不気味な表現で始まっています。これはあのイスカリオテのユダを紹介する書き出し方と基本的に同じです (6:71、12:4)。

トマスは物事を暗く見る傾向があります。イエスがユダヤ人たちからいのちを狙われている中で、ラザロの死を悟られ、彼を「眠りからさましに行く」(11:11、3版)と言われたとき、トマスは「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」(11:16) と仲間に語りかけます。主が「」について話したのに、彼はに目を奪われていました。

また、最後の晩餐で、イエスが「わたしがどこに行くか、その道をあなたがたは知っています」(14:4) と十字架を示唆して言われたとき、トマスは「主よ……私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と応答しました (5節)。イエスが彼らに自分で考えるように仕向けたにも関わらず、彼はいかなる曖昧さも許せないと迫ったのです。

彼はその場の空気を読むことができず、弟子たちの中でも浮いていたのかもしれません。彼がイエスの復活の日に同席していなかったのはそのためではないでしょうか。

そのようなトマスが弟子たちの交わりから離れていたのを、復活のイエスに出会った弟子たちが探したのかもしれません。彼らはトマスに、「私たちは主を見た」(25節) と言いました。

ところが彼は、半信半疑の様子を見せるならまだしも、その仲間の証しを真っ向から拒絶しました。彼は、露骨に「釘の跡」や「私の」いうことばを繰り返し、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に私の手を入れてみなければ、決して信じません」と言いました。

それを「見る」だけでは不十分で、「私の」や「私の手」で触ってみる必要があると言ったのです。これは驚くほど無神経な表現で、人の証しも自分の視覚さえも信じないという主張です。確かに人は幻を見ることがありますが、これでは対話の余地もありません。

ところが、ほかの弟子たちは、こんな破壊的な言動を吐くトマスを受け入れています。これこそ彼らがイエスから聖霊を受けたことの「実」と言えましょう。ここで「八日後」(26節) とは、当時の数え方で一週間後の日曜を指しますが、「弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた」からです。

信仰が全くなければ疑いも生まれ得ませんが、彼が交わりの中に留まっていたことこそ信仰の現れだったとも言えるようにも思えます。その際、イエスは再び、「戸には鍵がかけられていた」にも関わらず、入ることができ、彼らの中に真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われました (26節)。

このときは先のように「ユダヤ人を恐れて」という説明はありませんが、なおも「恐れ」は消えていなかったからなのでしょう。

ただ、ここでの中心テーマは、何よりもトマスの信仰を復活させることです。イエスは一言も責めることなく彼に語りかけます。その際、主は「」という表現を避けながら「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」と優しく招きました (27節)。主は、「私の指、私の手を入れてみなければ、決して信じません」という気持ちに寄り添われたのです。

事実、主は一週間前にも、彼らの会話やトマスの暴言を聞いておられました。他の弟子もトマスのことばで自分たちが幻を見たのかと心が揺れていたのかも知れません。イエスはその様子を、忍耐をもって見守っておられたのです。

そして今、イエスはトマスに向かって、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と付け加えられました。イエスは徹底的にトマスに寄り添いながら、同時に、見ずに信じるという信仰の回復を願われたのです。

これでトマスには十分でした。もう自分の指や手で、イエスの傷跡の感触を感じる必要はありません。彼が心の底で求めていたのは、自分ではどうしようもない心の闇を受け入れてくれる愛だったのです。

トマスは、「私の主。私の神よ」と応答しました (28節)。これこそ最高の信仰告白です。彼は、自分の罪と不信仰のすべてがイエスに知られ、受け入れられていたことが分かり、イエスご自身こそが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3:6) であり、その方が「私の主。私の神」となったと告白したのです。

私たちの信仰も、聖書の正しさが証明され、正当な教理が理解されれば良いというものではなく、「私の……」という個人的な出会いが必要です。

なお、このトマスの信仰告白が、後の時代に、「イエスは神である」という真理を示す最大の証拠の一つとしてあげられるようになります。弟子たちの中で、救い難いほどに暗く、不信仰であったトマスの告白こそが、三位一体の神の神秘を証しすることになったのです。

先にトマスはその場の空気を読むことなく、「どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と尋ねましたが、その問いが、世界を変えるイエスのおことばとしての、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(14:6) を引き出しました。そして、ここでは、不信仰な彼から「私の主、私の神」という信仰告白の模範を引き出されました。

その上で、イエスはトマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」(29節) と言われました。主は不信仰なトマスを受け入れ、立ち直らせた後で、このような態度を取り続けることがないようにと警告されたのです。

なぜなら、トマス以降の人は、天から特別に啓示された復活の主に出会ったパウロのような例外を除いて、「見ないで信じる人」となる必要があったからです。この点でも、トマスの根暗で独善的で不信仰な心こそが、私たちにイエスがどのような方かを明らかにするきっかけとなっているのです。

あなたも自分の不信仰を恥じる必要はありません。イエスのことばを理解できない、また主の復活を信じることができないと正直に告白するところに、真の信仰が与えられるからです。わかったふり、信じているふりをするなら、イエスがあなたの心の闇に働くことができなくなってしまいます。

トマスは、交わりを壊す危険人物になりかねないにも関わらず、「トマスの不信仰は、マグダラのマリヤの信仰と同様に、多くの益をもたらした」と言えます。しかも、「正直な疑いの中には、信条を鵜呑みにしているよりも生きた信仰がある」というのも事実です。

私自身、聖書を読みながら「これは作り話ではないか?」とか、「これらの間には明らかな矛盾がある!」とか、様々な疑問を感じつづけてきました。しかし、疑いをぶつけることで、隠された真理が見え、信仰が与えられ続けました。イエスに自分の不信仰を打ち明けるとそこに信仰が生まれ、絶望感を訴えると希望が生まれて来ました。恐れを打ち明けると勇気が与えられ、孤独を打ち明けるとイエスの慰めが見えるのです。

十字架と復活はセットで私たちの常識をひっくり返します。私たちは今、新型ウィルスの蔓延を、健全な意味で「恐れる」必要がありますが、同時にその「恐れ」によって互いに愛し合い、助け合うという愛にブレーキがかかるようなことがあってはなりません。