歴代誌はダビデによるエルサレム神殿建設の備えのことが詳しく描かれます。詩篇132篇では、「主 (ヤハウェ) よ、ダビデのために 彼のすべての苦しみを思い出してください」という記述から始まり、「彼は主 (ヤハウェ) に誓いました。ヤコブの力強き方に誓願を立てました。『私は決して、私の家の天幕に入りません……主 (ヤハウェ) の……御住まいを……見出すまで』」と続きます (3-5節)。これはダビデが神殿建設の場所を見つけるまで、自分の家に入って眠ることもしないという覚悟の現れです。
ただし、「御住まいを 私が見出す」と、ダビデのことばが記されますが、実際に神殿になる場所を見出すのは、彼が神殿建設を思い立ったはるかに後のことで、その晩年の平安な時期に、「サタンが……ダビデをそそのかし」、彼がイスラエルの人口調査をした直後です。それは神の民を自分の所有物として、戦力を確かめるという傲慢の罪の現れでした。
不思議にも、エルサレム神殿の基礎に、ダビデの罪とそれに対する神の赦しがあったのです。
1.「主 (ヤハウェ) があなたのために一つの家を建てる」
「ダビデが自分の家に住んでいたときのことである」(17:1) に続き、Ⅱサムエル7章では「主 (ヤハウェ) は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた」と記されていました。
そこでダビデは預言者ナタンに「この私が杉材の家に住んでいるのに、主 (ヤハウェ) の契約の箱は天幕の下にある」と、神の箱をお入れする恒久的な神殿を建設したいと言います。ナタンは最初、それに賛同しますが、主は彼を通してダビデに「あなたがわたしのために、住む家を建てるのではない」(17:4) とその発想の愚かさをたしなめます。
その上で主はダビデに、「わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした……わが民……のために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた……こうして、わたしはあなたのすべての敵を屈服させたのである。今、わたしは……告げる。主 (ヤハウェ) があなたのために一つの家を建てる、と。……わたしはあなたの息子の中から、あなたの後に世継ぎの子を起こし、彼の王国を確立させる……わたしは、わたしの家とわたしの王国の中に、彼をとこしえまでも立たせる。彼の王座はとこしえまでも堅く立つ」(17:7、9、10、11、14)と言われました。
7節から14節では、「おまえの働きではなく、わたしは……、わたしが……」と強調されます。つまり、主ご自身がダビデの「家を建てる」というのです。
なお主はここで、ダビデの身から出る世継の子の働きと主のみわざの対比を「彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王座をとこしえまでも堅く立てる」(17:12) と言われました。これはダビデの子ソロモンによる神殿建設であるとともに、ダビデの子である救い主による神殿の完成と、その王座の確立を約束したこととしても理解できます。
さらに主は、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしの恵みを、わたしはあなたより前にいた者から取り去ったが、彼からはそのように取り去ることはしない」(7:14、15) と、「ダビデの子」との親密な交わりを保証されました。この全体がダビデ契約と呼ばれます。
これを聞いたダビデは、「神、主 (ヤハウェ) よ。私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで私を導いてくださったとは。神よ。このことがあなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家について、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主 (ヤハウェ) よ、あなたはわたしをすぐれた者として見てくださいます」(17:16、17)と答えます。
これは詩篇8篇の原型となる祈りですが、その詩篇ではこの神のみわざが、私たちすべてに適用される原則であると述べられています。
さらに21節ではイスラエルの栄光が、「地上のどの国民があなたの民イスラエルのようでしょうか。神ご自身が行かれて、ご自分の民として贖い……エジプトから贖い出したあなたの民の前から異邦の民を追い払われたのです」と描かれます。
そしてその目的としての神の栄光が、「こうして、あなたの御名がとこしえまでも真実で、大いなるものとなり、『……万軍の主 (ヤハウェ) は、イスラエルの神である』と言われますように」と記されます (17:24)。大切なのはイスラエルの歴史を通して神の「真実」が全世界に証しされることなのです。
その核心は、主がダビデのために「一つの家を建てる」と告げられたことで (17:25)、それはダビデの子のソロモンではなく、イエスによって成就することになるというのが聖書全体の視点になります。
私たちはどこか心の底で、「もっと信仰深くなり、もっと良い働きができたら、神は私を喜び、ご褒美をくださる……」と考えてはいないでしょうか。そして、自分の不信仰や罪深さに直面させられると失望し、「私は愛されるにふさわしくない……」と落ち込んでしまいます。
しかし、神の救いは、常に、主ご自身が私たちを「心に留められ……顧みてくださる」(詩篇8:4) という神の一方的な眼差しから始まっているのです。神は、愛されるに値しない者を選んで、愛するに値する者へと造り変えてくださいます。
何よりも大切なのは、あなたが神に向かって何かをすることではなく、神があなたのために、またあなたを通して何かをしてくださるという「神の主権」を、また決して裏切ることのない「神の真実」に基づく神の愛をいつも覚えることです。
ダビデの四百数十年後に、イスラエル王国もエルサレム神殿もこの地上から消えます。それは、イスラエルの民が、偶像礼拝に走り、神の民として生きることを辞めたことへのさばきでした。では、神の約束は、人々の罪によって無に帰してしまうのでしょうか。
それについて、エルサレムと崩壊を預言した預言者エレミヤは、「主 (ヤハウェ) はこう言われる。もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり……」(33:19-21) という逆説を用いて、希望に満ちた主のことばを取り次ぎました。
決まった時間に日が昇り、季節が巡ってくるのは、主が大洪水の後にノアと結んだ契約の故であり、いわゆる「自然」ではなく、神のみわざなのです。それと同じように、ダビデに対する契約は守られ、ダビデの子イエスによって成就するのです。
ダビデの後継者のソロモンは、主の神殿を建てました。そして、主は父が子を教えるようにソロモンに知恵を与えました。しかし、そのソロモン自身が、主に背き始め、彼の後継者たちも主に背きます。ですから、ソロモンは真の意味でのダビデの「世継ぎの子」とはなり得ませんでした。
それに対して、これから千年後に、イエスが「ダビデの子」として立てられ、私たちすべての罪を贖うための十字架にかかることで永遠の神殿を完成し、死人の中からよみがえることによってサタンの力に勝利してくださったのです。
今は、全世界的な教会の交わりが「聖なる宮」として、キリストご自身によって建てられ続けております (エペソ3:21、22)。そして主は、今、「王の王、主の主」として全世界を支配しておられます。それこそダビデ契約の成就です。
2.「主 (ヤハウェ) は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」
18章1節で「ダビデはペリシテ人を打って……屈服させ……ガテとそれに属する町々を……奪い取った」と記されます。かつてダビデはガテの王アキシュの保護下にかろうじて生き延びたかのようでしたが (Ⅰサムエル27:2-7)、立場が完全に逆転しました。
また、ダビデはかつてモアブの王に両親を保護してもらったことがありましたが (Ⅰサムエル22:4)、ここでは「モアブはダビデのしもべとなり、貢ぎ物を納める者となった」と記されます (18:2)。
ここでは、ダビデが頼った相手が、ダビデに服従したという立場の逆転が描かれています。
その後ダビデは、ツォバの王ハダドエゼルが戦いを挑んできたとき、「彼を打った」(18:3) と記されますが、その中心都市はダマスコのさらに北にあるレボ・ハマテです(新改訳巻末地図5)。そこはかつてイスラエルがエジプトを出て間もなく、南からカナンに進入しようと、十二人の偵察隊を遣わして調べた約束の地の北の果てです (民数記13:21)。
そして、「ダビデはダマスコのアラム(シリヤ)に守備隊を置いた」(18:6) とあるように北の大国を完全に支配しました。その理由が、「主 (ヤハウェ) は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」(18:6) と、これらがすべて主 (ヤハウェ) の勝利であることが強調されます。
そればかりか、その北の強国ハマテの王トウは、ツォバの王からの攻撃に悩んでいたので、ダビデのこの勝利を祝い、貢物を携えてきたというのです。ハマテは、大河ユーフラテスの南に広がる国ですから、何とも驚くべきことです。
そして、これらすべての国々からの戦利品や贈り物としての金や銀を、ダビデは「主 (ヤハウェ) のために聖別した」(18:11) と記されます。
後にダビデは、「見なさい。私は困難な中で主 (ヤハウェ) の宮のために、金十万タラント、銀百万タラントを用意した」と語っていますが (Ⅰ歴代22:14)、その背景に、このような主が与えてくださった勝利がありました。ちなみに、単純な比較はできないにしても、ここに記された金銀の量を現代の価格で算定すると19兆円になり、日本の一年間の税収の三分の一に相当する膨大な金額です。
これはダビデが自分の生涯をエルサレム神殿の建設のために献げていたことを意味します。
その後、ダビデは死海の南東をも完全に制圧し、「エドムに守備隊を置いた」(18:13) というのです。この際も、「主 (ヤハウェ) は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」とまとめられます。
これによって、かつてのアブラハムへの約束、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」(創世記15:18) が成就し、この広大な地がイスラエルの支配に服することになったのです。
かつて主 (ヤハウェ) は、イスラエルの民に「契約の箱」を与えて彼らの真ん中に住み、彼らを南から約束の地に導き上ろうとされました。そのときモーセは、「あなたの神、主 (ヤハウェ) は、この地をあなたの手に渡してくださった。上れ。占領せよ……恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記1:21) と言いましたが、彼らは偵察隊の報告を聞いておびえ、エジプトに帰りたいと叫びました。
それ以来、神は、約三百年間も、彼らの不従順に耐え、ついに約束の地を支配させ、アブラハムへの約束への真実を示されたのです。
18章14節では、「ダビデは全イスラエルを治め、その民のすべてにさばきと正義を行なった」と記されますが、ダビデは「ヤハウェ」を真の王として仰ぐことによって、ユダ族ばかりか北の十部族をもまとめることができました。
彼は、部族間の争いに公正なさばきを下し、すべての部族が「正しい」と認めるような政策を実行することで、イスラエルにモーセやヨシュアの時代のような神の民としての一致を生み出しました。
19章では、死海北東部のアンモン人との戦いが描かれます。1節の「この後」という時間の表示が何を指しているかは分かりません。ここにある記事は明らかに、18章3-8節の前に起きたことを描いていると思われるからです。
どちらにしてもここではまず、ダビデが「真実を尽くそう」としたのに、それが仇で返されて争いになったという面が強調されています (2-4節)。その際、アンモン人の要請によって北のアラム諸国が挟み撃ちにしようと南下して来ましたが (6、7節)、ヨアブの冷静な判断と勇気ある行動によって戦いが勝利に導かれました (9-15節)。
16節に登場するハダドエゼルとは18章3節にあったツォバの王ハダドエゼルで、アラムへの勝利が北の異民族を団結させたことにつながりました。それでダビデは「イスラエル全軍を集結させ」(19:17)、北の強国アラムとこの国を支援していたすべての北の勢力を打ち破ります。
その後、「ハダドエゼルに仕えていた者たちは、彼らがイスラエルに打ち負かされたのを見てダビデと和を講じ、彼に仕えるようになった」(19:19) と記されますが、これは18章9節で述べられていた、はるか北のユーフラテス川南部のハマテの王までもがダビデに服するようになったことを指します。
20章1節の「年が改まり、王たちが出陣する時期になった……しかしダビデはエルサレムにとどまっていた」という書き出しは、Ⅱサムエル11章のウリヤの妻バテ・シェバを奪ったスキャンダルを思い起こさせます。
19章5節には、「アンモン人はアラム人が逃げるのを見ると、彼らもヨアブの兄弟アビシャイの前から逃げて町に入った」と記されていましたが、この「町」とはアンモンの首都ラバです。ラバは、昔は「アンモンのラバト」と呼ばれ、現在はアンマンと呼ばれ、ヨルダン王国の首都となっています。
20章の戦いは、城壁都市ラバに籠ったアンモン人を屈服させる掃討作戦です。2節ではダビデがアンマン人の王の冠を奪い取り、その重さが金一タラントと記されますが、これは34㎏の金で、現在の価格にすると2億円近くの価値になります。「その冠はダビデの頭に置かれた」と、ダビデの栄光と財力が強調されます。
20章4-8節には、ペリシテ人との戦いが記されますが、これも18章1節の前のできごとです。ヤイルの子エルハナンがゴリヤテの兄弟を、またダビデの甥のヨナタンが手足の指六本ずつを持つ巨人を倒したことが記されます。
つまり、ダビデ自身も、勇士たちに囲まれていたのです。私たちも自分の弱さを覚え、危険にさらされることがありますが、神は目に見える人を助け手として遣わしてくださいます。
3.「これこそ神である主 (ヤハウェ) の宮だ」
21章1節では、「サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした」と記されます。そこにはダビデの強い意志があり、彼がイスラエルの軍事力の調査を将軍ヨアブに命じたとき、彼はそれが主の御旨に反すると警告しますが (21:2、3)、「ヨアブへの王のことばは激しかった」(21:4) と記されます。
彼らはイスラエルの占領地をヨルダン川東側から北の果てまで行きめぐり、イスラエルには剣を使う兵士が110万人、ユダには47万人いたと報告します (21:5)。これはⅡサムエル24章でのイスラエルには80万人、ユダには50万人がいたという数字と大きく異なります。歴代誌のイスラエルの人数にはユダも含まれ、6節で「ヨアブはレビとベニヤミンをその中に登録しなかった。王の命令を忌み嫌ったからである」とあるように、正確な人数が記載されていないと考えることもできます。
どちらにしても7節では、「この命令は神の目に悪しきことであった」と記されます。ダビデは「ある者は戦(いくさ)車を、ある者は馬を求める。しかし私たちは 私たちの神、主 (ヤハウェ) の御名を呼び求める」(詩篇20:7) と告白していましたが、今、自分の軍事力を誇ろうとしたのです。
確かに、民数記では神ご自身が民を数えるように命じられましたが、ここではダビデが神の民を私物化したことが問題にされています。私たちも、すべてが順調に行くとき心が高ぶり、大きな過ちを犯すことがあります。
そしてここでは、神はダビデの傲慢な思いに対して怒りを発せられたことが、「神はイスラエルを打たれた」と描かれます。そこで初めて、ダビデは主に向って、「どうか、このしもべの咎を取り去ってください」と大胆に嘆願します (8節)。
しかし、主は先見者ガドを遣わし、三つのわざわいの中から選ぶように迫ります (21:12)。ここでは「三年間の飢饉」、三ヶ月の逃亡生活、三日間の疫病と、期間と悲惨さが反比例するパターンが強調されます。
彼は二番目を選択すべきだったのかもしれませんが、「私を主 (ヤハウェ) の手に陥らせ……私が人の手には陥らないようにしてください」という別の提案をしてしまいます (21:13)。それはサウルに追われた苦難を振り返ってのことでしょうが、それが「主 (ヤハウェ) はイスラエルに疫病を下されたので……七万人が倒れた」(21:14) という悲劇につながります。無力な民がダビデの身代わりにさばかれたかのようです。
これは不条理ですが、人間の歴史の常でもあります。王の失政によって誰よりも先に傷つくのは弱い民だからです。
ただこのときダビデは、「滅ぼす御使い」が「エブス人アラウナの打ち場のかたわらに立って……地と天の間に立ち、抜き身の剣を手に持って、エルサレムの上に伸ばしているのを見」ます (21:15、16)。
そのときになって彼は神に、「罪があるのはこの私です……この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主 (ヤハウェ) よ。どうか、あなたの御手が私と私の父の家に下りますように。あなたの民を疫病に渡さないでください」と応答します (21:17)。
神はこのことばを喜ばれ、ガドを通して「エブス人オルナンの打ち場に、主 (ヤハウェ) の祭壇を築く」ことを命じます。エブス人とはエルサレムに昔から住んでいたカナン人ですが、ダビデはこの異邦人から正当な代金を払って地所を買います。その価格金六百シェケル (6,840g) は現代に換算すると約4,000万円に相当します。
ダビデがそこで「全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ、主 (ヤハウェ) を呼んだ」ところ、「主は、全焼のささげ物の祭壇の上に天から火を下し、彼に答えられた」というのです (21:26)。
このときはまだ主の幕屋と祭壇はギブオンの高き所にあったのですが (21:29)、22章1節ではダビデが「これこそ神である主 (ヤハウェ) の宮だ。これこそイスラエルの全焼のささげ物の祭壇だ」と言ったと記されます。
つまり、このダビデの自分の罪への悔い改めと民への責任の自覚の現われとしての祭壇が、エルサレム神殿の基礎となったのです。しかも、それは異邦人の収穫作業の場でもありました。そこに、やがて建てられる神の宮がイスラエルばかりか異邦人にとっての救いの場となると示唆されます。
神はダビデの罪をさえ支配され、民全体のための益に用いられたと言えます。彼の罪は民を自分の権力行使の手段としたことでした。そして神のさばきは、民がダビデの身代わりとなることでした。それは彼が自分の権力を行使したときに当然起こるはずだった犠牲でもありました。
彼はそれに気づき、民を「この羊の群れ」と呼び、王としての責任を自覚し、そこに祈りの家としての神殿が生まれます。イスラエルの王は、真の王である天の父なる神に忠実であることが何より求められていましたが、ダビデは周辺諸国との戦いに、神の恵みによって次々と勝利したときには傲慢になり、罪を犯してしまいます。
しかし何と、その罪の記念碑に神殿が建てられることになりました。しかもこれらすべては、主がダビデの「王座をとこしえまでも堅く立てる」と言われたことに始まります。
そしてイエスこそは真の「ダビデの子」として、ダビデの祈りをご自身の祈りとし、父なる神に忠実な王の姿を実現しました。それこそ私たちの模範です。私たちに求められるのは、何よりも天の真の王に忠実に従いながら、この世界を平和に治めるということです。