マタイ5章1〜16節「主にすがり、地の塩、世の光として生きる」

2019年11月10日

「杖にすがるとも、人にすがるな」ということわざがあります。「すがる」というのは依存症的な生き方の象徴なのかも知れません。

ただし、私たちは誰もが皆、何かに対する依存症者であるとも言われます。それには、ギャンブル依存、薬物依存、買い物依存のようなものから、仕事依存、人間関係依存、ネット依存、活字依存など多様なものがあります。

しかし、聖書では、「あなたがたの神、主 (ヤハウェ) にすがりなさい」、そのとき「あなたがたは一人で千人を追うことができる」と記されています (ヨシュア23:8、10)。人が人にすがることは、ときに破滅への道となりますが、人が主 (ヤハウェ) にすがるとき、千人をも圧倒する力を持つことができます。

すがる」という心理には、自分が「変わりたい」という願いはなく、人にすがる者は、人を振り回すだけで終わる場合が多くあります。しかし、人が主 (ヤハウェ) にすがるとき、不思議にも、変わり始めることができるのです。それはちょうど、愛する人から「そのままのあなたが好き!」と言われるときに、かえってその人を喜ばせるような行動をとりたくなるのと同じです。

私たちは、「自分で変わりたいと思わなければ……」などと自問しているとき、心の目は自分に向かっています。そこには、空回りしか起きません。私たちが (ヤハウェ) にすがり心の目 (ヤハウェ) に焦点を合わせられるとき、私たちは初めて変わり始めることができるのです。

1.「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者」が「幸い」であるとは?

モーセが五つの書を記したように、マタイはイエスの五つの説教を残しています。そして、その最初は「山上の説教」、最後は23章に記された「終わりの日の説教」と呼ばれます。

前者の始まりでは九回の「幸い」が描かれ、後者では七回に渡って律法学者やパリサイ人への「わざわいだ」という宣告がなされます。

イエスは「大勢の群集」がつき従ったのを見た上で……「山に上り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで(4:25、5:1)、全く新しい教えとして、ご自身に従う者の幸いを九つに分けて語られました。それは何よりも、イエスに従うことを既に決意している弟子たちに向けてのことばです。

つまり、これは、「幸せに生きるための教科書」のような教えではありません。反対に、多くの人々が憧れるような、自立した人間としての立派な生き方なら、イエスからではなく、パリサイ人や律法学者から聞くことができたのです。

彼らは自分の努力で幸せをつかむ方法を教えましたが、イエスは「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」、そして「義のために迫害されている者」という、この世で苦しみ損をしている人への「幸い」を保証されました。これらは全てイエスなしには実現できないものです。

ところが彼らは自分たちが「教師父、指導者」になり、人々がイエスに直接につながるのを邪魔しました。イエスが彼らに対して驚くほど攻撃的なのは、彼らが人々にイエスと父なる神にすがることを邪魔したからです。

イエスは彼らに向かって、「お前たちは人々の前で天の御国を閉ざしている」(23:13) と非難しました。彼らは海で溺れている人に差し出された救命ボートを取り去って、泳ぎ方を大声で教えるようなことをしていたのです。

イエスは、「私は天の御国からは、ほど遠い……」と思っている人に向かって、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われました。

心の貧しい者」とは「謙遜な人」とはニュアンスが異なります。英語では the poor in spirit(霊において貧しい)ですから、本来、社会的に評価されるような人ではありません。日本語でも、「あなたの心は貧しいですね、霊性が低いですね」と言われて喜ぶ人などいないはずです。

ところがイエスは意外にも、「天の御国は(既に)その人たちのもの」と断言しておられます。イエスは宣教の初めに、「天の御国が近づいた」と言われましたが、ここでは「自分は大丈夫だ」と思っている人は「天の御国」に入っていないのですが、「私は霊的に何と貧しく、惨めな人間なのだろう……」と嘆きながら、イエスにすがる者は、すでに「天の御国」に入っているという不思議な逆説が述べられています。

米国の大きな教会には、アルコールや薬物その他の様々な依存症の方々の自助グループがあり、Celebrate Recovery というプログラムが開発されています。その第一は、「心の貧しい者は幸い……」の意味を心から理解することから始まります。

そのテキストⅠのタイトルは、Stepping out of Denial into God’s Grace「否認から抜け出て神の恵みの中に足を踏み入れる」です。依存症は「否認の病」と言われ、たとえば、自分にアルコールや薬物をコントロールする力がないということを認められなくて、どんどん深みにはまってしまうからです。彼らは歪んだプライドに囚われ、本当の意味で自分の無力さを認めてはいません。

実は「私は依存症とは無縁だ……」と思う人もみな、心の奥底で同じような問題を抱えています。しかし、自分の弱さや汚れを正直に認めることこそが、神のみわざが心のうちに始められる第一歩なのです。そして、その人は、その問題を抱えたままの状態で、今、既に、「天の御国」(神の国)に入れられているというのです。

悲しむ者は幸いです」の「悲しむ」とは、他の人には慰めようもないほどに深く嘆いている状態の人を指します。その人が幸いであるはずはないのですが、「あらゆる慰めに満ちた神」が (Ⅱコリント1:3)、やがて「慰めてくださる」という保障があるからこそ「幸い」なのです。

たとえば、ギャンブル依存症の人は、「今に必ず大儲けできる!」と信じ、同じ過ちを繰り返しますが、心の底の深い悲しみを押し殺しながら、夢を求めているだけなのかもしれません。しかし、本当に自分に絶望しながら、神に向かって嘆くとき、「すべての理解を超えた神の平安」(ピリピ4:7) を、今ここで、体験できるのです。これこそ信仰の神秘の世界です。

柔和な者は幸いです」の「柔和」とは、自分の正当性を訴えて争う生き方と対照的です。パリサイ人たちは議論の天才でした。確かに短期的に見ると、効果的に争う人こそが得をしているようにも見えます。

ただし、伝道者の書に「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない」(7:16) とあるように、一見「強い人」は、人の反感を買い、争いを広げることによって自滅してしまうことがあります。

それどころかイエスは、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイ5:39) と言われました。それは報復の連鎖を断ち切る教えであるとともに、神がこの地を確かに支配しておられるとの前提で語られたことです。

それをもとにイエスは、「柔和な者」こそが「地を受け継ぐ」と言われました。そこで問われているのは、自分の力に頼って争うか、神の力にすがって柔和」に生きるかという選択です。

ある人が、「イエスに従って誠実に生きようとするほど、人の痛みや悲しみに目が向かってしまう。『そんなこと私に関係ない』と言えなくなった」と告白しています、しかしそのような人に、神は「地を受け継がせてくださる」のです。

2.「義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者」の幸いとは?

義に飢え渇く」とは、この世の不条理に心を痛めながら、「神の正義」がこの地の実現することを強く憧れながら生きることです。

イエスはパリサイ人たちが驚くほど几帳面に十分の一献金を実践していることを皮肉って、「おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」(23:23) と言われました。イエスはここで「十分の一もおろそかにしてはいけない」と言いながら、優先順位を問題にしておられます。

当教会に集う多くの方々も誠実に十分の一を献げておられ、それは神に喜ばれていますが、もしそこで「私は義務を果たしている!」などと自慢することがあるなら、それこそ本末転倒になるというのです。

パリサイ人たちは義務を果たすことに熱心ではありましたが、「義に飢え渇いて」はいません。それゆえ、神によって「満ち足りる」ことを味わうこともないというのです。

それに対し、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」とは、神が「義の宿る新しい天と新しい地を」実現してくださるとの「約束」を信じ、それを夢見ながら、同時に今ここに「正義とあわれみと誠実」が足りないと心を痛めながら誠実に生きる人の「幸い」を約束したものです。

そのような人は、この世の不条理に心を痛めて落ち込んでいるようでも、実は、神がそのときそのときに、天国の前味を見せてくださることに満足することができます。それは小さな自己満足ではなく、神がこの世界をご自身のシャローム(平和、平安、繁栄)で満たしてくださるという約束の実現の「つぼみ」を発見して満足するのです。

人は痛みや悲しみに敏感になるとともに、今ここに実現している神のみわざをも見分けられるようになります。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」とありますが、私たちは人の痛みにいちいち心が反応しないほうがこの世では楽に生きられるかもしれません。

パリサイ人たちは、貧しい人を心の底では軽蔑しながら、頻繁に「施し」を実践しましたが、心の底では人の尊敬を得ることばかりを願っていました。あなたも人の悲しみを聞きながら、「優しい人に見られたい」という気持ちに動かされてはいないでしょうか。それは「あわれみ深い」のではなく、人の賞賛を求めるパリサイ人の心です。

しかし、「あわれみ深い人」の真実な祈りに神は耳を傾け、その人に「あわれみ」をもって答えてくださいます。

心のきよい」とは、心の中が神の聖さで満たされているという意味ではなく、自分の醜さを認める正直さです。英語ではしばしば、「pure in heart(心の中が純粋)」と訳されます。先のセレブレイトリカバリーでも、この部分に最も多くのページが割かれ、自分の過ちを正直に神に告白することと同時に、信頼できる人に告白するようにと勧められています。

心のきよい」とは何よりも、「透明さ」を指すことばです。自分の心を透明に見ることができることと「神を見る」ことは切り離せない関係にあるのです。「その人たちは神を見る」とは何かの恍惚体験というより、「心の目がはっきり見えるようになって……私たち信じる者に働く神のすぐれた力を……知るようになることでもあります (エペソ1:18、20)。

それは、不思議にも、自分の心の闇が明らかにされることに比例して起こることでもあります。「光は闇の中に輝いている」(ヨハネ1:5) と記されているからです。

3.「平和をつくる者、義のために迫害されている、ありもしないことで悪口を浴びる者は幸い」

しばしば、真理のために命を賭ける人は、争いを作ります。パウロもパリサイ人だった時、「主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻」いていました (使徒9:1)。

それに対してイエスは、「平和をつくる」こそが「幸い」であり、その人こそが「神の子どもと呼ばれる」と語りました。ここにある九つの「幸い」の中で唯一の積極的な行動が、「平和を作る」という教えです。それは「平和の祈り」に具体的に記されるように、「憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに和解を、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信頼を、誤りのあるところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす」ような生き方です。

そしてそのように生きる者は、「神の子」と呼ばれるのですが、これはイエスを「神の子」と呼ぶときと同じことばです。それは私たちが名実ともに小さなイエス、イエスの弟、妹とされることです。

義のために迫害されている者は幸いです」(5:10) とは驚くべき表現です。当時の律法学者やパリサイ人は上流階級で、質素に暮らしていましたが、パンの不安もなく、社会的な尊敬を受けていました。

そして、その特権的地位を守る思いから、イエスの「天の御国」の教えを批判し、迫害していました。それに対して、イエスは、「天の御国は」迫害されている側の、「その人たちのもの」であると断言してくださったのです。

そればかりかイエスは、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、またありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから」(5:11、12) と約束してくださいました。なぜなら、それは人々があなたをイエスと一体化した者と見たことの最大の証しだからです。私たちはイエスに似た者となることを求めますが、迫害者はそれを手助けしてくれているのです。

なおこれは、厳密には、「死んだ後、天国で慰めを受ける」という意味ばかりではありません。マタイは、「」を、「目に見えない神のご支配の現実」という意味で用いています。イエスに従う者は、今、ここで、命を落すような迫害のただ中でも「大いに喜ぶ」ことができるのです。

私たちに求められていることは、誰からも非難されない立派な人間になることではなく、イエスに従い続けることです。その中で、あなたは結果的に造り変えられて行きます。そして、それは神がなしてくださることです。

「そのままの姿で、留まる」ことと、「そのままの姿で、従う」ことには天と地の差があるのです。

4.「あなたがたは、地の塩です。世の光です」

イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたは、地の塩です」と断定してくださいました。「」が当時は防腐剤として用いられていたように、すべてのクリスチャンは地上の腐敗を防ぐ役割を持っています。

しかも、ここでは、地の塩に「なる」ことの命令ではなく、「塩気」を無くすことへの警告が述べられます。誰にとっても、キリストに従うことは、人生でもっとも重大な決断を意味しますから、どんなクリスチャンであっても、地の塩としての役割を果たす十分な資格を持っているのです。

ところが、私たちはせっかくイエスに従うと決断したのに、「人の好意を得られた方が伝道になる」などと、「この世と調子を合わせる」(ローマ12:2) という誘惑に負けてしまいます。しかし、それは自分から「塩気をなくし」て行く行動に他なりません。

あなたは、既に「地の塩」とされています。その意味は、キリストに従おうとした原点に立ち返るとわかります。そのとき、あなたは世の人々ではなく、キリストにすがろうとしていました。それこそが「塩気」を保つことの始まりです。

塩気を生むのは、あなたではなく、あなたのうちにおられるキリストです。それを忘れて人の評価を気にし出すと、塩気を失い、「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる」(5:13)という自滅への道となります。

さらにイエスは、「あなたがたは世の光です」と言われました (5:14)。ここでも主の命令は、光に「なる」ことではなく、光を「隠してはならない」という勧めです。

ここで「山の上にある町は隠れることができません」と記されますが、当時の町は、ほとんど山の上に建てられていました。同じようにクリスチャンは何もしていないようでも、自ずと目立っているのです。自分が望まなくても、証しをする機会は与えられるものです。

明かりをともして升の下に置く」(5:15) というのはアイロニーです。当時の明かりは、皿のような器に油を入れて、その先に芯をつけて燃やす形でした。そのため、安全のためには、直ぐに火を消すことができるようにのような覆いが不可欠でした。つまり、ここでは、苦労して火を灯したあげく、誰がそれを、火を消す道具の下に置くだろうかという、反語的に記されているのです。

これは私たちにとって、「ようやくクリスチャンとされたのに、その喜びをわざと消す」ような、周りに同調するような生き方を避けるようにという警告です。あなたがイエスを自分の人生の主と告白しているなら、あなたが隠そうとしない限り、自ずと、光はあなたの中から発せられているのです。それは、「栄光の望み」であるキリストご自身が、あなたの心の中におられるからです (コロサイ1:27)。

多くの人々は、自分の能力が発揮できているとき、輝いていると思いますが、それは必ずしも「いのち」が輝いていることを意味はしません。得意において褪せる「いのち」もあれば、失意の中で輝く「いのち」もあります。キリストの「力は弱さのうちに完全に現れる」からです (Ⅱコリント12:9)。

イエスはこれらの結論として、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(5:16) と言われました。これは前節からの文脈では、「光を隠してはならない……」ということが核心的な勧めです。

キリストに従う者は自ずと輝き出すのですから、「輝かせなさい」とは、人々の前で自分のクリスチャンとしてのアイデンティティーを顕わにしておくことに他なりません。

そこで、「人々があなたがたの良い行いを見て、天の父をあがめる」とは、すでに起こっている神の目に映る「良い行い」で、それはたとえば、私たちがこのように日曜日、ともに集まって、天地万物の創造主を礼拝していること自体が最高の「良い行い」です。

私たちはしばしば、この世の基準による「良い行い」、すばらしい働きや成果を追い求めますが、実は、そのとき、心の奥底では、神ではなく自分の名声を求めている場合があります。

もし、私たちが、あくまでも、礼拝や日々のディボーションを大切にするなら、人々は、はじめは理解できなくても、やがて、神を礼拝することの大切さを知るように変えられます。

私たちはときに、「こんな私ではイエス様から愛されない!」と勝手に思い込んで落ち込みます。しかし、イエスはこのままの私たちを愛し、私たちの罪のために十字架にかかり、私たちを聖徒としてくださいました。「もっと用いられたい」「もっと輝きたい」という願いを持つ前に、キリストがこのままの私たちを、このままの姿で、地の塩」「世の光としてくださったことを覚えましょう。

私たちはクリスチャンとしての歩みの中で、自分の心の奥底にある醜い思いに唖然とさせられ、自分を卑下することがあります。しかしイエスが言われる「良い行い」とは、自分の罪深さに涙を流しつつ、それでもイエスに従うことです。

あなたを輝かせてくださるのは、あなたのうちに生きておられるキリストご自身です。

塩と光には共通する点があります。当時のイスラエルの塩は、一般的に、死海から取られたものですが、それは不純物が混ざった塊として採取されます。塩として役立つためには、砕かれ、不純物が取り去れなければなりません。

また光は、燃焼によって生まれますが、それは油が自分を失ってゆく過程に他なりません。

そのようにイエスが私たちの内でより明らかに働くためには、アダムのままの自分が砕かれるというプロセスも必要です。

私たちは、「何のために生かされている?」のでしょう。それは、「神に栄光を帰し、永遠に神を喜び楽しむため」に他なりません(ウエストミンスター小教理問答)。そのように生きる時、私たちは自分ではまったく輝いていないと思いながら、現実には「世界の光」としてますます輝きを増して行くことができます。