Ⅰコリント15章1〜11節,20〜24節、58節「キリストの福音に生きる教会」

2019年10月06日(三十周年記念礼拝)

私たちの教会は、30年前の10月1日に、キリストの復活宣言とともに礼拝を始めました。世の多くの人々はイエスが私たちの罪の身代わりとして十字架で苦しまれたということを知っています。しかし、聖書では十字架と復活はセットになっており、十字架は勝利のシンボルでもあるのです。

そのことを英国国教会N.T.ライト教授は、「十字架において、イエスはまさに、人々を隷属させている力を滅ぼされた。初代のクリスチャンにとって、革命は最初の聖金曜日に起こったのだ。支配者や権力者たちは確かに死の一撃を受けた。それは、『それで私たちはこの世から逃げて天国に行ける』という意味ではなく、『今やイエスはこの世界の王であられる。それで私たちは主のご支配のもとで生き、主の王国を宣言しなければならない』という意味である。革命は始まった。それは続かなければならない。イエスに従う者は単にその恩恵を受けられるというばかりでなく、王国の代理人 (agents) とされたのだ」と記しています。

イエスの十字架の福音は、世界を変え続けています。たとえば近代国家では、その人の出生や能力に関わらず、すべての人の基本的人権が認められており、それは犯罪者にまでも及んでいます。それは、イエスが罪人の救いのためにご自身の身を犠牲とされたことを原点としています。

また、当時のローマ帝国では皇帝を「神の子」として崇めない者は、死刑にされることがありましたが、クリスチャンは新しい王国の代理人 (agents) として、その死の脅しに屈することなく、社会的弱者を受け入れる愛の交わりを築き広げました。そして、ついにはローマ皇帝さえもイエスを「神のひとり子」として礼拝するようになりました。

なおライト氏は個人的な会話の最後に、福音宣教で何よりも「New Creation(新しい創造)」を強調することを勧めてくださいました。それに対し、私たちの教会のヴィジョンとして、「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」として表現していると申し上げると、それを心から喜んでくださいました。

しかし、そのような言語化は最近のことですが、このヴィジョンは最初から私たちのうちにあったものと言えましょう。

1.あなたがたが受け入れて、立っており、救われる福音

パウロは「今、あなたがたに福音を(改めて)知らせましょう」(1節) と述べます。しかも、「これは私が宣べ伝え……あなたがたが受け入れ……立っている福音」で、基本的に何も新しい話ではないとも述べます。

あなたは未信者の方から、「福音とは、どんな意味ですか?その内容は簡単に言うと何ですか?」と聞かれたらどのように答えるでしょう。人によっては、自分自身に起こった「霊的体験」のようなものを語るべきと思うかもしれません。

それに対してパウロは、何か特別な体験などなくても、「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら……救われる」(2節) と強調します。つまり、福音とはことばで表現できるものなのです。

しかも、「救い」とは、さばき、罪の力、孤独、不安、苦しみ、それらすべてからの最終的な解放を意味します。「救い」とは、未来の揺るがない希望として描かれるものです。

ここには、過去、現在、未来のできごとが一連のこととして描かれています。かつて、彼らは、パウロから聞いた福音を受け入れました。そして、現在はそれによって立って、ともに神の民として礼拝しています。そして、将来、彼らはこの世のすべての不条理な支配の力からも救われて、なんと御使いたちをさばく」という状態にまで高められるというのです (6:3)。

コリントの人たちは、御使いのようになり、御使いの異言を語ることなどの超自然的な霊的体験に憧れていました。しかし、御使いは神のしもべに過ぎません。私たちは「神の子」「イエスの兄弟」、「キリストの花嫁」という立場が既に与えられているのです。

続けてパウロは、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって」(3節) と、そのことばは超自然的に与えられたものではなく、他の使徒たちから伝えられたことであると述べます。

そして「キリストは……」という3-5節の文章は、彼の創作ではなく、当時の諸教会で既にあった礼拝式文からの引用だと思われ、これは後に「使徒信条」としてまとめられるものの原型だと思われます。

ほとんどの信条は、どこかの教会会議で、誤った教えから教会を守るために合意された文書ですが、使徒信条だけは教会の中で自然に定着したもので、そこに教会の一致を保つ御霊の導きが見られます。

最初のことばは、「キリスト(救い主)は死んだ」という衝撃的な表現です。コリントの人々は神秘体験を求めましたが、十字架のことば(1:18) こそ最大の神秘です。そこには「私たちの罪のため」という神の救いの計画があり、それは「聖書に書いてあるとおり」のことでした。

そのことがイザヤ53章4-6節では、「(ヤハウェ) のしもべ」としての救い主の姿が、「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った……彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。私たちはみな羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」と記されています。

しかもその方は父なる神と同じ本性を持つ、創造主でした。どれほど崇高な人格者が他の人の罪のために死んだとしても、世の人々は一時的に感動するだけで、世界を変える力はそこにありません。しかし、本来死ぬはずのない「いのちの創造主」が私たちのすべての罪と咎を負って死なれたとき、世界が変わったのです。

また、「また、葬られたこと」(4節) ということばは、「死なれたこと」と、「よみがえられたこと」と同じ重さで強調されています。それは、イエスの肉体的な死は、動かしがたい事実であるという宣言であるとともに、そこには墓が空っぽだったということの示唆があります。

つまり、イエスは単に、ご自身の霊を父なる神に渡したのではありません。墓の中では、イエスの古いからだが、朽ちない新しい身体に変化したのです。

現在のエルサレムには「園の墓」があります。それはイエス時代の墓を現わした施設で、イエス様を葬った洞窟の前には、「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」(マルコ15:6) と記されています。

イエスが葬られた墓が空っぽであるというのは、当時のすべての人が認めざるを得なかった現実です。そして、キリストの復活以外に墓が空っぽになっていることを合理的に説明できることは誰もできません。

聖書に従って……よみがえられた」とは、原文で「よみがえらされた」という受け身形です。イエスは、ご自分の力ではなく、父なる神によってよみがえらされたのです。事実、使徒の働きの2章でペテロは、「あなたがたは……この方を……十字架につけて殺しました。しかし、神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました」(使徒2:23、24) と語りました。

その上で詩篇16篇10節の「あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず あなたにある敬虔な者に 滅びをお見せにならないからです」を引用し、復活の意味を説き明かしました。しかもそれは、旧約聖書全体のストーリーでもあると言えます。

それをパウロは、「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない(恥を見ることがない)」(ローマ10:11) とまとめました。ある方は、昔、絶望のただなかで祈っていたとき、このみことばが心に響くことがありました。それから、自分のまわりを違った目で見ることができるようになり、状況が変わらないままで不思議な平安で満たされました。それは、主に従う者を、主は豊かに祝福してくださるとの確信です。

それは、気休めではありません。イエスは死に至るまで神に忠実でしたが、その方が死んだままでは、神に信頼した者が恥を見たということになります。しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらされ、ご自身の真実を証しされたのです。

ペテロはその際、「(ヤハウェ) の名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエル2:32) と言いました。たとえば、ヨナは三日間大魚の中にいましたが、その苦しみの中から主 (ヤハウェ) の御名を呼び求めると、救い出されました。同じようにイエスも三日間、闇の中にいて救い出されました(ヨナ1:17、マタイ12:40)。私たちは、神が沈黙しておられるように思えても、決して失望する必要はありません。

なお、ここで敢えて「三日目によみがえられた」と強調されるのは、歴史的事実を述べると同時に、イエスご自身が「三日で神殿を建てる」(マルコ14:58、15:29) と宣言した者として、あざけりを受けたからでもあります。これは、イエスがかつてエルサレム神殿の中で、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる(建て直そう)」(ヨハネ2:20) と言われたことに端を発しています。

しかし、イエスの復活こそは、真実の神殿の復興と完成を意味しました。イエスは大法螺吹きでも神殿冒涜者でもなく、旧約に預言された終わりの日の神殿の完成者なのです。

2.ケファに現れ、十二弟子に現れ……ヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに……私にも現れ

パウロが受けた初代教会の式文は、「ケファに現れ、それから十二弟子に現れた」(5節) で終わっていたと思われます。日本語訳でもそれを明確にするために「……ことです」で文章が締めくくられます。なお「ケファ」とは、当時使徒たちのリーダー的存在であったペテロのことですが、パウロはその名を持ち出すことによって、三度も主を否認した者を変えたのはキリストの復活であると彼らに思い起こさせています。

その上でパウロは、「キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れ……大多数は今なお生き残っています」(6節) と言って、生き証人から主の復活を確かめられると強調します。そればかりか彼は、「その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちにも。そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました」(8、9節) と記します。

イエスの弟のヤコブは、主の復活の前は弟子ではありませんでしたが、後にはエルサレム教会の指導者になっています。ヤコブが使徒となったのは、復活のイエスが彼に現れたからであり、その後、使徒職に加えられたすべての者にもご自身の復活の姿を見せ、最後にはパウロにご自身を現わしました。これこそ使徒とされた者への特別待遇でした。

そして、キリストの弟子の迫害者であったパウロがそのような「神の恵み」に預かったのは、「ほかのすべての使徒たちよりも多く働く」(10節) ためであり、また、繰り返しの投獄、船の難破、むち打ち、その他、他の誰よりも多くの苦しみに耐えながら福音を宣べ伝え、このような聖書を書き残せるためでもありました。彼は、「キリストの復活の証拠は、何よりも、この私の生涯に見られる」と言いたかったのではないでしょうか。神の教会を迫害していた人が、最大の伝道者と変えられるということこそ、主の復活の最大の証拠なのです。

ここでは、「(復活の)キリストが現れた」(原文では四回、7節は一回のみ)と、「神の恵み」(10節で三回)ということばが繰り返されています。それは、私たちの信仰は、神の一方的な働きかけの結果なのです。

実は、クリスチャンはすべて、どこかで、キリストの復活の力を、心の中で体験したからこそ、このように礼拝しているのです。私たちはだれも復活のキリストを見てはいませんが、主のみことばによって、復活の主に出会っています。それは、「心の復活」と呼ぶことができます。

しばしば私たちは、既に自分が体験したみことばによるキリストとの出会いを過小評価してはいないでしょうか。復活の主が私たちの心に働きかけ、この礼拝の場へと導いてくださいました。そしてそれは、私たちの価値観を変え、生き方を変え、交わりを変え続けています。

すべては、神の一方的なみわざから始まっています。信仰は、その恵みに自分の身を委ねることです。私たちはみな、死の力に打ち勝たれた主を知らされ、「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です」(使徒3:15、2:32) と告白できます。私たちの教会も、今から30年前にこのみことばを先の使徒2:23、24と合わせて告白することから、ここでの礼拝を始めました。

3.キリストの復活は、私たちの復活の初穂、世界の完成の保証

パウロは15章20節で、「しかし、今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(20節) と述べますが、キリストの復活とは、私たちの復活の「初穂」なのです。主は墓の中で朽ちない身体に変えられましたが、同じことが私たちにも起こります。

私たちの救いとは、不自由な目が完全に、聞こえない耳が聞こえるように、音痴が歌えるように、よろめく足が踊れるようになること、また、無感動な心が感謝に満ち溢れるようになることです (マタイ11:5、イザヤ35:5、6参照)。

パウロは、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24) と嘆きましたが、不思議にも、その直後に「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します」と告白し、主を賛美しました。それは、キリストの復活のゆえに、死のからだからの解放が、すぐ目の前に迫る現実となったからです。

」は、「一人の人」アダムによって、すべての人の避けがたい現実となりましたが、「一人の人」であるキリストによって、すべての人に復活への道が開かれました。私たちは、キリストが再び天から地に来られるのを待つ必要がありますが、主の再臨は、ご自身の復活によって保障されたことです。

なお、パウロは、続く23、24節で「救い」の順番として、第一にキリストの復活、第二に私たちの復活、最後に、父なる神のご支配が全世界の隅々にまで満ち溢れると描いています。

私たちは、この世界の歴史がどなたによって導かれているかを忘れてはいないでしょうか。しばしば、ヒストリーとは、ヒズ(HIS⇨神の)ストーリー(物語)であると言われますが、それは、「神の国」が今も広がり続け、完成に向かっているという意味です。

最後にパウロは15章58節で、自分の敵対者をも含めて「私の愛する兄弟たちよ」と語りかけます。その上で、「堅く立って(堅固にされながら)、動かされることなく」と勧めました。それは、様々な教えに振り回されずに、彼自身が受け、伝えた福音のことば (1-5節) にとどまり続けることです。

それはまた、人の意見や周りの状況に合わせて自分の意見をコロコロと変えることがないこととも言えます。すべての状況に対応できる柔軟性は大切ですが、確固たる信念がない人間は、誰の信頼をも得ることはできません。

そして、真の信仰は、行動の変化を生み出すはずのものです。そのことをパウロは、「いつも主のわざに励みなさい(満ち溢れなさい)」と命じます。それは希望に満ち、喜びが溢れ出るような働きです。

この地での仕事や家事や子育てなど、主に祈りながらなされるすべての働きは「主のわざ」です。あなたは主イエスに遣わされ、主イエスから任された仕事を、この地にイエスのご支配が現わされるために行うのです。

その際、多くの人は、労苦が無駄になることを恐れます。実際、この世界には、人を利用することしか考えない管理者もいることでしょう。しかし、ヘンデルのハレルヤコーラスの意味は、主イエスの復活以降、主は「王たちの王、主たちの主 (King of kings, Lord of lords)」としてこの地を支配しておられるという告白にあります。

そうであるなら、私たちのすべての「労苦」は、「主にあって」無駄にはなりません。復活を信じるとは、この事実を「知っている」ことなのです。それこそキリスト者の常識です。多くの人にとって死者の復活は余りにも遠い話しに聞こえますが、この知識こそ私たちの日常生活を根本から変える力の源です。

キリストの復活は、神とキリストがこの世界を、愛によって完全に支配しておられるしるしです。私たちは自分の殻を破って、大胆に主に信頼し、自分を投げ出して行くことができます。

なお、「神は……世を愛された」(ヨハネ3:16) のですから、主のための働きとは、この地のほとんどの経済活動にまで及ぶものです。その際、結果や成果を気にする必要はありません。なぜなら、主のためになされる働きならば、結果に責任を持ってくださるのは主ご自身だからです。

歴史は、あと一息で、喜びに満ちたグランドクライマックスを迎えます。この地で何かを失っても、それは本物の影に過ぎません。この心では想像もできない喜びに満ちた栄光の時は目前に迫っています。ですから私たちは、世界の完成を先取りして、目に見えない創造主を「王の王、主の主」として霊と真理をもって礼拝し、愛の交わりの完成を先取りして互いに愛し合い、この地に平和が満ちることを先取りして、地の塩、世の光としてこの世に遣わされるのです。

これこそ、私たちの教会に与えられているヴィジョンです。最後の審判に目を留めて「死んでも天国に行ける!」と言いながら、この地の責任を回避するなら、歴史の支配者であられる神は、それを悲しまれることでしょう。

何よりも大切なのは、日々の生活を「新しい創造」の観点から見られるようになることです。それは「私たちは今後、肉に従って(人間的な標準で)人を知ろうとはしません……だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と記されているとおりです (Ⅱコリント5:16、17)。「新しく作られた者」とは、「New Creation(新しい創造)」と記されています。

ただ、サタンはイエスの十字架と復活以来、自分の敗北を悟り、必死に断末魔の抵抗を続けています。ですからこの社会では、福音によって世の人々の価値観がきよめられて行くという進歩と共に、黙示録にあるような終わりの時代の苦難、背教が激しくなります。

たとえばその17章では、「すべての淫婦と憎むべきものとの母、大バビロン」(5節) という政治権力と結託した富の支配の横暴が記されています。それは当時のローマ帝国の広大な単一通貨の経済圏を背景として既にあったものですが、現在のグーロバル市場経済にも重ねてその問題を見ることができます。そして、その中で中間層が没落するという形で、社会の矛盾が現れると、それが民族主義の台頭、強権的な問題解決へと向かったりします。サタンはそのような矛盾の背後で、神々となった人と人との対立をあおり、神のご支配を見えなくさせて行きます。

そのような動きに対して、イエスは隣人との愛の交わりを広げるという地道な神の国」の拡大を求め続けておられます。私たちはキリストに結びつくことによって、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり……実に十字架の死にまで従われた」 (ピリピ2:7、8) というキリストの姿に倣う道に人生の美しさを見出すことができるようになりました。それはこの社会におけるすべての仕事や市場経済下の働きの中に現すことができます。

その際、新約聖書のタラントやミナのたとえにあるように、神は私たちに与えられた賜物やお金を、「神の国」のヴィジョンのために豊かに用いることを期待しておられます。それは音楽家、芸術家が、「神の国」の美しさをシンフォニーや芸術作品を通して現わすために日々、訓練を積むことに似ています。

お金に使われずに、お金を賢く使うことができるための訓練も、現実の教会には求められています。そして、創造主なる聖霊が、あなたに創造的なお金の管理の仕方、創造的な働き方を導いてくださいます。