マタイ3章1〜17節「イエスが受けたバプテスマ」

2019年9月22日 

この世界には様々な矛盾がありますが、その真の原因を知る人は稀です。この世界では常に、一つの問題の解決が次の問題を生み出します。今から二千年前、イスラエルの民はローマ帝国の支配から解放されることを切望していましたが、それに対しバプテスマのヨハネは、ひたすら神の救いを待ち望み、神の前に遜るようにと訴えました。この約200年前にギリシャ人の王を打ち破ったユダヤ人は、独立王朝を築くものの百年も経たずに内紛で自滅していました。

この世の権力者は自分を神としますが、それこそアダム以来の人間の罪です。互いの正義を主張し合って争うという神々の争いが続きます。その罪の連鎖を断ち切って、神の平和がこの世界を支配するように導くのが救い主です。

まさにヨハネは、この世界の真の問題を指摘しながら、同時に、真の意味で世界を癒す方を指し示しました。

1.「悔い改めなさい(回心しなさい)、天の御国が近づいたから」

マタイによる福音書において、1、2章はイエスの降誕に関わることが記されます。それはクリスマス前後に何度も読まれてきました。そして3章1、2節では、「そのころバプテスマのヨハネが現れた。ユダヤの荒野で宣教し、『回心しなさい。天の御国が近づいているから』と言いながら」と記されています。

ここで何よりも強調されているのは、バプテスマのヨハネが「現れた」ということです。それは旧約最後のマラキ書で、主ご自身が「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を整える……見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤを遣わす」と預言されていたことの成就と見ることができました (3:1、4:5)。

マタイは、何よりも聖書の預言が成就して行くプロセスを描いています。ですから、ここの核心は「神の使い」としての預言者エリヤが「現れた」ということにあります。

今も、ユダヤ人たちは、毎週の安息日の終わりに「預言者エリヤの歌」を唱和します。そこでは、「預言者エリヤよ、テシベ人エリヤよ、ギレアデ出身のエリヤよ、速やかに我らの世に、我らのもとへ来りませ。ダビデの末なるメシアとともに」と歌われます。

バプテスマのヨハネが現れた」という表現の中に、ユダヤ人たちの憧れていた「救い」の時代が「到来した」という喜びを、私たちはここに見る必要があります。

しかも、ヨハネのメッセージは単純明快です。ただ、「悔い改めなさい」という訳には個人的に抵抗感があります。ギリシャ語の「メタノエオー」の中心的意味は、「心の方向転換」です。英語ではほとんどの場合、Repentと訳され、その中心は自分の生き方が間違っていたと「悔いる」ことですが、日本語では悪い生活習慣を「改める」という行動の変化の方がイメージされがちかもしれません。

「それが簡単にできるなら、世話がない……」ばかりか、「神にすがらない意志力の強い人の方が、実行できる……」という面があります。しかし、神が望んでおられることは、「自分を神とする」という生き方を改め、いつでもどこでも全世界の創造主を自分の人生の主と認め、主に祈り、主にすがりながら生きるということです。

天の御国が近づいた」は、文語訳では「天國は近づきたり」と訳されていました。そこから多くの誤解が生まれたのかと思います。これはマルコやルカが「神の国」と記すのと基本的に同じ意味です。それは、目に見える世界が消えて「天国が実現する」ということ以前に、「今、ここに天の神のご支配が明らかにされる」ことを意味します。

天の御国は「まだ実現してはいない (not yet)」と同時に、「今この時からすでに始まっている (already)」という両面があります。なお、当時のユダヤ人たちは、「天の御国の現れ」というとイザヤ書35章を思い浮かべました。

そこでは「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び踊り、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う…彼らは主 (ヤハウェ) の栄光、私たちの神の威光を見る……神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ」(1、2、5、6節) と「天の御国の現れ」が描かれていました。

イエスのいやしのみわざは基本的に、イザヤ書35章に描かれていたことが「ここに実現した」という意味を示しました。「イエスの現れ」こそ、「天の御国の現れ」だったのです。

それにしてもイエスは公の宣教の初めに、「バプテスマのヨハネ」と全く同じく「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」と述べます (4:17)。ヨハネの場合は「救い主の到来が目前だ」という意味でしたが、イエスの場合は、「ご自身がイザヤ35章などに預言された天の神の支配をここに現わす」ということを意味しました。

どちらにしても、福音の核心とは、「死んでも天国に入ることができる」ということ以前に、「天の御国が、今ここに実現する」ことを意味しました。新約聖書のメッセージの核心とは、イエスにおいて「天の御国」または「神の国」が「この地に到来した」ということです。

このことばを使わずに聖書的な福音を語ることができるのでしょうか?「あなたは死後、天国に行けますか?イエスを信じないと地獄に落ちますよ……」などという福音の提示の仕方が、新約聖書のどこに記されているでしょう?

3節は「この人は、預言者イザヤによって言われた人である。『叫んでいる者の声、荒野において』、『用意せよ、主の道を、まっすぐにせよ、その道筋を』と」記されています。これはイザヤ40章からの引用で、その初めでは「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と記されます。キリストの物語を歌うヘンデル作の「メサイア」では最初にこの1~3節までが歌われます。

2節では、廃墟とされたエルサレムが神の都として復興されることが歌われ、3節での「叫んでいる者の声」は、荒野に(ヤハウェ) の道を整えよ。荒地で私たちの神のために大路を平らにせよ……」と訳すことができます。これは本来、長くその町を空けていた王の帰還に先立ち、馬車が通る道路を整備するようにと呼びかけることです。

そしてこの福音書では、「バプテスマのヨハネ」が、「荒野で叫ぶ者の声」としてその預言を成就したと紹介されます。原文での「荒野に」は、「叫んでいる」にも「道を」にも、どちらをも修飾するとも考えられますが、イザヤの文脈では、整えられるべき道の状態が「荒野……荒地」と強調されています。

ヨハネの働きは、王であるキリストを迎える道の状態を「平らにする」ことにありましたが、彼自身が「叫ぶ」場は「荒野」でした。

私たちの心は荒野の状態で、主が入ってこられるのを妨げる様々な障害があります。ヨハネはまずそれを「整える」ようにと呼びかけます。あなたの心には、主をお迎えする道が備えられているでしょうか?

自己満足にひたり、心の渇きの声に耳をふさいでいるなら、どんなに福音が分かりやすく語られても理解することはできません。ですからイエスは山上の説教の初めで、「(霊)の貧しい者は幸いです」と言われました。そこに主を迎える「心の中にシオンへの大路」(詩篇84:5) が開かれているのです。

2.「聖霊と火によるバプテスマ」

ここでは引き続きヨハネの姿が、「このヨハネ自身はらくだの毛の衣をまとい、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」と描かれます。これは、北王国の偶像礼拝を責めるために遣わされた預言者エリヤの姿が、「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人」と描かれたことを思い起こさせます (Ⅱ列王記1:8)。それは「ヨハネがエリヤに倣う」生き方をしていたことを示す表現です。

そしてそこで起きたことが5、6節で、「人々がヨハネのもとに来続けていた、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から。そして彼らはバプテスマを受けていた、ヨルダン川で彼から、自分の罪を告白しながら」と描かれています。

不思議なのは、彼らがエルサレム神殿に行って、罪の告白していけにえをささげる代わりに、ヨルダン川でバプテスマを受けたことです。それは、たとえばツァラアトに冒された人が癒されて宿営の中に戻る際に、全身を水で洗うようなことを連想させます。

彼らが神殿に向かわなかったのは、当時の神殿のシステムが「まことの神から離れているのでは……」という疑問を持っていたからでしょう。バプテスマの意味以前に、彼らがまるで神殿システムに反抗するかのように宣教するヨハネのもとに行き、ヨルダン川で彼から新生の洗いを受けようとしたこと自体が驚きです。

そればかりか、「大勢のパリサイ人やサドカイ人がバプテスマを受けに来た」というのは何とも不思議です。これは、彼らも当時の神殿システムに疑問を持っていたというしるしだと思われます。

普通だったら、そのようなとき、指導者は自分のもとに来た人を心から歓迎するはずですが、ヨハネは彼らに「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるように教えたのか。それなら、実を結びなさい、回心(メタノイア)にふさわしいものを」と迫ります。

それは、彼らの動機が単に「迫り来る」神の「怒り」を回避することばかりにあり、「この地で新しい歩みをする」という真の覚悟が見られなかったからです。

しかも当時のイスラエルの民は、「心の中で」「われわれはアブラハムを父として持っている」と、血筋や伝統を誇るばかりで、生き方が神の民にふさわしいものにはなっていませんでした (9節)。

それに対しヨハネは、「神には可能なのです、これらの石ころからでもアブラハムの子らを起こすことが」と大胆に語ります。ですから、ここでの「回心にふさわしい実」とは、この世的に尊敬されるような人間になるということではなく、不可能を可能にすることができる神に徹底的に信頼する生き方を指します。

そして10節では、「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて火に投げ込まれます」と厳しい警告が発せられます。

また12節でも、「彼の手には箕があり、ご自分の脱穀場を掃き清められます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」と記されます。旧約での救い主の到来には、神の敵に対するさばきが伴われ、そこでは「永遠の火のさばき」が警告されています。

しかし、「」には「精錬し、純粋にする」という働きもあります。マラキ3章2、3節では、救い主の到来に関して、「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことにこの方は精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる」と描かれていました。

それを前提に、ヨハネは自分のバプテスマと救い主によるものとを比較しつつ、「この私はあなたがたにバプテスマを授けています。それは水による、回心のためのものです。

しかし、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履物を脱がして差し上げる値打ちもありません。その方は、あなたがたにバプテスマを授けられます。それは聖霊と火によるものです」と述べます。

ヨハネのバプテスマは、心の方向転換を生み出す水によるバプテスマでしたが、救い主が私たちに授けるバプテスマは、「聖霊と火によるもの」だというのです。そこには先のマラキ書に記されているように、恐怖が伴います。聖霊は私たちの心の内側に働き、神のみこころを行いたくなるように、私たちの意志を整えます (エゼキエル36:27)。

また、「」には、私たちの心を「精錬する」力があります。たとえば、私たちは本質的に自己中心的で、「神のために働く!」と言いながらも、いつもそこに名誉心や、人に影響力を発揮したいという権力欲が伴いがちです。

精錬のための火」は、それらの不純な思いをきよめて「純粋にする」力があります。しかし、ほとんどの場合は、そこには大きな痛みが伴います。なぜなら、私たちは自分が傷つくことによってしか、「私は変わらなければならない!」と心の底から願うようにはならないからです。

聖霊と火のバプテスマ」には激しい痛みが伴います。しかもそれは、水のバプテスマとは違い、継続的なプロセスです。私たちは、日々、聖くされて行く必要があるからです。

3.「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」

13節では突然、「そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった」と記されます。6、11節にあったように、水のバプテスマには「罪の告白」また「回心」という意味が伴っていました。ですから、罪のないイエスは、本来これを受ける必要がありません。

14節を見ると、ヨハネはイエスを見るなりそれに気づいて、「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところに来られたのですか」と問いかけます。

それに対しイエスは、「今は、そうさせてほしい。それは私たちにとってふさわしいことだからです。そのようにして、すべての正しいことを成就することになるからです」と言われました。ここでの「私たちにとって」とはイエスご自身とヨハネを指します。それは神のみこころの成就には、ヨハネの協力が必要という意味です。

イエスのバプテスマはご自身を罪人と一体化されたというしるしでした。最初の人アダムは、神から「あなたは(善悪の知識の)木から食べたのか?」と問われたとき、「この女が……くれたので」と言いました (創世記3:11)。アダムは最初、エバを自分と一心同体の者と呼び、その関係を心から喜んでいたはずなのに (同2:23-25)、いざとなったらすべての責任を妻に負わせ、自分は逃げようとしたのです!

しかし、イエスは、妻のすべての責任を自分で担う夫のようになられました。主は、ご自身の被造物である人間をあわれみ、まるでご自身こそが悔い改めの必要な罪人であるかのようにバプテスマを受け、強盗の仲間として十字架刑を受ける歩みを始められたのです。これは私たちの生き方と何と対照的でしょう。

キリストのバプテスマが、「罪人と一体化する」しるしであるなら、私たちが受けるバプテスマは、義に満ち溢れたキリストと一体化する「しるし」です。それは「キリストにつぎ合わされる」(ローマ6:5) とあるように、イエスとの結婚式のようなものです。

私が結婚したとき、私の借金と家内の貯金が一体化されました。同じように、キリストとの結婚によって、あなたのすべての罪がキリストのものとされ、キリストに属するすべての良いものと祝福があなたのものとされます(マルティン・ルター:キリスト者の自由)。

あなたの罪がどれほど大きくても、キリストが持たれる義の豊かさの中に、大海の一滴のように呑まれてしまいます。

あなたが、どれほど貧しく、卑しいとしても、新郎であるキリストの豊かさと高貴さが、それを全部包んで余りあります。そのことをパウロは、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3:27) と大胆に保証しました。

ヨハネのバプテスマは回心のしるしでしたが、キリストは「聖霊と火とのバプテスマ」(3:11) によって、アダムの子孫である私たちの心を内側から造り替え、律法の中心である神への愛を起こしてくださいます。それは、自分のことしか考えられなかった妻が、夫の無限の愛を受けているうちに、愛の人へと成長させられるようなものです。

イエスがバプテスマを受け「水から上がられた」ときのことが、「天が開け、神の御霊が鳩のように下って、彼の上に来た」(16節) と描かれます。これは、神がイザヤを通して語られた「(ヤハウェ) のしもべ」(イザヤ42:1) としての働きにつかれたことを意味します。

神はそこで、「見よ。わたしのしもべを。―彼をわたしは支えているーわたしが選んだ、わたしの心が喜ぶ者。彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきをもたらす」と言っておられます。このときそれが成就し、神はイエスを「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(17節) と呼ばれました。

マルコやルカは、神がイエスに語りかけられたままを、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11、ルカ3:22) と記録しています。私は以前、これを神のひとり子であるイエスへの特別な呼びかけだと思っていました。しかし、これは現在、私やあなたへの語りかけとなっているのです。

私たちがキリストと一体とされ、キリストをその身に着たのであれば、それは、神が今私たちを、「キリストを通して見てくださっている」ということです。

今、イエスの上に下られた聖霊が、私たちに与えられています。パウロはそのことを、「時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。これは律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました」(ガラテヤ4:4-6) と述べています。

神は、ご自身の御子を、罪人と一体化させるために遣わされました。そして罪人と一体化したイエスに対し「わたしの愛する子……」と呼ばれ、イエスは「アバ、父」と応答されました。私たちは、この「御子と同じ立場を与える御霊」を受けたのです。

私たちはこのままで、御子が信頼を込めて「アバ」と祈られた、その同じ祈りをイエスの父に向かって祈ることができます。しかもそれは、神が私たちに「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語りかけてくださることへの応答なのです。

バプテスマのヨハネは永遠の「火のさばき」を強調しましたが、同時に、救い主が「聖霊と火によるバプテスマを授けてくださる」と約束しました。そこには手術台に上るような恐怖が伴いますが、イエスは信頼できる最高の名医です。

ヨハネは私たちの根本的な問題を指摘する存在でしたが、イエスは私たちを心の底から癒してくださる方です。その際に必要なのは、強がりを捨てて、イエスに徹底的に心を開くことです。

私たちの内側にはときに「人が、私の心の中にある思いをみな知るなら、私を軽蔑して逃げ出すかもしれない……」という恐れがあり、この世が与える評価を上着として身を隠したいという思いがあります。

しかもどこかで、「このままの自分が愛されるわけはない……」と思い込まされ、心に深い傷を受けている場合があります。その傷が、人への攻撃や怒りとなって現われます。

しかし、キリスト者であるとは、「こんな私が、こんなに愛されて良いんですか?」という感動を深め続けることです。そして、イエスが神に愛された御子として、人々の悲しみや痛みを担われたように、私たちもその生き方に倣います。

また、イエスがこの世界に再び現れるときに、様々な問題が即座に解決し、シャロームが訪れることになりますが、私たちは「その期待は裏切られることがない」と、日々の生活で証しできるのです。